黒曜石の無言歌
あの時、
躊躇いが無かったと言えば
…多分其れは嘘になる。
このオルレアンの居城を目の前にし、
…俺は一瞬立ち竦んだ。
ジャルジェ家を出た時は、
何も考えずに飛び出して来た俺が…。
お前のパレ・ロワイヤル訪問。
其れが何を示唆するものなのか
どんな危険が待っているのかを、
お前も、俺も、解っていただろうに。
「指示するまでほうたいはとらんように」
「でないと片目を失明するかもしれない」
俺の中で、
先生の言葉が繰り返される。
本当だったら、
平民の俺が会う事さえ出来る筈の無い
腕利きの高名な医師の言葉。
間違えの無い…確かな診断だろう。
ジャルジェの家だからこそ、こんな待遇をして貰えるのだと
お婆ちゃんが、何度も泣きながらお礼を、言っていた。
奥様も、旦那様も、当たり前の事だと言ってくれたが、
俺の為に
そんな事をさらりと言ってのける
あの家の主の思い、懐の大きさに、改めて触れ、
俺は、俺の罪深さに、胸が痛んだ。
果たして、俺は彼等の信頼に足る人間で在るだろうかと。
俺はお前の傍らで、お前に傅きながらも、
いつも、お前を激しく求め、
心の闇、迷宮を彷徨っているのに…。
心の奥底で、良心の呵責の鈍く重い痛みを感じ、
瞳の奥の何処かで、焼付く鈍い痛みを感じた。
失明と云う言葉が俺の中で繰り返される。
失明…
永遠に光を失うと言う事。
光を失う…。
愚問だな。
…俺の光は、お前。
オスカル、お前だけが俺の光。
其のオスカルは今、此処にいる。
奴等の手の中に。
お前は、賭けたのだ。
この場所に。
黒い騎士に攫われたロザリーを、助ける為に。
事故で怪我をした俺に、お前が一切の罪を感じた為に。
…相変わらずだな。
今度の件の全てを、自分の中に抱え込み苦しむお前。
お前の罪では無いのに、お前は全てを背負い込んでしまっている。
そう、
あれは事故でしかないのに。
お前は誰よりも自分に厳しく、人に優しいから…誰よりも苦しむのだ。
その癖、
一度頭に血が上ると
前後の見境が付かなくなってしまう其の気性。
普段はあんなに冷静な氷の花と呼ばれているのに。
其れがお前の欠点でも有り、長所でも有る。
お前は
生きる事に余りにも真摯で、一生懸命だから。
青い瞳を美しく煌かせ、いつも前だけを見、前へと進む。
何よりも心の正義を重んじ、武官でも有るお前は、
常に危険とはいつも隣り合わせだ。
そんなお前の魂を俺は好きなのだ。
そして、俺はそんなお前を護る者。
此れ位の事は、俺はいつでも覚悟している事。
お前の側に居るという事はそういう事なのだから。
怪我をしてしまったのは俺の力量の無さ故。
だが、今回、お前を救う役目は、俺でしか出来ない。
俺に与えられたこの役割は、俺だけのもの。
俺は、この上ない幸せ者だ。
俺の命で済む代償ならば…それは、安いもの。
お前を護り続ける事が俺の役割。
俺の全てが試されるようだ。
済まない、オスカル…
一人で飛び込んだお前の覚悟、その思いに、
もっと早くに、俺は注意すべきだった。
幾ら療養中とは言っても。
甘かった…
お前の気性を一番知っているのは、この俺なのに。
俺は俺の配慮の無さに今更ながら唇を噛む。
いつになったら、お前をもっと自由に羽ばたかせる事が出来るのだろう。
俺はいつになったら、お前を護るの力を身に付ける事が出来るのだろう。
いつも繰り返されるこの言葉を心に刻む…。
今も帰ってこないお前を思えば、
やはり事は一刻を争う。
お前の肩書きが、お前を危険に導くだろう。
近衛隊准将オスカル・ド・ジャルジェ。
奴らには又と無い美味しく、美しい餌食。
奴等の居るパ・レ・ロワイヤル。
此処は、特別な場所。
余計な侵入者…其れは、逮捕を意味する。
いや、逮捕で済めば、運がいい。
実際の所、
秘密裏に処理されても仕方が無い場所。
セーヌに浮かぶ顔の潰れた身元不明者として
其の身が世に出れば良い方だろう。
しかし、黒い騎士ならば。
