蜘蛛の糸〜〜女と男〜〜





「いやああ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!」

突然、
静寂の闇を、切り裂き、
響き渡る、女の声。

哀願し、
助けを呼ぶ、
甲高い、声。


此れは、
誰の声だ。

私の声か…?

其の事実に、愕然とする。

思わず、発した声が、
こんなにも、女を感じさせる声なのかと。
私は、男の前で、こんなにも、ただの女でしかないのかと。
この様な形で、思い知らされるとは。

私の中の、奥深い芯の部分に、
此れ程の女が、巣食っていたのだとは。


私は、一体、誰に、救いを求めるというのだ。
いつも自分だけで、全てを解決して来たと、思って来たのか。
私は、誰に、いつも助けられて来たのだ。

何処かで,自分を嘲笑う。


紛れもない、女。

耳残ったその声は、いつまでも、
高く、細く…心の中に、響いていた。




************




暗い闇。


寒い…。



疲れが、
私に、闇を抱かせ、

心が、膝を抱え
震えていた。

ぐったりと、全てに疲れ、
何も考えたくない自分が、居た。



そんな時に、お前は、
一筋の光を、部屋に入れてくれたのだ。

「どうした あかりもつけないで」

暗い部屋。
独り居る私に、
不審に思ったお前。

「そのままにしておいてくれ!」
思わず、叫ぶ私。

まだ、光は眩し過ぎる。
今は、まだ、光に、身を置きたくは無いのだ。

だが、
独りで居るのは、
余りにも切ない…。

「そばへきてくれ……」

まるで、
親に甘える子羊の様に
お前に、つい、我儘を言う私。

灯りを取りにお前が、
離れて行くのが、何だか寂しくて、
そのまま、お前を、部屋の中に招き入れたのだ。


絶妙に…。
私の精神状態を、見計らっているかの様に、
いつもお前は、現れる。

あまりのタイミングの良さに、
常に、振り回され、
割を食うお前は、
大変だろうが、

今まで、私が、それで、
どれだけ救われてきたことか。

そう、だからこそ、
私は、私に戻る事が出来てきた。

今は、兎に角、お前を、呼び止め、
話をしたかった。

甘いショコラが、
私を癒し、暖めてくれていたのが、
遠い昔の様に、思えて…。

それほど、この数日、色んな事が有り過ぎて、
ショコラの甘さを、私は酷く欲していたのだ。

お前との、他愛も無い会話を。

そんな、私の言動を、不審に思いながらも、
私の甘えを、快く引き受けてくれたお前。


其れがお前に、
どんな魔を、魅せるかとも知らずに。
どんな魔を、引き寄せる事になるかも、気づかずに。

私の傍に来てくれたお前。


お前までもが、
彼の様に、私の傍から、
いつかは、離れて行くのだろうか。

お前だけは、
私の傍から、離れる事は無いのだろうか。

そうでもあるし、そうでもない。
それは、私が決める事ではなく、お前が決める事だ。

ただ、言えるのは

父上も、
母上も、
姉上達も
知らない私の一面を
一番、知っているのは、お前だけだ…と言う事。


「おぼえてるか……?わたしたちがはじめてあったころのこと……」

「どうした? きゅうに……」
いつもの様に、軽口から始まる、二人の会話。

「ああ、おぼえているとも」
そうして、
語りだす、お前。
あれから、二人の過去は、
私はお前、お前は私と為り、重なって来たのだ。


あの時、初めて
屋敷にやって来た、
ばあやの孫。

階段下に立つ
母を、亡くしたばかりのお前は、
父も、既に無く、
ばあやだけが頼りの、
儚げなで、小さな黒髪の少年だった。

母上や、父上が、亡くなってしまう事など、
私には、到底、想像がつかなかった。

姉に無理やり押し付けられ、親を亡くした子を描いた、
子供向けの小説を、密かに隠れ読んだ記憶。

何度か涙する事も、あったが、
現実味を、帯びては居なかった。
それが、一度に、身近に為ったのだ。

父上が、私の遊び相手にと、言っていた少年とともに。


お前は、この屋敷や、見知らぬ他人に圧倒されながらも、
臆せず、私の目を見つめ、堂々と、自分の名を、
名乗りを上げた。

私は、一度に気に入った。

黒い瞳を持つお前。
お前ならば、信頼に足る奴であると。


この家の跡継ぎとして、生を為し、父上の跡を継ぐ者として、
武芸に於いても、勉学に於いても、其の名を辱めぬ様、誰にも、中傷を受けぬ様、
常に、力一杯、生きて来た私。

