白魚の指
ふと、
眼に留まった指…。
白魚の指というのは、
あの方の為に存在する言葉かもしれない。
…公の席では手袋の上からしか窺い知れないけれど、
手袋の無い時は、勿論だが。
その造作が美しいとかだけではなく
…その指先が語る表情、
手が醸し出す言葉
そんなものも含めて、やはり、美しいのだとため息をつく。
このベルサイユに於いて
顔や、スタイルの美しさにおいて
…もしかしたら他に秀でている女性も居るかもしれないが、
オーストリアの皇女として生まれ育ち、
異国の香りを持ちながらも
その華が咲き誇るこの時期を
この国の王侯陛下として過ごしている、
その自信と高貴な気高さが、
誰よりもあの方を、
そう、
右に出るものが居ないほど、輝かせているのだろう。
また、道ならぬ恋に身を焦がしているからこそ、
より深みを増して…。
ふと、
垣間見える表情の哀しさ,仕草もまた、
あの方をより一層魅惑的にさせるのだろう。
…そう、
透きとおる様な、ミルクに薔薇の花弁を浮かべた如く
美しいあの方の真珠色の肌。
(…それに比べ私の陽に焼けた肌の色。)
細く、折れそうな、
男であれば抱きしめて守りたくなる様な華奢なウエスト。
幼い頃からのコルセットの賜物といっても、
(私のこの有るか無いかのウエストとは天と地の差。)
美しく結い上げられた髪
…それを彩る羽飾り。
(私に至っては、比べようも無く、
何もしていない伸びっぱなしの髪に見えてしまうに違いない。)
ソワレをより優雅に魅せる、首筋から、鎖骨、肩のラインは、
ため息が出るほど艶かしく
女の私でさえもその美しさに見惚れてしまう。
(刀傷のある肩等出せたものでもない。)
あの方を演出する香しい白粉や、
香水の香りにしても(…然り。)
あの方の儚さ、
女性らしさを
より輝かせているジュエリーの数々も、
また…。
イヤリングが揺れる度、
胸元のネックレスが輝く度、
あの方の為にそれらが煌いているとしか思えない。
(…そう思う私が居る。)
あの方の素直な天真爛漫さ、
その危うさ、
愛らしさ、
それから…。
嫌だな。
数え上げれば限が無い。
嫉妬に眩暈がする程だ。
14歳の頃から近しく、
本当に近しくあの方をお守りしてきたのだから、
私にとってあの方は、特別な方なのに。
ある意味、私の運命の方。
なのに…
最近こんな事が気になってあの方をつい、眼で追う私が居る。
そして、あの方を想う彼の視線もまた。
男性であれば、あの方に恋焦がれるのは、仕方が無いのだ。
わが身の愚かしさに、苦笑いしている自分に気付く。
フェルゼン。
お前が遠くアメリカの独立戦争から帰ってきてくれて、
それだけで嬉しかった。
私よりも先ず、王侯陛下にお逢いしていようとも、
私にも会いに来てくれた事。
長い月日を越えても尚、断ち切れぬ運命を、
確認した逢瀬の後でも
お前は友として私の前に、帰って来てくれた。
病のため、少し、やつれてはいたが、
何よりもお前が生きていてくれた事。
生きているお前の手に触れ、親友として握手し…。
其れだけで、
何も要らなかった。
嬉しかった。
本当に…。
あの独立戦争が終っても、帰ってこないお前を待っているのは、
胸が張り裂けんばかりに、心配で、
苦しくて、
お前の身に、その命に何か有ったのではないかと
不安に訳も無く苛立ち、
平静では居られず、
アンドレに無理強いし、
盛り場で私は酒に逃げた…。
溺れたかった。
「王妃の犬」と罵られ、
喧嘩をし、暴れもした。
もともと淑女のやる事では無いが、
私にはそんな事しか出来なかった。
淑女とは程遠い、
女でもなく、男でもないこの身の上。
そんな狭間で揺れ動く女の私が、貴方を想っているのだから。
帰りの夢現の中、
遠い意識の底で、
帰って来たお前に再会し、
…口づけを交わす…
そんな夢を見た。
何故か哀して切ない夢。
恋とはこうも人を狂わすものなのか。
アンドレ、お前が聞いたら驚くだろうな。
苦笑するだろうか。呆れるだろうか。
あの方が、
フェルゼン、お前の全てである以上、
有り得ない現実。
莫迦だな、言えるものか。
私だけの秘密の夢物語。
お前の前で、私は私の被る仮面が、硝子の様に脆く崩れ去るのが、
何よりも怖い。
何処かで、
壊れてしまえと叫ぶ、私が、
日々大きくなっていくのに
怯えている。
そして、
あの方と、私を、愚かにも比べ、
到底、叶うことが無い想いに
自己嫌悪に陥って…。
どうにか成りそうだ。
こんなにも、自分が弱いものなのかと
哀しくて、
何時になったらこの迷宮から出られるのだと、
苦しくて、
あがいている。
私は、
ゆっくり、
じっくりと
確実に
