漆黒の闇・ 漆黒の風  〜彼女〜



ひんやりと冷たい、少し、湿った夜風に、
揺れる木の葉の密やかな囁き…。

風の音、風の匂いが、暗闇を感じさせる。
私の好きな…風の香り。

そして、今にも空から、零れ落ちそうな星の煌く音…。
聞こえ無い筈の音が、私の好きな静かな楽曲をいつも奏でてくれる。

昼間の喧騒とは想像もつかないほど静かな漆黒の闇と風…。



私は独り、
この暗闇の中、お前をひたすら待っている。
奴が、罠に掛かったと、知らせるお前の合図を…。
息を殺し、身動きもしないで待っている。

今日か、明日かと重ねて来たが、なかなか奴は
罠に掛かってこない。

やはり、一筋縄で行くとは思っていなかったが…。

我々を背後から、観察しているのだろうか
我々が、一体何者であるかを…確かめるが如く。
彼らも、じっと、息を殺しながら…。


運搬途中で消えた近衛の200挺の銃、
彼らが何を考えているのか。
大量の銃砲を一体何に使おうとしているのか。

奴さえ捕まえる事が出来れば…。
彼らの意図、彼らの考え、彼らの全てが判るのだろうか。

我々を高みから観察しながらも尚、
彼らの、得体の知れない計画を実行する為に
奴は暗躍している。

やはり、ただの義賊ではない。

早く、出て来い、お前の其の名誉を守る為に。
お前の義賊という其の誇りを守る為に…。

そう…、
こうして、幾晩かの闇が、過ぎてしまった。

不思議な感覚だ。

宛ても無く待つ…という事に、
考えて見れば、私は、余り経験が無い。

決った刻限まで、陛下や、王侯陛下を待つ事は、
近衛という業務上、付き物だ。

王侯陛下の夜遊びに付き合わされ、
あの方の遊び飽きるのを朝まで待つことも在った。

しかし、今回の様に、
酔狂だと笑う奴も居るだろうが、
現れる事が無いかもしれない奴を捕まえる為に、
物陰に密かに隠れ、私一人きりで待つ、というのは、
もしかすると…初めてかもしれない。