母上は、そんな私の子供らしさの欠如を、危惧し、
父上もまた、私に欠けているものを補う為、
お前を、私の傍に置いたのだ。


そして、お前は、其の期待に、見事に答えてきた。
それは、ごく自然に、誰にも命じられた事では無かったけれど,
お前には、始めから、何を為すべきか解っていたかのようだった。

わざと笑わせたり、怒らせたりする事で、私の感情を表に吐き出させ、
つい、閉じ込めてしまいがちな気持ちを、開放させた。
殴り合いの喧嘩さえ、時にはした。
屋敷や、野山も、二人で、駆け回った。
一人で、居るよりも,何倍もの楽しさを、教えてくれた。
お前が語る、誰が、如何した、こうしたと言う、他愛もない話、
お前の生まれた村、私の知らない、私の屋敷での話。

お前と過ごす事で、私の世界は、広がり、
お前は、私の奥に潜む緊張と、
恐れを、溶かした。


お前の前で、
私は、私に戻れるのだ。
男でも、女でもない、性を飛び越えた、
ジャルジェ家の、オスカル・フランソワに。

だが、お前を護っていたつもりの私は、
追い越された背の丈に、気が付いた時の様に、
ある日、突然、気がついた。

いつの間にか、
お前に、護られてもいる私に。

だからこそ、
傍に居てくれるだけで良かったのだ。

騒々しい、
ここ数日の出来事に、
これ以上、振り回されたくはない。
お前が、傍に居てくれさえすれば…楽に為ると。

出会ってから今日まで、
私は、そうして、救われてきたのだ。

気が付けば、お前が居たのだ。
アンドレ…。


何故、人は、
あのままでは居られないのだろう。
何故、人は、無作為の罪に、身を投じているのだろうか。
けして、誰も傷つける事無く、
人は生きられない。

そして、
何故、人は、
人を、恋、慕うのだろうか。


何も知らずに、男であると思い、
ただ毎日を過ごしていた、あの子供の頃、

いつか、父上の様に、勇猛果敢な将軍となり
近衛を、我が手で束ねる事を夢見ていた、あの少年の日々。

お前と、朝から晩まで、
いや、ぐっすりと、床につくまで、
明日を語り、傷だらけに為りながらも、夢を語っていた昔。

そんな事が、何故か無性に懐かしくて…。

あの頃は、生きているその空間だけが、
自分の城だったのに。


私の生きている環境、その豊かさが
どんな影を作っているのかさえ、気が付きもせずに。
毎日の食事、甘いお菓子、暖かな部屋、絹の衣。
乗馬に、書物、剣に、銃、ばあや。

お前から聞く、私や、お前の周りの人々は、
とても優しく、暖かだった。

誰も、私の罪を、問う事は無く、
誰も、私を拒絶する事は無かった。

生意気にも、何処かで、全てを当たり前だと思っていた過去。

国を憂う事も、民の貧しさも、思いも、
本当には、知りもしなかった。

人を恋う、その辛さも、
失う空虚も、心の闇さえも、
想像さえしなかった。

もう戻っては来ない、
今では、もう、けして、
許されない日々。


あれから、
年月は過ぎ去り、
大人への階段を、駆け上がった私が、
その諸事に、気が付く事、より深く知る事、
自らの建っている位置を、しっかり見極める事は、
暗く、寒い修羅に、身を置く様なものだが、
本来、あるべき姿なのだ。

解ってはいるけれど。

今は、何故か、私の心は、あの頃を懐かしむのだ。

こんなにも、
あの頃が、気になるのは、
あの日々が、二度とは、戻る事が無いと、
解っているからだろうか。

何故、今日は、こんなにも、切ないのか。
お前と、そんな昔を語り合い、今、笑ったばかりなのに、
何故こんなに心が、痛いのか。

「オスカル!?」


「なぜ年月はこんなに早くたってしまうのだろう…」
「なぜ子供はおとなになり…苦しみの中にわれとわが身をおき…」

「フェルゼンに、あったのか?」
唐突な、お前の言葉。

神話の箱が、其の鍵を開けた瞬間だった。

フェルゼン…!?