真綿で毎日締め上げられているようだ。
行方不明になったロザリーを探す口実に、
黒い騎士の情報収集を口実に、
お前に逢いに行く私。
彼女が到底彼の元へ身を寄せるとは思ってないのに。
そう、
逢いたいのは私の心。
滑稽だ。
お前を諦めようと仕事に没頭しても、
危険な任務に身を投じても、
逢いたくて、
お前の瞳、
お前の声に逢いたくて。
お前もこんな想いを抱えながら、
あの方を想っているのだろうか。
…逢う事さえ侭ならない恋人に。
お前の運命の恋人に。
あの方を想い、
あの方を護る友人としての私に
あの方を護ってくれと
手を握るお前。
…流れ込むその想いに、
私の中の女は
いつもその想いに
置き去りにされ、
寒くて凍えている、迷子のようだ。
あの時、
窓硝子に映る私の顔を
もし見られていたら、
どうしただろう。
お前は、
そして私は…。
壊れそうな私の…仮面。
限界だ。
諦めるしかない事を解っているのに、
お前に逢う度、
厭というほど思い知らされるのに。
ほの暗い闇の底から、
何時になったら、這い上がれるだろうか。
・・・ジャンヌ。
お前の生き方が、私にとってある意味羨ましいのかもしれない。
サベルヌのあの炎の中でも、お前の消えることの無い、
燃えるような瞳。
初めて、出逢った時から、変わらないあの、
ギラギラと欲望を秘めた、燃える瞳。
善、悪に囚われず、
自分の強い思いに身を任せ、欲望のままに生き、
結果、あの様な最期を迎えたお前。
逞しく、恐ろしい女。
そう、女なのだ。
お前ほど、自分に正直に、生きた女は居ないかもしれない。
世間を巻き込み、王侯陛下を貶め
天に唾を吐きながらも、
尚、強く、逞しく生きてきたお前。
ただ、
幸せの方向を、間違えてしまっただけなのかもしれない。
欲望に身を任せ
決して自分を見失うことの無かったお前が、
愛する夫を失うことで、
初めて我を失った。
…狂気。
お前の瞳のように燃さかる炎の中で
窓からの、転落死。
爆発。
壮絶な死…とは、ああいうものだろうか。
…私も本当は、死んでいたのだ。
あの遠くサベルヌの地で。
アンドレ、
お前があの時現れなければ…。
剣が私を貫いていたとしても、
爆発に巻き込まれていたとしても
おかしくなかった。
初めて死を覚悟し、叫んだお前の名前。
他の誰でもない。お前の名前。
…考えれば、奇跡の様なもの。
声が届く筈の無い、あの距離を考えれば。
アンドレ、
お前が来なければ、
今回の成功は無かったし、
私の命もあの時無くなっていただろう。
私は、お前に生かされたのだ。
そして、奇跡に。
もし、奇跡が、私の命を救ってくれたのならば、
ジャンヌ、
私もお前の様に、
一度位、
自分の想いに身を任せてみても罪にはならないだろうか。
あの方の様に、
一度位、
私も女性として、彼の腕に抱かれたいと思うのは、罪だろうか。
男でも、女でもない、この私が、
あの方の様にとは、叶わないまでも、
女として、装い、彼の腕に抱かれてみたい。
親友でもなく、王侯陛下を護衛する将校でもなく、
ただの女として彼に会ってみたい。
剣ダコばかりの私の手…例え白魚の指の持ち主でなくても、
例えまやかしの、貴婦人でも、
女として。
そう出来れば、私は、彼を諦められるかもしれない。
この迷路から抜け出し、私は私として生きていきたいのだ。
フェルゼン、
お前は、破滅へと向かっていくのが解っていながらも
あの方との恋に運命を感じ、
男らしく身を殉じる覚悟でいる。
そんなお前だからこそ、私は恋に落ちた。
そんなお前でなかったら、私は、恋に落ちなかった。
はじめから、結ばれようとは思っていない。
だから、
私は…私の恋を封印するのだ。
だけど、せめて…、
奇跡にこの命を救われたのならば、
偶然聞いた夜会への出席。
私は、
ソワレを装い、
化粧をし、
髪を結い上げ、
貴方の前に女として現れてみたい。
それを罪だというのなら、罪に問われても構わない。
ジャンヌ、
私には、
お前の様に
炎に焼かれる程の
狂気を帯びた情熱は持てないが、
お前の様に、
自分の気持に、
自分の想いに
偽る事無く
正直に
身を投じてみたいのだ。
悔いることが無い様に。
あの時から始まった恋
…焼いてしまった日記に記されてきた想い。
本当の意味で、封印する為に、
私が、私であるために。
これからは、
正直に、自分の気持に向き合い、
問い掛ける為に。
私の生きる道を
自分自身の足で
前を真っ直ぐ見つめ歩く為に。
誰に指図されるでもなく。
そして、
あの日以来、初めて開く日記に、
私は綴る。
今日は、一言。
『最初で、最期のソワレの袖に身を通す。』…と。