蜘蛛の糸〜闇〜





何故だ…。

全ては、
彼に逢ってしまったからなのか。

封印していた秘密。
神話の箱の如く。


…そう、


何処かで
ずっと逢いたかった。
逢いたくて、逢いたくて、
逢いたくて仕方の無い自分を、騙しながら、
あの時、決別したはずの想いが、私に鍵をかけていた。

あれから、時間薬を飲んでいた私。

忙しさに追われ、
“全ては通常通り、大丈夫。”
心の中で、何度も繰返していた私の呪文。


愚かな抵抗に過ぎなかったのだろうか。
もう彼を諦められると、納得した筈では無かったのか。
何故、今になって、鍵が開けられたのか。
最後の血の一滴を絞り出す様に、
私を苛むのか。


搾り出したのは彼自身。
いや、私自身なのだろうか。

暗い闇の中、一人、
未だ、抜け出せない混乱と驚きに震える心を抱え、
椅子に倒れ込み目を閉じた。

今日のあの出会いが、
私をどれ程、憔悴させているか
もう何も考えたくないと、
深いため息をつく。




***************




ムードンからの帰り道、

ソフィア殿の馬車の、事故に遭遇し、
フェルゼン邸に、知らせを送る。

迎えを待つ間、彼女とカフェで、会話を交わした。

彼と何処か同じ香りのする、彼女。

「うわさは…やっぱりほんとうですのね…?」

真っ直ぐに私を見つめる…同じ瞳。



彼が命を賭けてどれだけあの方を
…愛しているか。

彼がどのような思いで、 

苦しみながら、この異国の地で
あの方を想い、辛い恋に身を投じているか。
其れを、噂と一言で片付ける事は、どこか間違っている気がした。


「男性にとっても地位や出世よりもっとたいせつなものがあるのですよ」


彼の立場の難しさ、其の深い想いを、
私が一番知っているのだ。
彼の苦しみも。
其の闘いも…。

そんな彼だからこそ、
私は、恋をしたのだと、再確認をする。
彼女と交わす其の言葉の、ひと言ひと言を噛み締め、
彼の想いの強さに、私は惹かれていたのだと、
改めて気が付いた。


