慟哭〜暗い闇の迷宮〜
あの瞬間(とき)
私の心を占めていたのは、
…仄暗い憎しみの闇。
緋い炎を思わせる…、
闇を彷徨う狂った様な憎悪。
そう、
憎悪以外何も無かった。
あの時…否、奴の顔を見た瞬間(とき)から、
心の何処か片隅で、
悔しくて、
憎らしくて、
怒りに震えている自分が居た。
人を、
本気で、傷つけ様等と、自分が思い、
その思いに突き動かされる自分が居るとは
…考えても見なかった。
確かに職務であれば…それも仕方が無いと承知はしているが。
あの様な・・・、
自分の感情を抑える事が出来ない程の
憎悪を…
私が抱くとは、夢にも、思ってもみなかった。
今まで、私の人生の中で、
どうしようもない怒りに打ち震え、
悔しさに唇を噛んだ事は、
確かに幾度かあった。
「お前は、一見氷の様に冷ややかなくせに…血の気の多い…」
そんな事をあいつに言われた事もあった。
しかし、どんな時でも、私は、
正しいと思える信念と
真摯に正面から向かい合って、
正直に生きて来たつもりだった。
そう、
ポリニャック婦人に受けた数々の嫌がらせ。
何度か命を狙われ、思い余った彼らが、
王侯陛下の名を騙り、呼び出した私に、
深い刀傷を負わせたあの時でさえ。
背中に受けた今も残る刀の刺し傷の、
其の傷みに耐えていた時でさえも…、
悔しくて堪らなかったものの、
其処まで、権力という底なしの深い欲に陥った彼女を
何処かで、哀れと思う自分が居た。
ジャンヌをサベルヌへ、追い詰めた時でさえ、
もし出来る事ならば、
彼女の命さえ、助けたいと思っていた。
彼らを追い詰めたあの時、
息を呑むような殺意をラモットから感じてはいたが、
彼等に、取り返しつかない程の、痛みや、苦しみを
与えようとは思わなかった。
ああ云う結末しか、無かったのかと
…今でも、ふと後悔が胸を襲う。
他に方法無かったかと胸が痛む。
私が、どうしても許せなかった事があるとすれば…。
空腹の余り、つい盗みを働いた、小さな子供。
許されたと、喜び帰ろうとするあの小さな背中を
まるで、野兎でも狩る様に、
うすら笑いを浮かべながら銃殺した・・・ド・ゲメネ公。
同じ貴族として、人間として、
恥かしく憎らしく思ったあの時。
彼を挑発し、決闘を仕掛けた。
せめて一矢報いたくて。
王侯陛下が、止めに入った為、決闘には至らなかったが、
あの時、彼に、
銃を向けようとした私が、確かに居た。
公を私は傷つけ様と確かに思ったのだ。
しかし、
今回のこの想いは…、
その時とは比べ物にならない。
全く異質の思い。
暗い闇を、揺らめき、彷徨う炎の如き…憎悪。
私は、
裁判官では無いし、
神でも無い。
罪人を自分の手で、裁く事など
考えてはいけない事なのだ。
しかし…。
私の中に巣食った憎悪が、
奴に自らの手で、制裁を加え様と
鞭を手に取らせた。
躊躇いは、一瞬たりとも無く。
私の大好きなアンドレのあの黒曜石の瞳。
其れを取り上げた、…奴への恨み憎しみ。
全てはその暗い闇の憎悪の為に。
黒い騎士。
奴が、アンドレをあの様な目にあわせ、
関係の無いロザリーを攫った。
私は、何とか彼女を取り戻そうと、パレ・ロワイヤルを一人で訪ね、
挙句、簡単に、敵の罠に無防備に、飛び込んでしまった。
自分の力を過信しすぎた、私の過ち。
もう二度と、帰れないかも知れないと、私の迂闊さに、唇を噛む。
巻き込んでしまった、彼女を思い、胸が張り裂けそうだった。
私の至らなさが、こんな結果を招いてしまったのだから。
何故ならば、此処はパレ・ロワイヤル。
どんな権力も、勝手には入り込めない場所。
例え、陛下でさえも。
だから・・・、驚いたのだ。
まさか、
アンドレが、助けに来てくれるとは、