その名前を、お前の口から此処で聞くとは…。
まだ、口にするだけで、心が揺れる、其の名前。
何故、お前が口にするのか。

頭は、真っ白になった。

「そうだな!?なにかあったのか!?」

何か…。
何を、如何、言えば、良いというのだ。
今日の彼との出来事が、瞬間、私の頭を駆け巡った。

ナニカアッタトイウベキナノダロウカ?

彼の拒絶は解りきっていた。
だが、もう二度と会わないとまで言われるとは、
私にとって…想像以上の拒否だった。
どこかで、笑い飛ばして、
過ごしてくれる事を
願っていたのだ。

彼への想い。
彼との別離。

覚悟していた。
彼の、潔い性格を考えれば、想像ついた事だったのに。

ナニカアッタトハ、アノコトカ?
思考が停止する。

だが、
何故、お前が其の名を言うのか解らなかった。
フェルゼンの名を…。

知っていたのか?
アンドレ。

私が、胸の奥密かに、暖めていたあの想いを
お前は、知っていたのか?

「オスカル なにかあったんだな!?」
再び、声を張り上げるお前。

「アンドレ……」

私は、如何、答えて良いか解らなかった。
お前の口から、彼の名前が出る事が、不思議で、
私の気持ちに、気づかれていた事さえ、
私は知らなかったというのに。
お前は、知っていたのか?

何処から話せばいいのか、
今更、如何言えば、良いというのだ。

私は、唇を噛み締めた。

今は、何も、話したくは無い。
例え、お前であっても。


痛い!


不意に、
お前が掴んだ私の腕に、痛みを感じた。
それは、腕だけではなく、心もまた、鷲掴もうとする様な痛み…。

アンドレ?

お前の瞳が、私を凝視する。
初めて見るお前の顔。

痛い…!
放せ、アンドレ。

そう思いながらも、
私は、お前から目を逸らした。
お前を、何故か、直視出来なかったのだ。
お前の瞳からは、いつもの暖かさが消えていた。
お前の瞳を、煌かせているのは、私の預かり知らぬもの。
腕に感じる其の痛みは、一体、何なのだ。


「は…はなせ」
いつもだったら、其れで、全ては終わる。

「いやだ!」

間髪入れず、答えるお前。
お前の瞳は、一体何を考えているのだ。
何を言いたいのだ。

こんなお前を、私は知らない。

「はなせっ アンドレ!!」
再び、声を荒げ、今度は、お前を見据え、強く言い放つ。
私が本気で言っているのだと、
お前に解る様、声を荒げる。

「いやだ!!」
しかし、同じ様に、前よりも、声を荒げ、完全なる拒否を、叫ぶお前。
想いが、燃え盛る炎の如く、瞳に映し出される。

私は、言葉を失った。

お前が、私の言葉を、
この様に、拒否した事等、唯の一度も無かったのに。
私は、如何して良いか、解らなかった。


痛い…


如何しても、振り解けない腕。
その手は、熱を帯び、熱くなる。
そして、私をみつめるその眼差しが、心を覗き込むように、
熱情に任せるが如く、私に襲い掛かろうとする。

「あ…」

誰だ? お前は。
言いようの無い、想いが私を襲う。

「おれがこわいか?」


怖い?
怖いのか?
私が、お前を怖がっているというのか?

其の言葉の意味も、心の動揺も、
私を、混乱を招き、
腕の痛みだけが、
現実と繋がっていた。

腕に、掛かる力が、また強くなる。
お前の瞳がさらに、妖しい熱を帯び、唇が言葉を熱く語りだす。

「殺されたってかまわない!おれはおまえを愛している!!」

其の言葉のまま、強引に抱き寄せられ、
徐(おもむろ)に、強く押し付けられた、お前の唇。

私は、一体何が起こっているのか、わからなかった。

其の唇は、
熱く、力任せに、私に圧し掛かり、
しっとりと、私を包み込んだ。

何?

何が起こっているのだ。

夢か、それとも、現なのか。

長く、情熱的な、くちづけに、
お前の想いが、一気に溢れ出る。


愛している?
お前が、この私を?


何が起こっているのか、解らない。
そして、何を言ってるのかさえ、理解出来なかった。


「オスカル!!」
より強く、私を抱きしめるお前の腕、
肩に、首筋に、掛かる、お前の熱い吐息。
そして、お前の広く大きな胸。

想いが一気に流れる様に、
朗朗と想いの丈を語るお前。

何を言っているのだ?
何が起こっているのだ。
お前は今まで、私にそんな素振り等、
一切、見せなかったでは無いか!

