誕生日〜聖母子像〜
母上
明日は、私の誕生日になります。
あの日、母上が、私をこの世に産み落として下さった。
母上に感謝を申上げるべき、私の誕生日。
感謝をこめて、今年は、
何を母上に送りましょうか…。
〜日記より〜
*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜
「此処だけの話だけど、
もう、とっても痛くて痛くて、
こんな事、二度と御免だと思ったわ」
初めて子供を出産した姉のお祝いを持って行った私に、
ふと彼女がこんな事を言った。
普段、辛抱強い彼女が、
こういうのだから、
其れは
よほどの傷みだったに違いない。
「痛いのですか…」
そう返事をしながらも、
私にそんな事を言う姉に、
半ば率直な彼女らしい物言いだと、
少し赤くなりながら、微笑むしかなかった。
母になり子を産む。
…其れは私には到底、無縁な事のように思えて、
ふと窓から見える景色を、何気なく眺めるしかなかった。
明るい日差しの入る、この部屋には、
私と姉の二人と、産まれたばかりの赤ん坊しか居ない。
本来だったら、姉妹同士の私達だから、
そんな会話に困惑する方がどうかしているのだが、
なにぶん妹でも、私は、特殊な育ち方をしてきたのだから…。
こんな会話をしている事等、
多分…普段の私を知っている
他の誰も想像出来ないに違いない。
「それに、見て頂戴、オスカル。私のこの手。」
「出産の時、力が入りすぎて、
神経を少し傷付けたみたいで、
今は、これ以上握る事が出来ないの。」
そう言って、…私の前に差し出された彼女の手。
「此れでも、良くなった方なのよ。」
事も無げに彼女は言うが、
大好きな姉の美しいあの指。
いつも私の髪を撫でてくれた優しい手。
其れが、
何処と無く蒼褪め、
握ろうとしても握れない。
彼女は其の限界に挑戦しながら、
細かく震える指を、
其の掌を私に差し出した。
「一時的なものですか…?」
胸の痛みを感じながら、
つい聞いてはいけない事を口にしてしまう。
「解らないわ。
そうかも知れないし、
そうでないかも知れない。
お医者様はそう仰っていたわ。」
何時もと変わらない優しい母譲りの微笑を浮かべ、
新しく母と為った彼女が呟いた。
計り知れない痛み、
傷つけた神経
…出産とはそんなに大変なものなのか。
思いのほか、酷く衝撃を受け、
私は姉へ、如何言っていいものかと、言葉を詰まらせた。
「ふふふ、驚いた顔して、痛いと聞いて、怖気ずいたの?」
悪戯気に瞳を輝かせながら、彼女は私を覗き込んだ。
私は、小さな時からこの顔を見るのが大好きだった。
「大丈夫よ。
不思議な事に、すぐ、忘れてしまうの。
どれだけ痛かったかなんて。
痛み事態には記憶に無いの。
痛かったと言う思いが残るだけで。
きっと神様からの贈り物なのね。」
「其れに、手の痺れの方も、握力も、
余り、今の所不便は無いのよ。
私は恵まれている方なんですもの。
贅沢言ったら、罰が当たるわね。
この子には、乳母も居てくれるし、
随分助かっているの。でも…」
何気なく震える手をもう一方の手で、
優しく愛撫する様に触れながら、
ふと溜息を漏らした。
「ル・ルーにね、お乳をあげる時、
力が入らなくて、少し困るだけ。
でも、時期にこつを掴むわ、きっと。」
そう言って、優しく微笑む彼女。
何処かで母上と重なった。
ジャルジェの家の私達は、母に慈しみ育てられた。
そして…今、母となった姉も、自分がそう育てられた様に、
新しく生まれた、幼子を育てようとしているらしい。
普通の貴族には、
有り得ないやり方だと、
平民の様だと、
不思議がる貴族達が、
多いにも拘らず。
しかし、彼女は父譲りの逞しさも持っていた。
そして彼女を慈しみ愛する夫を持っていた。
「だいたい、お乳の時間になると、胸が張るの。
其の頃にはやっぱり、彼女が、お腹が空いたと、泣き出すの。
よく出来たものね。」
そう…にっこり笑いながら、彼女が言った。
「だから、如何しても、自分のお乳をあげたくなるの。
手が、今こんな風だから、危なっかしいかもしれないけれど、
それでも、安心して、お乳を飲んでいる彼女を見ると、
其れはもう、こんな素敵な事、他の誰かに代わる事等、
勿体無いと思ってしまうわ。」
そう彼女が言ったとたん。
ル・ルーが、泣き出した。
思わず、私は彼女を抱き上げた。
手の震える姉を助けようと思いやって。
しかし、まだ首の据わってない彼女を抱くのは
私には至難の業だった。
「あ…」
なんて、儚く、小さな存在なのだ。
なんて、柔らかい赤ん坊。
途方にくれてる私を思い遣って、
姉が、助け舟を出してくれた。
私の手に、手を添えて…、
冷たく、ひんやりした手を添えて。
「ほら、こうして抱けば、首の据わってない子でも、大丈夫。」
何とか、苦労して、彼女を抱いた途端…泣き止んだ。
「ふふふ、遊んでほしかったの?