夢にも思ってもみなかった。
彼にパレ・ロワイヤルの事を話した覚えは無く、
ましてや、黒い騎士との関係は、私でさえ半信半疑だった事。
其れなのに、お前は此処に来てくれた。
私の為に、
私を助けに来てくれた。
嬉しかった。
お前の病状を思えば、
其れが如何にお前にとって、どんなに大変な事であるか…、
何と引き換えに助けてきてくれたか…。
その時は、其れを考える事、気付く事も無く…。
身勝手な私は、
ただ、
ただ、
嬉しかったのだ。
皮肉なものだ。
誰よりも、
一番浅墓で、
愚かしく、
罪深いのは、
私自身なのに。
こういう結果を出してしまった私の過ち、失態。
お前が居たから、今の私が居るのだと、改めて、思い知らされた。
脱出を企て、
飛び込んで来た奴の顔を見た時、
あの瞬間のお前の叫び声が、聴こえた。
私の中で、反響する声。
私は、心の何処かで、
全ての
苦しみ、
罪を
奴へと転嫁する。
「へんなまねをしたら、すぐに引き金を引く!」
悔しがる奴の顔を見て、なおも暗い憎悪が、
ゆっくりと波紋の様に広がり、私の心に巣食っていく。
「いいか、本気だぞ!すぐに殺してやる!」
怒りが、憎悪が、暗い闇を照らす炎となる。
「きさまはアンドレの片目をつぶした。」
心の中で、何度も繰り返す言葉…。
そう、アンドレの眼を潰したのは、
直接手を下したのは、お前なのだ。
お前の鞭。お前の腕。そう、お前自身。
心の片隅で、闇が、私の心にそう囁く。
お前だけが、悪いのではない。
お前だけが、瞳を奪ったのではない。
…其れは、私の心の弱さからの囁き。
奴が。
奴が、あの時、鞭を振り下ろさなければ…。
お前のあの黒曜石の瞳は何事も無かったのだ。
あの時のアンドレの叫び声を思い出すがよい、
あの時の飛び散った赤い飛沫を、よく思い出すがよい。
彼の苦しみ、痛み、辛さを…あれは、誰の所為か、
・・・全ては奴が、した事。
奴の罪なのだ…。
小さく、本当に小さく、微かに
だが、
確実に私の中で、巣食う闇の声が私を暗い憎悪へと誘う。
彼らを欺き
無事に、脱出に成功したのもつかの間、
深夜、常時では在り得ない王室の早馬車が通り過ぎた。
驚き暴れる馬から、黒い騎士が落馬する。
彼に近づきながら、
王太子殿下の病態にまた何か有ったのかと、
ふと、気持が逸れてしまった。
私の気の緩み。
一度であれば、人として、仕方の無い事もある。
しかし、二度、と為ると其れは、
もやは、失態でしかない。
武官として、犯しては為らない過ち。
勿論彼は、その気を逃さず、格闘に為った。
落馬は、彼が逃げる為に仕組んだ事。
士官学校の時代の仕込、父の教育の賜物で、
私も喧嘩には自信があったが、
奴の方が、紙一重、場馴れし、数をこなしていた。
多分…大人になってからの数の違い。
常に勝たなくてはならない彼の生き様故の数。
それが、否応無しに表れる。
劣勢だった奴は、私を組み伏せ、覆い被さり
殴りかかろうとした。
また、あの時の二の舞に為ってしまう。
そう思った瞬間…。
唐突に
時間が止まる。
闇を切り裂き響く…一発の銃声。
そして…鼻を突く硝煙の匂い。
震え、驚きながらも、銃を握るロザリーが其処に居た。
響きわたる音の中、
何事か呟きながら、
…崩れ落ちる黒い騎士。
全てが、逆転する。
途端…私の中の暗い闇が、一瞬に弾け飛ぶ。
その名は、“憎悪”…。
熱く全てを燃え尽くす様な火の如く…。
燃え上がり、私の心を占める暗い闇。
「私の顔が見たくないのか?なぜ仮面をとらない」
先程の奴との会話が、通り過ぎる。
「黒い騎士!!」
口にすれば、なお燃え上がる思い。
「のぞみどおり、その仮面をはいでやる!!」
そう、