私達の間に,男とか、女とか、
そんな性は、関係ないものと、ずっと思ってきた。
そうして私達は、過ごしてきたのに。

お前は、私の友人で、私の兄弟、
私の良き相棒で、それから…。

今、此処に居る、お前は、
本当に、アンドレなのか?

知らない男ではないのか!?
お前の語る愛の言葉が、頭の上を上滑りする。

私は、
まったく、
理解出来なかった。

私は、一体、お前の何を、今まで見てきたのだろうか?
私の知らないお前が語る、私への愛の言葉と、お前の激しい愛情が
共に、私に流れ込もうとするのに。


お前は、
そんなにも長く、
熱い想いを胸に秘め、
私を見つめてきたというのか。
他の女に、目を向けもせずに、
一途に私を、女として、私を愛していたというのか。

私に、命を愛しまない程に。

全てが、はじめて聞く言葉ばかりで、お前の気持ちが、痛い位怖くて、
私は、其の想いにただ、混乱するばかりだった。

「だから…オスカル」

今の私に、一体何を言えというのだ。
お前が、何を私に求めているのか等、解かりはしないのに。

嫌だ、こんなのは、嫌だ。

「は…はなせ」
「人をよぶぞ はなせ!」

私は、ただ、この場を逃れたかった。

だが、動く事さえ叶わない。
口惜しく感じながらも、男の、横暴な力の前の
女の無力さを、感じずに入られなかった。


そして、漸く、私の腕は、解き放たれた。

私は、自分の事だけで、精一杯なのに、
お前に、何も答える事等、出来はしないのだ。

だが、お前の想いが、逃げようとする私を、
また、乱暴に、捕まえた。

「愛している!」

お前の、激情とも言える熱い想いと共に、
私の体は、自由が効く事無く、より強く捕らえられ、
偶然にも、寝台の上へと、押さえつけられた。

「い……」
「愛している!愛している」
圧し掛かるお前の体、熱い唇。荒い吐息。
微動だにしない、お前の熱い体。

こ…怖い!
全てが真っ白になり、
私は恐怖を感じた。


瞬間…。

「いやああ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!!」


闇を切り裂き、響き渡った女の声。
其れが誰の声なのかもはや、私には解らなかった。

誰か!助けて!

私の知っている、アンドレは此処には、居ない。
お前は、私の知らない男!


だ…だれか……!

フェルゼ…ン


突然、
異質な音が、耳に響いた。

それは、私の衣(きぬ)を一気に裂く、お前の腕が、醸し出した音。

私は、お前を、はじめて正面から凝視した。

お前が、私を襲う!
この私を!

男として、女の私を、蹂躙しようとするのか!
心が赤い血を流しそうになる。

まだ、耳に残る、あの女の声。

あれは、私の声だった。
全てが、夢にも思わなかった出来事。

重なる年月を経て、人を恋うる想いは
私の大事だったものを、こうして奪っていくのか。

此れが現実だというのか。

封印していた全てが、白日の下に曝け出され、
其の前で、私は、驚愕する。


私は、紛れも無く、女であり、
お前は、紛れも無い男なのだと。

如何、逆立ちをしても、
其れは、変えようの無い事実だった。


悔しいのか、
悲しいのか、
涙が、溢れて仕方が無かった。
私の知っているお前は、もう居ないのか。
私の知っている私は、存在してはいけないのか。

フェルゼンは、行ってしまった。もう、会う事は無いだろう

だが、お前まで、こんな形で、見失うとは、思いもしなかった。

私は、お前にとって、もう既に、女として映り、
お前の愛は、いつの間にか、闇に追い詰められ、其の激情と共に、
性の対象として、私を、捕らえているのだ。

お前が、どんな顔をして、これから私を抱くのか。


私の心を、
其の信頼を、
失っても…なお。

私のこの体を、
自分の思いの儘、
暴力によって、押さえつけ
私の心を、私の体を切り裂くのか。

狂気にも似た、愛という名の元に。

それがお前の見せる
愛の形なのか。



如何にでもするが良い。
しかし、私は、認めはしない。
お前の此れから抱く女は、傀儡だと、心するが良い。

私は、けして、お前を許しはしない。
お前は、私を、一生、失うのだ。

万感の思いを込めて、私は、お前を睨み付けた。

お前の想いが、如何で有ろうと、
十何年もの、私への其の想いの果てがそのような形で、終息を迎える事で、
お前が、満足出来るのであれば好きにすればいいのだ。

其の時こそ私は、お前を、本当の意味で失うのだ。


幼かった頃は、頬を寄せ合い、暖め合って来た、お前と私。
男とか女とか全く関係の無い、とても、幸せな日々だった。

しかし、あの日々は、もう二度と帰っては来ないのだ

一生、私の傍らに、居ると思っていたお前が、
自らの男の性を、私の女の性を、この様な形で、卑しめるとは!

