蜘蛛の糸〜墜落〜
それは
衝動に駆られた行為。
いや、もしかしたら、
初めから衝動ではなかったのかも知れない。
ソフィアの馬車が
立ち往生しているとの
近衛の兵の連絡を受け取ったあの瞬間。
…いや、
置き去りにされた
あの夜から…。
私が、事実を白日の下に晒した…。
どうなるものでもない事も、知っている。
何を無くしてしまうのかも、承知している。
しかし…、
私は、囚われていたのだ。
オスカル…
お前が必死に隠してきた想いを
あの様な形で曝き出した、
冷たく深い己の業の深さ。
最良の友、天上からの一条光、その花を
自らの手で手折ってしまった…。
何と言う、罪深さなのだ。
〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜
あの夜から、
初めてお前に会うのだと気がついた、
近衛からの伝令。
私の心に、深く甘い影を落としていたあの疑惑。
心に抱いていた疑念が疼きだした。
私はただ、
あの美しい貴婦人が誰なのかという
パズルのピースを埋めたかった。
いや。
お前の被る心の痛みを
考える事が出来なかったのは何故なのか。
深い自己嫌悪が私に牙を剥く。
いつでもそうだ。
何処かで、思い込んでしまうと、
もう後戻りの出来ない自分に迷い込んでしまう。
あの方に心を奪われた時でさえも、
あの方への想いを絶ち切ろうとしていても
結局、出来ない自分を抱えて込み、
立ち止まる事無く進んでしまう。
そんな私だからなのか、
あの瞬間(とき)…。
最後のピースが場所を得た時に、
必然的に導き出されるだろう答えを、
心の闇が、囁き、私を罠に誘ったのだ。
“アノフジンハオスカル…タシカメロ”
石を投げた水面に、波紋が広がる様に
押さえていた思いが、幾重にも美しい幾何学模様を描き出し、
蜘蛛がゆっくりと罠を張り、私の心に巣食う。
久しぶりに会ったお前の、その黄金の髪を盗み見、
極上のサファイアを思わせる、青い瞳を覗き見ながら、
気がつけば、軍服の下に隠れているだろう
白い肌を想い描いていた。
初めてお前が女だと知ったあの時とは、
また違う甘い誘惑。
そう、
お前は間違いなく、
女性の性(さが)を持つ。
あの夜の貴婦人の、彫像の様な美しさ。
哀しげな瞳で、私を誘ったあの、妖艶さ。
あの瞳が語っていた言葉は…。
私は、思いを巡らす。
あの夜から、
私を捕らえて離さない、声無き言の葉。
化粧をする事もなく、ソワレを装う事もないといえ、
貴婦人は、お前なのかもしれない。
違うのかもしれない。
いや、答えはもうはっきりしている。
いや、彼女である筈が無い。
いや、彼女こそあの時の貴婦人。
だが、彼女があの様な姿の為る必要があるのか、
彼女がその名を伏せる必要が何処にあったのか。
混乱の中、出て来るのはひとつの囁き。
“カノジョハオマエヲアイシテイルノダ”
愚かな話だ。
しかし、王太子殿下の病状、
私の愛しいあの方の哀しみ。
会話しながらも、其れは、何処か空回りをし、
私はその思いから離れる事が出来なかった。
あの方との
逢瀬の時でさえそうだ。
いつもなら心に響き、
愛しく深く染み込むあの方の声
あの方の想い、
私の想いが、
上滑りばかりしていた。
あんなに愛しい方との、
ほんの僅かな逢瀬の時に。
だからこそ、
この状態から脱却する事を
私は何処かで祈っていたのだ。
ただ其れは己だけの為に。
…あの方の為に。
そして…
「オスカル」
「ん?」
名前を呼ぶ私に、軽く振り向いたお前。
その何気ない仕草もまた、お前の心を語っている様だ。
唐突に、本当に唐突に、
乱暴に、お前の項に手を伸ばした。
お前だけが私に見せる隙を狙って。
卑劣な行為。
まるで、それは、
箱を開けたくて仕方なかった神話の少女の様に。
我が儘な我心の闇。
今になって!
私の掌にすっぽりと入る、
思いのほか、小さなお前の頭(こうべ)、
そして細く、儚い、白い項。
あの夜の様に、結い上げられた髪。
お前の白いその肌に、後れ毛が美しく更々と、散り、
青い瞳の輝きはまた一層美しく煌いた。
例え、金銀に彩られてなくとも、
お前の輝きは、心に響く。
私は目を奪われ
心を奪われそうに為る。
まるで、一瞬、時が停止したかの様に。
「はなせっ!!」
驚き、怯える瞳、私の手を慌てて払いのけるその姿。
やはり、そうだったのかと、
納得する私と、露見した事実を否定する私が居た。
迂闊にも犯してしまった、私の仕打ち
お前が、一番の友人だと自負しながらも、
ずかずかと土足でお前の心を踏み荒らし、
一番残酷な事をしてしまった私。
…今更ながらに後悔をする。
友人として、いつもお前に、
一方的に甘えていた私の愚かさを呪い。
立ち止まり、戻る事の出来ない私の性分を蔑む。
こんな事を言っても始まらないが、
己の馬鹿さ加減、
我が儘。
余りに、愚かなる我身を
今になって、
深く、省みるのだ。
「やっぱり、おまえだったのか…」
思わず、口にした其の、言葉。
お前のその揺れる瞳が、その唇が、
静寂の中、言葉を語りだす。
“アイシテイル”
“フェルゼン”
私は其れを
心の何処かで、確認したかったのか!