暗い迷路を彷徨う私の中の憎悪は、全ての罪を奴に転嫁する。
自分で抱え込み育てた闇の感情の赴くまま、私は鞭を取り上げた。
「おまえが…お…おまえが」
静かに為りを潜め、この時を待っていたかの様に、
小さく燃えていた炎が、一気に勢いづき、業火となる。
私は、お前を、決して許さない。
思い出す、あの時の情景。
言葉を繰り返す私。
許さない。
赤い飛沫。切り裂かれた黒曜石の瞳。
苦しみの中、痛みを堪えながらも、私を案じるアンドレ…。
叫ぶお前、傷みによる熱に魘されるお前。
緋く、緋く…流れる血。
永遠に戻らないかもしれない黒曜石の瞳。
私の大切なアンドレを…。
全ては、あの時、
お前が、鞭を振り下ろさなければ、
彼が傷つく事は無かったのだ。
そう、お前は裁きを受けなければ、為らない、罪人。
憎悪は、猛り狂う怒りとなり
言葉として私の体から解き放たれる。
振り上げた鞭が、美しく撓る。
踊るように闇を切り裂き、唸るその音を聞きながら、
私の、心の中の、全ての憎悪が、奴に向う。
泣き叫ぶ、私の声だけが、静かな闇に響き渡る。
「わたしのアンドレにしたとおなじようにしてな!」
「…!」
急に動かなくなる制止された私の手、行き場を失った鞭。
「アンドレ!」
私とは対照的な、静かな瞳のお前が其処にいた。
静かな、本当に静かな黒曜石の瞳。
お前の残った片割れは一縷の憎しみも無く
…私を力強く制止する。
「よせ!」
声に表し、私を捕らえて、離さないお前の手。
…何故だ。混乱する私。
「は…はなせアンドレ!」
お前が一番奴を憎い筈なのに、何故離さない。何故止めるのだ。
「はなせ!!こいつがおまえにしたとおなじことをしてやる!!」
離してくれアンドレ。
私は奴にお前と同じ傷みを与えたいのだ。
お前が現れた事で、
より感情が鮮明になり、言葉が、叫び声をあげる。
「そうしてどうなる!?…意味のないことだ!」
力のある、落ち着いたお前の声が、私の胸を突く。
意味が無い…お前が其れを言うのか、
もうお前の瞳は、戻らないと言うのに…。
お前の瞳を奪ったのは、奴。
今、銃で撃たれ、身動きできない奴。
私の大好きな黒曜石の瞳…。
苦しくて為らない私の心が、泣き叫ぶ。
私のお前への罪、愚かさ、其の全てを含めて、
どうしようもなく泣き叫ぶ私がいる。
「おまえの片目を永久にうばったんだ」
そう、全ては、奴が…、
なのに、何故庇う、何故、私を止める、何故、離さない。
いや、違う、自らの罪、愚かさ、
其処で、認める事から逃げようとする心の弱さも抱え、
お前に許しを請いたくて、
混同するどうしようもない私の心の叫び…。
涙が溢れる、感情が止まらない。もう何が何だか解らない。
ただ、悔しくて、哀しい思い、憎しみが、私を支配する。
「は…なせ!おまえの…片目を…」
止まらない涙。
帰ってこないお前の瞳。
泣き叫ぶしかない私。
「落ちつけ…個人的なうらみは忘れろ!…」
アンドレ…。誰よりも先ずお前が…、
奴を鞭で打ったとしても、誰も、其れを咎めはしないのに…。
・・・そう、
私が、奴を打つのは、そう、恨み、憎しみ、暴走する憎悪なのだ。
折畳むように続けるお前。
しっかりと、闇を彷徨う私に届く様に、響くお前の暖かい強い声。
「武官はどんな時でも、感情で行動するものじゃない!」
“武官は…”
そう、私は武官だ。
他の誰でもない、オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ。
幼い頃からそう育てられた私が、お前にいつも言っていた言葉。
繰り返す呪文の様に、お前に説いていた私の言葉。
「分かるか?アンドレ、
武官はどんな時も感情で、行動するものじゃあないんだぞ。」