人を恋うる気持ちは、こんなにまでも、人を狂わせるものなのか!

誰もが、其の掌の上で、我を忘れ狂って来た。

過去、現在、未来…と。

自らの気持ちを、抑える事が出来ず、
人は、狂乱の舞踏を、踊る。

恋という名の、激情の下に。

陛下も、
フェルゼンも、
アンドレも、

…そして、私も

其の狂気からは、誰もが
逃れる事は、出来ないのかも知れない。

思いは、涙となり、私の頬を伝り、流れた

止まったお前の手。
私を見ている視線を感じた。
どんな顔をして、お前が私を見ているのか、
其れは、もう、如何でも良かった。

見たくは無かったのだ。

「それで…」
私は、虚空を見つめ、呟いた。

まるで、それは、
最後の賭け。
最後の宣告。

「どうしようというのだ アンドレ…」






時間が停止し、
静寂が、全てを支配する。








「…すまなかった…」

長い、沈黙の後、お前の落ち着いた声が響く。
柔らかいトーンの、私の好きなお前の声。

「もう二度とこんなことはしない。神にかけてちかう」

破った衣を、震える手で握り締め、
涙を流しながら、私の体を上掛けで隠すお前。

お前が、いつものお前に戻ろうとする。

「だけど…ああ…」

再び、私の手を取り、震え、涙を浮かべるお前。
暖かな涙が、私の手を、優しく濡らす。

「愛している 死んでしまいそうだよ」



初めて、お前の言葉が、
私の胸に、染み込んで来た。

お前が私を、愛している…と言う、其の想いが、胸に響き、刻み込まれた。


お前もまた、誰にも、触れさせる事無く、
誰にも見えない場所で、涙で頬を濡らし、
迷宮を、彷徨っていたのか。

想い人が、自分と同じ、他の同性を、
恋い慕う、其の熱い視線を、
常に眼にし、
泣きながらも笑い、
笑いながらも、泣いていたのだろうか。



お前の心を、あの狂気にまで、追い込んだ事は、
気づかなかった、私の罪。

私にとって、お前は、大切な相棒であり兄弟、片割れではあるが、
大切な異性では、有り得なかったのだから。
いや、異性として、見ても居なかった。

私が、フェルゼンにとって、そうであった様に。
お前は、私にとって、そういう存在だったのだ。

彼を追う、私の視線を、
お前は、追いながら、ずっと耐え忍んで来たのだ。
私が、陛下に魅虜される彼の視線を人知れず、追い、忍んで来た様に。

だからこそ、私の不用意な言動に、
隠していた筈の私の想い、彼の名前を、お前が口にした時、
想いが、溢れて、暴走してしまったのだ。


何処へも流れようが無いほど、
しっかり鍵をかけていたからこそ。

全てが、勢いよく弾け、飛び出して行ったのだ。
神話の箱は、開いてしまった。


人が、人を
恋する想いは、
時に、嫉妬を呼び、
狂気へと変えてしまう。

一度、其の魔に、取り込まれたら最後、
なかなか正気には、戻る事は出来ない。


だからこそ、人は弱く、そして、強くありたいと願うのだ。


そして、今、再び
お前が、其の想いを、再び、閉じ込めようとし、
この先、どんな裁きでも、受け入れ様と、
其の瞳は、澄み、潔さを語り始める。


前よりも、
さらに、胸の奥深くに仕舞い込み、
そして、しっかりと、鍵をかけようするお前。

私は、
お前が、其の生死を掛けた言葉を、
深く胸に刻み取り、受け取った。


お前が私を愛しているという事を。
お前が男であると言う事実を。

「アンドレ……」

だが、私は、お前の想いに答える事は、出来ない。
私が、誰かを愛するという事は、今は全く、考える事は出来ないのだ。

「おばあちゃんに……あ…あかりをもってくるようにいっておいてやる」
漸く、自らの気持ちに、最後の踏ん切りをつけ、
何事も無かったかのように、お前は、
私の傍を離れた。