「マリー・アントワネットあるかぎり兄上はけっして
このフランスをはなれはなさいますまい」


彼の運命は、彼女と共に、有るのだとしか、
もはや私には思えないのだ。



苦しかった私の初恋。
そう私が、独り胸の内で、終らせた初恋は、
彼とあの方の、恋の上に成り立っていた…ひとときの夢。

ふと、あの夜の彼の腕(かいな)を思い出し、
あの夜の彼の眼差しを思い出し、
あの夜の彼の言葉を思い出し、
彼の王妃様への愛を
噛み締めた。



彼があの方を追う視線に焦がれ、
彼があの方を語る声に焦がれ、
彼があの方を想う心に
焦がれていた私。

隙間にさえ
入れなかった。
彼の傍に居るからこそ、
否応無しに突きつけられる現実。
彼等の愛が、より強く、心がより深く重なるのを
ただ、じっとみつめている私

カップに口をつけながら、
そんな過去の想いを、ほろ苦いカッフェと同時に飲み込む。


「恋をなさったことがおありですの?」

突然の彼女の言葉に、如何答えて、良いか戸惑った私。
同じ瞳で、そう聞かれるのは、心を見透かされている気分だ。

男だと思い、私に恋していたかも知れないと、頬を染め話す彼女は、可愛く、愛らしかった。
私には具わっていない、女性としての素直さを、微笑ましく、羨ましく感じた。

「ソフィア殿、小さいころずっと自分を男だと思っていたのですよ。
ほんとうになんの疑いもなく」

そう、私が女なのだと、気が付かせてくれたのは、貴女の兄上。

こんな私でも。
其れは考えてみれば、何と、幸せな感情。
例え、苦しく涙したとしても。

しかし、

もう大丈夫。
あれは、恋ではあるが、
終ってしまった恋でしかない。

もう大丈夫。
私は彼の友人として、
其の役割を果たす事が出来るかもしれない。
もう揺れ動かないだろう私の心。
もう大丈夫。

そして、
現れたフェルゼン…。

あの舞踏会の夜から、
会うのは初めてだと、気が付いたが、
軽く深呼吸をし、平静を装い、私は仮面を被る。

少しだけ、自分を護る為に。


私は、

もう大丈夫。

呪文の様に、
もう一度、其の言葉を繰返しながら、
彼と挨拶を交わした。



彼女を送った後、二人きり。
ムードンに王太子殿下を送り届けたと、
さりげなく陛下の御様子をお前に伝える。

お前が一番欲しい情報を、事務的に伝える。
私の言葉に、頷くお前。
少しの沈黙

そして…


「オスカル」

「ん?」

お前の言葉に、ふと、何気に振り向いた私。

やおら…、

ふいに、
伸びてきた腕。
突然掻き揚げられた髪。
彼の思いがけない行動。

突然だった。

息が止まった。

乱暴に、引き剥がされた仮面が、
瞬時に、硝子が割れる様に、脆く、粉々に砕け散った。
私に耳にだけ、其の音が静かに鳴り響く。

余韻を残して鳴り響く欠片。

同時に…。私の瞳が言葉を語る。


“あの夜の貴婦人は私”


私の彼に対する恋慕が、
全て白日のもとに曝け出されてしまった。


“貴方を愛してした。
フェルゼン…”


「はなせっ!!」

驚きと混乱の中、
大声を上げ、振り切った彼の腕。
今、何を彼がしたのか? 其の事実に、震え、
瞳を直視出来ず、私は視線を逸らした。

「やっぱりおまえだったのか…」

彼の瞳が確信と動揺の色を映し出す。
私を、私だけをみつめ、私の心に想いを巡らす。


「なぜ…気づいてやれなかったのか…!!」

怖くて…、
彼を、見ることが出来ない。
彼の語る言葉の響きを胸で聞く。

もう過去の想いに、封印したと思っている気持ち。
何故、何故…? 私だって気が付かなかったのだ。其れは長い間…。
気が付いた時はもう、貴方に、強く惹かれていた自分が居た。
だけど、彼のそんな言葉を聞きたかった訳ではないのだ。


「もう永久に・・・あうことはできない・・・な」


やはり、こうなるしかないのだろうか…。
私が招いたこの結果に、
解っていながらも心が痛む。


許しを請う彼に、
私は何も言えなかった。
一体、何を言えばいいというのか。
貴方の運命は既にアントワネット様の上にあるのだ。

解かっている。解かっていた。覚悟はしていた事だ。
其れを今更、如何しようとさえも思っていなかった。
だけど、私の心は、ただ彼を想ってしまったのだ。
私の中の、女の性(さが)が…。

何処かで、解っていても、あの時の私は、
貴方の前で夜会服を着たかったのだ。

いずれ、
如何、転がっても、
ソワレを着ても着なくても、
こうなるのが運命だったのだ。
私の想いが、歯止めが効かなくなる事よりも、
私が其れを望んだのだから。


もう、彼と今までの様に
会う事は、出来ない。

彼も、其れを望むのだ。
彼の潔さが、彼の優しさが、私を思い、
今まで通り、素知らぬ顔で付き合う事を拒絶するのだ。
彼であれば、この様な事になるのであろうと、
こういう結末を解かってはいたけれど。
いつかは来るかも知れないこの日、
この瞬間を…。

見るのが辛い。

解かってはいても


やはり、辛い。
今までフェルゼンを想い流して来た涙。
そして、今溢れる涙を私は止める事が出来なかった。

もう諦めた想いだったけれど、
確かに軍服を纏ってはいるが、女としての、私の初恋だったのだ。

そして、もう、本当に全ては終ってしまった。
本当に終ってしまったのだ。


私の恋はやはり
受け入れられる事は無いのだから。

神よ!!
なにゆえにわれら3人を、このフランスの地に
むすびあわせたもうたのか!?