お前を助け出す事が出来るかもしれない。
あの時見た奴等の影、
あれは、確かにこの場所に入っていったのだから。
俺が黒い騎士になったのは、もしかしたら、この時の為なのか。
本物に出会った事も、全てはこの時の為の神の悪戯か。
王制に、疑問を持ち、
義賊という形で、立ち向かっている、
俺に良く似た容姿の男。
全く俺とは違う立場の本物の黒い騎士。
だが、
もしかしたら、
何処か、近いのかもしれない…俺達。
こんな形や、立場での出会いでさえ無ければ。
俺が、黒い騎士として貴族の屋敷に侵入していた時、
お前の怒りや魂が何処かで近くに感じられる事があった。
神の操る運命が有るのなら、良く出来たものだ。
お前は民衆の為に生き、俺はオスカルの為にだけ生きるのだから。
もう一度、この居城を見上げ、一歩を踏み出した。
この闇であれば、確立は、半分。
迷ってなどいられない。
神に祈り、俺は、包帯を一気に取り去り、仮面をつけた。
全ては、オスカルの為に…
俺の片目等、お前の為なら、少しも惜しくは無い。
俺の命は、あの瞬間(とき)から、お前のものだ。
少しも、惜しくはない…俺の全て。
暗い闇夜に
白く長い包帯が、風に靡き…踊り、舞い上がった。
犀は投げられたのだ。
俺はルビコンを渡るのだ。
「黒い騎士 早かったじゃないか!」
俺の姿を見て、声を掛けてきた其の男に、
心の中では驚きながらも、取り合えず平静を保つ。
俺は…
運がいい、
初めて出逢った、
パ・レ・ロワイヤル側の人間は、
…黒い騎士の仲間。
(奴は俺を見間違えてくれている。)
「例の近衛連隊長をあの娘とおなじ部屋にとらえてあるんだ」
二人とも一緒か…良かった手間が省けた。
名前の解らないこいつを最後まで、
俺は、上手く誤魔化せるだろうか。
「よし!すぐ別の場所へ2人をうつす」
余り声質が解らない様に、少し苛々した早い口調で俺は言った。
黒い騎士はまだ此処には居ない様だ。
(今、此処での鉢合わせだけは拙い…。)
俺は、オスカルの事だけを考えた。
「人目についたりしたら…」
「つべこべいうな!」
時間が無い。
(もし此処で奴が帰ってきたら、全ては台無しだ。)
必要以上の事は喋ることは出来ない。
(其れはお前の命を危険に晒してしまうのだから)
何をどう考えるべきか、少ない情報から整理し、
確実にお前を救出する方法を、模索した。
どんな状態で、彼女が居るのか、脱出できるのか。
嗚呼、神よ。如何か…我を助け賜え
俺は神に祈るしかない。
奴に案内された
長く、暗い地下へ続く階段。
この遠近感の無さは計算外だった。
(初めての感覚。踏み外すわけに行かない)
焦る俺の心を嘲笑う様に
慣れなくて、やはり、踏み外しそうに為った。
「だいじょうぶだ、すべっただけだ」
取り繕う俺を、奴はどう思っているのだろうか。
其の一歩、一歩が、重く苦しく圧し掛かる。
妙な気分が俺を、不安へと誘う。
片目を失うと云う事はこういう事なのだと
改めて、肝に銘じるしかなかった。
これから此の先は、
俺はこの眼でお前を護り切らなくては為らないのだ。
俺は、失敗は出来ない。
不審に思われては為らない。
チャンスは一度切り。
高鳴る胸。早鐘の様だ。
汗が背中に滴り落ちる。
瞳の奥の痛みが、より、鈍く、重く、熱くなる。
大丈夫だ、お前だけはどんな事が会っても、必ず助ける。
そう何度も心の中で繰り返す。其の思いが、お前に届く様に。
まるで呪文の様に
重たい扉が開く…
神に祈りながらも、多分俺はお前の為であったら、
悪魔にも祈りを捧げるかの知れないと、ふと思いながら、
案内をしてくれた者を、気絶させた。
「アンドレ!!」
オスカル…お前の声が愛しく響く。
お前が無事で良かった。
いつもより蒼褪めたお前の顔が、こんなにも愛しいとは。
抱きしめ、お前を掻き擁き、
くちづけをしたい衝動に、俺は駆られながら、
其の思いを隠し、冷静に脱出の手口を考える。
時間が命を刻む、事は一刻を争うのだ。