再び、部屋に差し込む光。

「うっ!」
扉の前、一瞬立ち止まるお前。

「アンドレ!?どうかしたのか?」
私は身を起し、いつものように、お前を気遣った。

やはり、如何有ろうと、私にとって、お前は、お前なのだ。

考えてみれば、お前もまた、
私と同じ様に、ここ数日、急激に色々なものを失い、変化を強いられたのだ。

失われた片方の瞳。
今までの積み重ねてきた私との関係。


「なんでもない…いや…まぶしかっただけだ」

扉は、閉じられた。
再び、暗闇が、其の天蓋を下ろす。


アンドレ、
今回の件に、私も鍵をかけようと思う。
私には、フェルゼンの様に、お前との関係を、
すっかり絶つことは出来ないのだ。

私は、お前を知っている。
そして、お前が、今まで、其の命を掛け、
見事に、私を護って来てくれた事も知っている。

全て、あれが、お前のどんな愛情から来るものであったのかは、
私は、与り知らぬ事なのだ。

だが、それは、
やはり、お前と私との
今まで、積み上げて来たものから、
来ているのだろうと、私は思うのだ。

お前の、其の想いに、答える事は出来ないが、
同じ様に、恋の狂気に、一度は、身を投じた者として、
お前に魔を、引き寄せてしまった者として
私は、今回のこの出来事は、
白紙にしよう。

全て、何も無かった事に。

私の中で、それを肯定し、否定する思いが葛藤する。
その葛藤は、若しかしたら、永遠に続くかもしれないが、
今回の出来事は、私に、私の在り方を、教えてくれたのだ。

私も、そろそろ自らの足で、
しっかりと、立たなければならない時期であると。
いつまでも、お前に甘えてばかりも、居られないのだという事を。

お前が、其の片目と引き換えに、救ってくれたこの命。
私は、私の行動に、より深く、自ら責任を取らなくては、ならないのだ。


“飾り人形”と、
もう、誰にも呼ばれたくは無い、私がいるのだから。
全てを失ってしまったと、嘆いてばかりいたくは無い。
私が、何を為すべきなのか、本当は、おぼろげながらも、解っているのだと信じたい。

神話の箱の封印は、解かれ
お前が、男であると言う事実は、もう変わりはしない。
私が、女であると言う事実も、変えようが無い。


しかし、

あの神話の箱の中に、
最後に残った、希望。

其の希望を、私は、大切に抱え、
この先、私の目の前に広がる、この荒涼とした人生の修羅を、
不器用ながらも、自らの足で、歩いて行きたいと、今は、思っているのだ。

そう、
蜘蛛の糸は、
縷々として細い一本の糸であるけれど
私は、この糸の上を、希望の残る箱を抱え、
前を見据え、渡っていこうと思っている。

心に醜い蜘蛛を、抱えながらも。

他の誰もが、
歩く事が無い人生を、
私は、今までも、歩いて来た。
始めは、父上に、決められた事であったかも知れないが、
其の人生を、此処まで歩いて来たのは、私自身なのだ。

全てを無くしたのではない。
新しく始める為に、現実を、直視しなければ、為らなかったのだ。

いつ、切れてしまうかもしれない細く儚い、蜘蛛の糸の上を
今までも、私は歩いていたのに、それに気がつこうとしなかった私。

一歩落ちれば、其処は、奈落。

アンドレ、
お前がどんな思いで、私の傍に居たのか、
私は、知らなくては為らなかったのだと思う。

そして、私は、其の上で、もう一度、新しく、お前との関係を築こうと思うのだ。

お前の想いに、答える事は、出来ないが、
お前は、私の大切な片割れである事には、変わりがないのだから。
私には、お前を、完全に拒絶する事は、出来ないのだ。

お前は、あの時、正気に戻る事が出来た。
私は、お前が、狂気から、戻ってきた事を誇りに思う。

そして、お前もまた、
細い、蜘蛛の糸の上を、渡っているのだと、気が付いたのだ。
いつ、落ちるか解らない糸の上。
だが、お前は、踏み止まった。

アンドレ…。

闇は、暗く、冷たいが、慣れてくれば
明るさも、温かみも、感じる事は、出来るだろう。
希望を抱き、生きていく事さえ出来れば。

私は、私の為すべき事をする為に、
私自身の思いのまま、縷々とした、細い一本糸の上を、
永遠に、歩くのだ。

暗く険しい修羅、深い奈落の上を、
希望の入った、神話の箱を抱え、歩いていくのだ。