全てのパズルが完成し、
後に残った遣る瀬無い気持ちの前に、
私は、ただ愕然とした。
浅墓な私が、
今更ながら、犯した罪、
その残酷さに、胸が痛んだ。
何故あんなにも答えを求めて止まなかったのか。
答えを求める事で、失ってしまう物の大きさを
本当に考えるべきだったのに。
お前から、その言葉を聞いたとしても、
今の私は、何も出来はしないのに…。
なんと業が深く…浅ましいのか。
「もう、永久に…あうことはできない…な…」
搾り出すように、更に残酷な言葉を重ねる事しか…
私は、お前の為には用意出来ない。
もう逢ってはいけないのだ。
お前が、オスカルでさえ無かったら。
お前がどんな想いであのソワレを着、私と共に踊ったのか、
あの時抱いたお前を思い出す。
あの感触、あの余韻。
お前の女としての想いを、
もっと早くに気が付いていれば。
いや、お前に初めて出会ったあの時、
私がお前が女だと云う事を気が付いてさえいれば。
もっと、違った時間軸になっていたのだろうに。
今更、私何を望んでいるのだ。
身勝手な、自分の愚鈍さに吐き気を催しそうだ。
“アイシテタ…フェルゼン”
お前の想いが流れ込んでくる。
お前を抱きしめる事が出来ればどれだけ楽だろう。
お前の気持に抱きしめられればどれだけ私は楽になるだろうか。
しかしお前は他の誰でもない、
オスカルなのだ。
お前の存在に私がどれだけ救われているのか。
お前は、知りはしないだろう。
お前は、自分の想いを何処かで封印したかった。
だからこそあの時、ソワレを着たのだ。
そう、掘り起してはいけない事だった。
曝け出してはいけない事だったのだ。
「許して欲しい」
愚鈍な言葉を私は呟いた。
この期に及んで、許しを得ようとする罪の深さ。
やはり私の心に魔が住んでいるのだ。
お前が、
ドレスを身に纏わなくては為らない程にまで、
想いを募らせ追い込み、
苦しんだ事を曝け出した己の罪。
私は、地獄に身を置かなくては為らない。
全ては己の業の為せる業。
「もはや…いままでどおりにあうなどということはできない…」
もっと早く気がついていれば、
全てが、もしかしたら、
上手く行っていただろうに。
あの運命の愛に、
我想い人が哀しみにくれる事も無く、
背徳の罪と糾弾される事も無く、
あの方を、恐ろしい深淵に引き込む事も無く
深く闇のこの寒く冷え冷えとした迷宮を彷徨う事さえなく。
しかし…。
全ては、もう始まっているのだ。
お前の哀しみ、愛を俺が受け入れる事は、もう出来ない。
私にとって
今はあの方が全てに置いて優先する現実を目の前にし、
もし、このままお前との愛に私が溺れたとしても、
私は心の何処かで、
お前を傀儡として抱いてしまうに違いない。
あの方の変わりに。
オスカル。
先に、あの方との恋に落ち、
地獄に落ちる事を決意した我が身の上。
このまま逢えば、いずれ、私は、
お前を抱き、地獄の業火に引きずり込み、
我運命を重ねてしまう。
これ以上。
友情にかけてもそれだけは。
我、尊厳にかけて…行っては為らないのだ。
「信じてほしい…わたしの最高の友人!」
「うしないたくないただひとりのすばらしき親友。」
そう、
お前は、生涯の友。
我、救いの天上人だった。
オスカル…。
お前は、常に蜘蛛の糸を天上から、
あの暗く冷たい迷宮に与えてくれていたのに、
気が付きさえしなかった私の愚かさ。
「きみにあえたことをしあわせに思っている!」
ひと言、ひと言を私は、搾り出すように選び出す。
ただ其れだけが、今の私には精一杯なのだ。
お前だけは幸せに其の天上の輝きを失わないで欲しい。
オスカル…、
此れからは、
お前が其の糸を垂らす事は、
もう二度と無い。
私はこの地獄の寒々とした暗い迷宮を独り彷徨おう。
そう落ちるのは、ただこの身のみ。
せめて其れがお前に対する愛情の証。
友としての礼儀。
如何か許し賜え。
我、天上の光。
オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ
親友という名のもう一人の我愛しき人。
氷の花の、…美しき友、
此れが、
私達の交わりの結末だとは…!
せめて君が罪を犯さないように。
一切をわが身一身に、
そうして私は、
切れた蜘蛛の糸の端を暫く見つめ、深く溜息をつく。
しかし、
胸を張り、踵を返し、
祈りを込めて再び、独り、迷宮を歩きはじめた。
あの愛しい方と、わが友、お前の為に…。