貴女は、オスカルが大好きなのね?」
初めて抱いた、赤ん坊。
小さな指。小さな爪。
まだ、眉は生え揃ってなく薄かったが、
こんなに小さいのに、全てが揃っている。
柔らかくて、うっかりしたら、壊れてしまいそうだ。
私を見る彼女の瞳。
全てを見透かされそうな澄んだ瞳。
剣の稽古や、隊の指揮を執ったりするよりも、
彼女を抱く、其れだけの事なのに
緊張し、冷や汗まで出てくる。
私は、私の可愛い姪を落とさない様に姉に渡した。
「この子はね、不思議な事に、直感がある様なのよ。
好きな人と、嫌いな人がはっきりしているの。」
そう言ってル・ルーを覗く姉の顔は優しく、聖母の様だった。
そう…、
いつの世でも同じだろうが、
子供を生み育てる事は、大変な事だ。
妊娠、出産を例に取っても、
姉の様に、何らかの後遺症が残る者も居れば、
妊娠中に体調を崩し、其れが原因で死んでしまう者もいる。
出産の時は尚更、ある意味…死と隣り合わせだ。
生まれいずる命、死に逝く命。
合わせ鏡にも似て…。
具体的に調べた訳ではないにしろ、
私の耳にも入るのだから。
やはり相当大変なのだろうと。
姉の聖母の様な顔は
其れを超越したからこそのものかも知れない
そんな、取り止めの無い事を思い、
窓辺からの暖かい光に包まれた、
目の前の聖母子像を眺めた。
今日は此れが見られただけでも、有り難いと思う。
「貴女もいつか、子供を生むかもしれないわね。
その時は私がしっかり教授してあげるわ」
帰り際、そんな事を私に悪戯な瞳を輝かせながら、囁く姉。
「いえ…私は…」
子供を生む。そんな事考えた事も無かった。
私が子供を生む。
同じ、女性の性をもつ者として、
姉が投げた一石。
私が…。
彼女でなければ、そんな事は言い出さないだろう言葉だ。
帰り道思い出して、苦笑いをしてしまう。
そして、私は、もう一度
姉のあの手を心に浮かべた。
母とは強い者なのだな…。
誕生日か…。
誕生日とは、本来、
母という存在に
感謝するべき物かもしれない。
姉上と同じ様に母上もまた、
私を命がけで産んでくれたに違いないのだ。
だからこそ、いつも優しい微笑の裏側に、
凛とした強さを母上は常に兼備えているのだろう。
父の持つ強さとは違う心の強さを…。
私が、産むかどうかは別にして、
私は、
誕生日を祝って貰う事が、
何処かで、当たり前の事だと思い、
それに全く気が付かなかった。
恥かしい事だ。
母上が命を賭けて、
この世に産まれた私の命。
其の命の重さを、
深い愛を
もう一度、私は心の奥深くで、噛み締めた。
あの聖母子像を思い浮かべながら…。
なぜか涙が流れて仕方が無かった。
母上。
有難うございます。
誕生日には何か母上に感謝をこめて、
贈り物を捧げましょう。
貴女の愛に其れでは足りない事は解ってますが、
せめてもの感謝の気持として。
そう心の中で呟き、
私は家路へと急いだ。
大好きな母上の顔を思い浮かべながら。
心に暖かく、清らかな…あの聖母子像を抱きながら…。