誇らしく、剣を捧げつつ、言った幼い日。
尊敬する父上の言葉の受け売りだが、
…其れは今でも、私の信念でも有る言葉。
其れを…お前が、私に説くのだ。
“武官はどんな時でも感情で行動するものじゃない。”
そう、
感情に流されていたのは、私の心。
燃え上がる憎悪に支配されていたのは私の心。
何ものにも流されない、お前の心。
誰よりも、私に同調して、奴を憎んでもいい筈なのに、
静かに落ち着いて、物事を冷静に判断し、私を制したのは、お前。
いつの間にお前は…、
そう、私は武官。
感情で流される心に行動を支配されてはならないのだ。
其れは、武官として、指揮官として、人の命を護る者として、
本来の職務を遂行する為に。
部下の命を、国民の生命を危険に晒さない為に。
必要かつ不可欠な事。
私の心を占めていた闇は、憎悪は、
その炎を、鎮火せざる負えなかった。
この様な場所で、泣き叫んだ私を、
お前は闇から、光へと引き揚げてくれた。
アンドレ。
お前にいつの間にか
・・・遥かに大きく為っていた。
まるで、背を追い越されたあの時と同じ感覚。
気が付けば、お前は大きく背の高い青年となり、逞しい大人になっていた。
そう、否応無しに気が付かされたあの時と同じ感覚が蘇る。
守っているつもりが、護って貰う立場にいつの間にか摩り替わっていた。
不器用なお前のやり方で、着実に一歩一歩…確実に。
そう…。
私が、誰よりも安心できる場所はお前。
私が、誰よりも信頼しているのはお前。
お前が影で私を護っていてくれているからこそ私が、自由に羽ばたける。
影の様にいつも私を支えてくれるお前が居るからこそ。
嬉しい様な、悔しい様な思いが、
心の痛みを伴い、溶け合っていく。
お前を正面からしっかりと見詰める。
「もう大丈夫だ。私を誰だと思っている。」
少し拗ねた口調で、其れでもにっこりと笑ってみせる。
ようやく、落ち着きを取り戻した私は、
気を失っている奴に応急手当を施した。
「私は武官。感情では決して行動する事は無い。」
そう、心の中で、呪文のように何度も繰り返しながら。
お前を思い、冷静に行動する。
奴を捕らえようとした、当初の思いに、心を馳せながら…。
私を制し、闇から引き上げたお前の…強い手の温もりを感じながら。
そして、新鮮な驚きに動揺する私に
お前が気が付く事がないようにと平静を装う。
アンドレ・グランディエ。私の大切な幼馴染。
今更ながら、お前のその大きさに驚き、
私一人ではこうは在りえなかったと、お前の重さを知る。
お前の人間としての
度量の大きさを、私は、誇りに思う。
私も、もっと人として、成長しなければならない。
お前に遅れをとるのは、やはり悔しいからな。
お前にこれ以上寄り掛かり過ぎない様に、
迷惑を掛けない様に、
愚かな過ちを繰り返さない様にしなければならない。
でなければ
幾つお前の命があっても足りないだろうから。
軽々と奴を抱くお前の背中を、私は静かに見つめ、
ロザリーを伴い我が家への帰路に着く為に馬に乗る。
「武官はどんな時も感情で行動するものじゃない。」
そう、お前の言葉を何度もかみ締めながら。
東の空に、微かに光が差し、
夜の闇が、明るさを取り戻した。
…夜が明ける。
もうすぐ朝が来るのだと、
眠っていた鳥達の囀りが、耳に心地良く響く。
冷たい朝の空気が、
私の髪に、頬に挨拶をし、通り過ぎていく。
疲れた体と心を…優しく癒して行く様に。
もしかしたら、
二度と見る事が出来なかったかもしれない
眩しい陽の光と温かさを感じながら。
帰ったら、お前と温かいショコラを飲みたいものだと、
思いを馳せる。
そう…、
私の大好きな時間に思いを馳せる。