私の心から愛していた彼。
こんな風な、別離が来るのなら何故、逢わせたのだ!


フェルゼン…この名と共に、永遠の友。
あの頃に戻れたら。どんなにか幸せなのだろうか。

もう私は彼の瞳を見ることさえ出来なくて、
溢れ出る涙に後ろ髪を引かれながらも、
その場を走り立ち去った。


フェルゼン、

もうお前に逢う事は無いのだと、胸に深く刻みつけながら。




* 〜*〜*〜*〜*〜*〜*


自室の前の扉



私は、
厚く、重い扉を開ける。


こんなに重いものだったのか。


暗い部屋
独り、ひっそりと舞い戻る。


私の帰る場所。私の憩う場所。
なのに…、今日一日の出来事が私を襲う。


駄目だ。


此れで一杯一杯だ。
…今日は、もう構わなでくれ。

手近にあった椅子に崩れるように、目を閉じ、座り込む私。

しかし、否が応でも浮かんでは消える
今日の出来事。
私の心象風景。


どんな腐った社会でも、
そこに居る人々は、悩みはあるのだ。
貴族でも、平民でも其れは同じ。

哀しみにくれる王后陛下。
まだお小さいのに必死に病魔と戦う王太子殿下。


冷たい川へ、飛び込んだベルナールの身の上。
独り兄弟を護り、捨てられた、ロベスピエールの身の上。

平民に寄生し生きる、貴族社会。

そんな中でも、憎しみや葛藤は、渦巻いている。

渦巻いていて、人は其処で、
足掻き、光を求め、彷徨う。



私は、如何しても、
彼を、黒い騎士として、引き渡す事は出来なかった。
いや、始めから、そんなつもりも無かった。


まだまだ学ばなければ為らない事、
知らない事が多すぎて…、

私が如何に、無知であったか。

私が如何に愚かなのか。

如何に思い上がっていたのか。

そして、如何に弱い人間なのか。



少し

息が出来ない。

人の世の無常。
蠢く欲望、


そして愛。



だが、
今日は…もう
私を解放してくれ。

溺れて、しまう。

今は、
何も考えたくは無い。

疲れたのだ。




父上に、彼の引渡しを拒否し、部屋に戻った私は、
明かりをつける気力さえもう無かった。

考えてみれば、面と向かって、父に逆らうのも、初めてに等しい。

少し、笑いたい様な、
泣きたい気分だ。

しかし…今は、

余りにも空虚だ。


私を襲った、
余りに沢山の出来事に、


独り、暗い部屋の中、

私は、
ただ心を持て余し、
闇に同化したかった。

フェルゼンのあの言葉。
フェルゼンのあの瞳。

もう忘れてしまいたかったのに、
それだけが繰り返し思い出される。


「やっぱりお前だったのか…」

そう…、貴方が踊ったあの貴婦人は私。

「もうあうことはないだろう」


もう会えない。貴方に会えない。
私は貴方のかけがえのない、友なのだから。

だから、もう今までの様には、会えない。



嫌だ。悪い癖だ。

本当に今はもう何も考えたくないのに。
想いがまだ心の底で、あの蜘蛛が花を蠢く様に、苦しめる

今だけ、今だけは…。


光の入らない部屋は寒い。
寒いのは部屋か、それとも、震える私の心か。

私は独り部屋の中、何も考えまいと、
ただ、ただ心を空っぽに仕様と瞳を閉じる。

寒さに震える迷える子羊の様に

そう、お前が其の扉を開けて、光を入れるまで。
私はただ、虚無の中、独り心を浮遊させる。



私をただ、解放してくれと、
見えない誰かに心で問いかけ、
闇と同化する。

同化したいのに、同化しきれず、流れる涙

涙をどれだけ流せば、いいのか。


静かに流れる時の中、
私は一人
暗闇を抱きしめる。


私を救ってくれる、天上から降りて来る蜘蛛の糸

その存在を何処にも感じることが出来ず、
ただ、闇に溶け込む。

もう何も今だけは、考えたくは無いと
ただ其れだけを願いながら…。