そして…
短い時間の筈なのに、酷く長く感じる時間。
祈りを捧げるしかないのか。
俺は、黒い騎士を伴った馬上のお前を凝視する。
視線を離す事が出来ない。
お前の身を案じ、
気が狂いそうになる気持を抱え、俺は祈り続ける。
早く、ゆっくりと、確実に門まで行く事を。
そう…慌てるな、
静かに門まで行け、
オスカル。
黒い騎士が不審な行動をしない事を、
俺は、ただ、祈るしかなかった。
ようやくお前が門を出て行き、馬を一気に走らせた。
其の影が消えるのを確認した。
大きな溜息が俺を安堵に誘う。
「ばっかやろう!!…いまのはニセモノなんだぞ」
門を出さえすれば、馬にさえ乗っていれば、
お前の事だ。もう安心だろう。
「どれだけ苦労してあいつをつかまえたと思うんだ!?」
やはり、神の御業…ただ感謝するしかなかった。
此れが俺のこの瞳との交換条件であれば、安い物だ。
「かえってじゃまになる!!」
「オルレアン公へのいいわけでも考えておけ!!」
俺はまだ続く鈍い痛みを伴いながらも、
勢い、騒ぎを起こし、其の土壇場に乗じ、オスカルを追った。
お前が無事で良かった。
心から神に感謝を捧げながら。
やはり神は存在するのだと肌で感じ、…俺は風を切った。
奴が此の侭、
何も仕掛けずに終わるとは限らないのだから。
突然の王宮の早馬車が通る。
皇太子殿下に何事か有ったのか。
嫌な予感が俺の心を横切った。
そして…
唐突に、
静かな闇に響く一発の銃声。
やはり、何事か仕掛けてきたのか。
オスカルは無事なのだろうか。
俺は馬の腹を強く蹴り、急いで、走らせた。
「よくも私のアンドレに!」
お前の苦しみを心の底から、搾り出す様な叫び声が聞こえた。
俺のオスカルの声。
私のアンドレ…そう叫んだお前の声に驚く。
振りあげた鞭のしなやかな動き。
…間に合うか!
俺はお前を止めるしかなかった。
俺はお前を護るべき者だから。
「アンドレ!」
其処には、驚き、涙を浮かべたお前が居た
「よせっ!」
掴んだお前の華奢な腕は、お前の儚さを表していた。
「はなせっ!!」
お前が叫び、
お前が泣き喚く
「こいつがおまえにしたと同じことをあいつにしてやる!!」
「意味のないことだ!」
俺はお前の腕を離しはしない…此れは止めるべき事なのだ。
こんな無意味な事に、お前が自らの手を血に染める事は無いのだ。
「おまえの片目を 永久にうばったんだ」
お前が俺を思い、
この俺に傷を負わせた事が
お前の心の奥で、深い傷になっているのがよく解る。
「はなせ〜〜〜〜〜〜っ!!」
燃える様な奴に向けたお前の憎悪が、熱く焼ける程に伝わって来る。
そして、其の憎悪の、炎の中…、苦しみ、足掻くお前の心も。
掴んだ腕、
其の響き渡る声
震える唇、
黄金の絹糸の、其の髪一本から、
燃える様なオリオンを浮かべる其の瞳
はらはらと流れる真珠の涙からも、
激しく狂うお前の心が、俺に伝わる。
痛い程に突き刺さるお前の心…
抉り取られるようだ。
オスカル…、
お前が強い光を放てば俺はより暗い影を落とそう。
お前の思いが熱く燃え上がる炎に為れば、
俺はお前を静める冷たい水に為ろう。
こんな風に泣き叫ぶお前を見るのは久しぶりだ。
しかも俺の為に泣いてくれるお前。
「おちつけオスカル!!」
俺は知っているのだ。
お前が、もし此処で
其の湧き上がる憎悪に流されたまま、
空気を切り裂き、其の鞭を奴に振り下ろせば
お前は、必ず深く後悔する事を。
其れこそ、
お前の人格を左右しかね無い程の
深い後悔を心に刻み、
其の自分の行為に、
お前は心を苛まれ、蝕まれるに違いないのだ。
「個人的なうらみはわすれろ」
そう此れは個人的な事なのだ。
お前にも、本当は解っているはずだ。
俺はお前の心に届く様…強く、叫んだ。
お前の中の、高潔な武官の魂が
決して許しはしないのだ。
全てはお前の所為ではない、
お前は独りで抱え込む事は無い。
何故、俺に其の苦しみを分けてくれないのだ。