否…、

昔、子供の頃、
お前と二人で、“隠れんぼ”をして以来かもしれないな。


ふと、浮かんで来た、子供の頃の情景。
初めてお前に教えてもらった遊び。

私は…、
同年代の子供とは、余り付き合いが無かったから。

幼い頃は、
父上の様に、いずれ立派な近衛の将軍に成る事。
唯一、
其れだけが、私の日常かつ、夢であり、現実だった。

尊敬する父上に早く認められたくて、早く立派な武官に成りたかった。
其れが、私の全てだった。
其れ以外何も無かった。

剣の稽古、乗馬、銃の取り扱い、歴史、ラテン語。他、
様々な知識を学ぶ事は確かに楽しく興味深かった。

しかし私は、
男として、家の跡取として、生きなくてはいけないと、
自分で、自分自身を自然に規制していたのだろう。

誰にも負けない、誰よりも立派な武官になる為に。

気が付けば、
姉上達とは、もう物心つき始める頃から、余り遊ばなくなっていた。
遊べなくなっていた…、のかもしれない。

自分が女であると気付いた後でも…。

いや、尚更…、
其の中に入る事が出来なかった。

そんな時に、お前はやって来たのだ。

そして、
お前と共にやって来た子供の世界が、私の世界を変化させた。


高い樹の上に登り、眼下で私を探すお前が、可笑しくて
笑いを堪え、つい、声を掛けてしまった事。

厩の藁の中で、息を殺し隠れていた時は
うっかり、待ちくたびれて寝てしまった事もあったな。

それから、暖炉の煙突の中。

流石にあれは、炭だらけに為って、真っ黒な顔で、
ばあやに、酷く怒られた。

お前をこうして待つのは、あの時以来と言う訳か…。

可笑しなものだ。

今は、大抵、
お前が私を待っているのだから。

いつ終るか知れない、会議。

いつか帰るか知れない私の帰宅。

いつ終るか知れない、私の怒り、憤り。

そして、いつ終るか知れない私の…。


この前、ロザリーを連れて帰って来た時も、
お前は、何とも言えない複雑な顔をしていた。

黒い騎士を追い、見失ってしまった私を、
心配し、眠れなかった顔だった。
少し怒った様な、疲れた様な、安心した様な複雑な表情。

そんな風に…、
いつも、どんな時でも、お前は私を待っているのだな。
私が、安全な場所へ帰って来るまで。
私が、私で居られる所へ帰って来るまで。

今更、改めて気が付くとは。
不思議だな。

お前の気の長さには敬服している。
まあ、たまには、欠伸を噛み殺している姿も見ないことは無いが…、

しかし、そんな事も、私は、気が付かなかった。
それだけ、私にとって、空気の様に当たり前という事か…。


そして、

今回立場が、逆に成り、私がお前をこうして待つ事で、
気づいた事ある。

お前ならば、大丈夫だ…と、判ってはいても、
失敗は無い…と指揮官の私が確信していても、
実際、無事に帰って来たお前の顔を見て

ようやく、私は安心するのだという事を。

お前は、いつもこんな思いを抱えて、待っていてくれたのだろう。

私がいっそ黒い髪の鬘でも被り、黒い騎士を誘き寄せた方が、
気が楽だったかもしれない。

この様な心配はしなくて済んだのに。
何もせず、待つという事が、どれほど大変な事か
…今になって、判るなんて。


お前は、平気な顔をして、帰っては来るが、

お前の髪に残る硝子の小さな破片や、

硝煙の微かな香り。

破れた、衣装。

そして、戦利品の数々。



どの様な事が有ったかは、想像つく。
其の度、私は胸が痛むのだ。
私の我が儘が、
私の指揮官としての判断が、
お前にどんな危険を負わせているのかと。

私と一緒に居るばかりに背負わなくても良い事を背負うのだから。

そして…、

お前が、無事に帰り、笑って、軽口を叩ける事を
私は神に感謝しているのだ。
笑っていながら、何処かで、泣いている自分が居る。

お前は、敢えて何も言わないが…、

貴族の屋敷に素人のお前が、盗みに入るのは、
どう考えても、至難の業だ。

幾ら、お前が私と剣の稽古を重ねているとはいえ、
それ以上にも、それ以下にも何の訓練もしていないのだから。

だけど、お前は、
乱暴な手腕ながらも、確実に其の役割を果たしている。

盗みの才能が、有ったという事か。
ふふ、そんな事を言ったら、怒るだろうな。

私の見る眼が在ったという事。
…自信過剰か。…否、

いつもは、静かに私の影の様に佇んでいるが、
お前はあれで、結構大胆で、頼りになるから。

其れは誰よりも、私が知っているのだ。
階段を登る様に、
お前は確実に、着実に
派手さは無いものの仕事をこなして来たのだから。

だからこそ。

今回の様な場合は、特に…。
無理な事ではないと判ってはいるが。
胸が痛むのだ。

そして、
黒い騎士が現れるのに、此処まで時間が掛かるとは、思わなかった。
…私の誤算。

お前が、成功の回数を重ねれば、重ねる程、
貴族は警備を強化していくのだから。

危険度は、より高くなる。


私は、武官であり、指揮官であるが、
お前だけを、前線に立たせ、こうして待つのは
余り、良い気分ではないのだ。

もし、お前に何か有ったら…と。

しかし、私は武官であり、指揮官だから、
目的の遂行の為には、そんな感傷に浸っていてはいけない。

もっと冷静に任務を遂行する者を観察し、無事、目的を遂行する事が
お前に対する礼儀であり、義務なのだ。

感情に浸り、行動する事は、我々の命を危険に晒す事に成るのだから。

そう、いつも、お前の前で、言っているのに。

情けない。
何が、近衛の准将だ。

自分が、冷静だと思った事は考えて見ると余り無い。
冷静で在らねばと、自己嫌悪に陥る事はあるが…。

嫌だな、こう幾晩も一人でいると、
考えなくても良い事まで、考えてしまう。

封印した事まで考えそうで、つい、他の事で気を紛らわす私が居る。

良くないな…。

しかし、
少しづつでも、あの恋が、
やがて、本当に過去となり、

かさぶたが取れ、
新しい真皮が覗く様に…、

時間薬は効いていけば…。


今はまだ、顔を見るのは、辛いけれど。



お前が傍に居てくれて、良かったと、私は思っている。
一人だったら、きっと耐えられないかもしれない。


ふいに、
今夜忍び込んだ屋敷から、微かに聞こえる、銃声の音。
この漆黒の闇の中、見えない分、音は、遠くまで聞こえて来る。

人々の怒声、猟犬の吠声、そして、…近づいて来る馬の蹄の音。

良かった、お前は今日も無事だ。
後は、奴が現れてくれればいいのだが。

今夜こそ、現れてくれれば…、

明日はジャルジェ家に入って貰わなくては為らない。

ばあやが、アンドレに逢って、どんな顔をするか見てみたい気もするが…。
まさか、箒を持って、立ち向かいはすまいが…
判らないからな。

後でばれたら厄介な事になりそうだ。


静かな闇、
高く鳴り響く口笛。
お前の合図。

来た!
ようやく、奴も痺れを切らし現れたようだ。

私は、風に乗って聞こえる合図を頼りに
お前の居る場所へと向かうのだ。

漆黒の闇、漆黒の風の中。
一人
お前の下へと掛けていく。

私は風になる…。