お前をよく知るからこそ。
黙ってお前をそんな風にはさせはしない。
俺はお前を護る者なのだから。
お前を誰よりも愛しているのだから…。
自分を取り戻すのだ。オスカル…。
「武官はどんな時でも感情で行動するものじゃない!!」
幼い頃から何度もそう言っていたお前の言葉を俺は叫んだ。
あの幼い日…、
子供ながらに剣を翳し、俺の前で陽の光を浴びたお前は、
誰よりも気高く、俺にはいつも眩しかった。
「いいか、アンドレ、武官はどんな時でも感情で行動するものじゃないんだ」
そう繰り返すお前の言葉に俺は、つい、悪戯心を起こした。
「じゃあ、何で行動するんだ。」
そう其れは、旦那様の受け売りだろうとそう思っていたから。
お前はすぐに、にっこりと笑ってこう言った。
「其れは、心の正義の声、武官は国や民を守る者なのだからな」
不意の問いに、堂々と答えたお前に、俺は、驚くしかなかった
お前の心はいつも其処に有るのだ。
あの時と変わらずに、
そうあり続けたいと願っているのだ。
さあ、沈まれオスカル。
其の言葉に反応する様に、
お前の中の荒ぶる魂、憎悪が少しずつ鎮火するのが見える。
お前が其の瞳を激情に駆られ
美しく揺れる炎に燃える様も俺は好きだが、
お前が其の燃え滾る炎を少しずつ鎮火させ
凪いだ海の様な穏やかな瞳の色に戻る様子も好きだ。
俺は其の美しさに、思わず息を呑み、
お前が、無事であった事を、何よりも喜んだ。
もう大丈夫だ。
お前はお前を取り戻したのだ。
そして…ふと…
お前が「私のオスカル」と叫んだ声を思い出す。
友情と言う深い絆で結ばれているからこそのお前の言葉。
俺がいつもお前を傍らに感じ、お前の側に居るからこそ。
不意に俺の胸は熱くなった。
お前の思いが伝わってきて、涙が出そうになった。
例え、その意味が俺の想いとは違っていても、
お前が俺をそういう風に見ていてくれた事…、其れだけで、有り難かった。
お前はいつも、闇に陥る俺をそうして救い挙げてくれる。
お前の心が欲しくて、お前に触れたくて、お前の全てを自分の物にしたくて、
狂おしいこの心を抱え、綱渡りをしている様な俺を…。
「私のアンドレ」
俺はお前が叫んだ言葉を忘れはしないだろう。
お前の中では俺はもうお前なのだ。
例え、愛しい対象ではなくても。
オスカルに、背を向けたまま、
俺は傷つき、気を失った、黒い騎士を背負い、奴を馬に乗せた。
いつ、俺も奴の様に、為るかは解らない…奴は俺の幻影。
しかし今日のこの思いがあれば、
きっと其れは乗り越えられるに違いない。
例え、危く縷々とした細い綱を渡りながらでも、
ぴんと張り詰め、いつ切れるとも知れないG線の様でも。
俺は俺の中の闇、
野獣の様に暴れ狂う心に溺れる事無く…。
お前をこのまま護れる様な気がする。
俺は、泣きそうな気持を抑え、馬に乗った。
もうすぐ夜が明ける。
お前とこうして朝の陽の光を迎える事が出来て、本当に良かった。
いつにもまして、美しく煌く黄金の絹糸の髪
青白い陶磁の艶やかな肌の色。
少し、疲れているようだが、生気を取り戻し輝くそのオリオンを浮かべる瞳。
俺は見える片側でふと盗む様に眺めた。
愛している…誰よりもお前だけを…
お前が生きていてくれさえすれば俺は其れで良い。
傍らで居られさえすれば、俺は其れで良い。
お前がお前でありさえすれば、俺はこの全てをお前に捧げ生きて行けるのだ。
其の想いを永遠に閉じ込め、誰にも知られては為らないと思いながら、
朝焼けと共に囀り始めた鳥の声を伴奏に、お前を想い、心の中で密かに無言歌を歌
った。
俺は、冷たい朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
今日もさぞ、忙しくなるだろうと思い、
眩しい朝の光に煌くお前の姿を愛でながら、再び、無言歌を繰返し歌った。
愛している。
其の想いを歌に込め、
愛しい俺のオスカルへの無言歌を。