蜘蛛の糸〜誘惑〜



俺の心に
漆黒の影を落とし、
今も、この胸に狂おしく残っている…
一点のこの物悲しい想い。

微かに甘く香しいお前の移り香と
俺が引き裂いたその衣(きぬ)に残る…お前の乾いた涙の痕。


俺の罪深いこの手が、
この腕が、この唇が
この眼が、この耳が、
俺のこの指が、

俺の全てが…、

未だに、お前を想い、
其の罪を悔いながらも、震えてやまない。


繰り返し思い出されるあの情景。


あの哀しい叫び声が、
今も
俺の心を乱暴に鷲?みにし、
握り潰すが如く、しっかりと離す事無く俺を苛む。


狂おしい想いと、許されざる背徳の罪が、
お前への愛を抱く俺を、
真っ二つに引き裂く。

俺の心、神経、筋肉の繊維の一本一本までも
無残に引きちぎっていく毎日。

俺が仕出かしてしまった
取り戻す事の出来ない罪と深い後悔の念。

其れでも尚、お前を愛してやまない
狂気にも似た俺のこの行き場の無い想い。

俺は、深く頭を垂れ、
罪を請い、自らを戒めながらも、

…お前の柔らく、きめの細かい、
吸い付く様な、あの白磁の肌、
夢にまで見たお前のあの艶やかな肌を、
其の感触を
忘れる事が出来ない。

何処まで俺は罪深いのか。

柔らかく、甘く…俺を狂わせる吐息、
俺の心を誘い(いざない)、奪う…其の可憐な唇。
しっとりとした甘い薔薇の芳香。

いつもは隠れて密やかに咲く
俺を罪に誘うあの場所は、
未だに…悩ましく俺を惑わし誘い続けるのだ、
…眩暈がする程に。



俺は覚えている。
そしてお前もきっと覚えているのだ。

オスカル…
お前は女で俺は男。

当たり前の事なのに、俺達の間では、
決して当たり前ではなかった…
否定されて来た事実。


いつも、もう少しだけ手を伸ばしたくて。
延ばせば届きそうなお前の其の全てを…俺はいつも手に入れたくて。
本当は触れることさえ出来ないのに。


俺がお前に一方的に押し付けてしまった想い。
あんな形で…。情熱の赴くまま。

もう二度と後戻りは出来ない
お前と俺。



オスカル


あの時のお前は
自分の心に閉じ篭り、
暗闇の中、独り佇む、傷ついた迷い児だった。

俺はつい、お前をほっとけなくて声を掛けた。
余りに、小さく見えて。

いつもは強がっているお前が
余りに儚く、
泣いている様に見えて…

そして、何よりも、
誰かに暖めて欲しそうに見えた。


ただ其れだけだった。

俺は、お前のその心を暖め、
少しは、救える事が出来るかもしれないと

浅墓にも、思い上がり、
声を掛けたのだ。


「どうしたあかりもつけないで。」


俺はお前を護る者。
ただ、お前を護りたくて。
平静を装いお前に声をかけた。


「いま ろうそくをとってきてやる」
そう、お前の心にも灯をつけたくて

「そのままにしておいてくれ!」

声を荒げるお前は、やはり、独り泣いていたのだ。
「オスカル!?」
痛々しいお前…俺は救いには為らないだろうか。

「そ…そのままにして……そばへきてくれ……」

俺への安心感からか、
寂しさのあまり俺を傍らに求めたお前。
そう、其れが俺の役目。

無邪気な子供の頃の思い出話をしたのは、
何かに縋りたかったからだろう。
心を暖めたくて。

他愛もない思い出話。

俺はただ、
お前の心を癒そうと…。

そう
お前もまた、俺に
癒して貰いたかったのだ。

だが、

そんな話の後に
ふと、見せた、微笑みの後の、
…苦しみの影の残像。

「なぜ年月はこんなに早くたってしまうのだろう…」
遠くを見詰めるお前。お前は何を、誰を見ているのだろう。

「なぜ子供はおとなになり…苦しみの中にわれとわが身をおき…」

哀しみに身を置き、苦しんでいるのは、今のお前では無いのか?

尋常では無いお前の、
その心の哀しさが垣間見えたあの瞬間(とき)の、
お前の切なげな様子。
俺は思わず問い掛けてしまった。

「フェルゼンにあったのか?」…と。


禁じられた言葉。

其の一言を。



お前を思えばあれは、
言っては為らない言葉だった。

そして、
其れは俺にとっても
口に出してはいけない言葉だった。

一度、口にした瞬間、
其の名前にいつも付随していた俺の想い
俺の荒れ狂う男の嫉妬が、勢いよく湧きあがり
如何しても静める事が出来なかった。

俺は言葉に出すべきではなかったのだ。
あれは禁忌の言葉。


フェルゼン…。


開けてしまった神話の箱の如く。
俺の心に大きく圧し掛かり、その心を切り裂く言葉。

そして
俺の問い掛けに…答える事の出来ずに、黙したままのお前。
其の名前に、動揺するお前の横顔。

俺から、避けようとする、
お前の、其の無言の後ろ姿が、
余りに刹那的で狂おしくなる。

知りたくは無いのに、知りたくなる。
既に押さえ難い俺の心の闇が、お前に問い掛ける。

「なにかあったのか!?」

尋常では無い俺を、飲み込んでいく心の闇。

押さえようとしても大きくなる声。

嫉妬という名の狂った暗い闇が、
俺の中で徐々に、確実に広がる。
其れはまるで水面零れた緋いワインの様に。
一瞬にして血を流し、乱れる俺の心。


終ったのではなかったのか、お前の其の想いは…。
整理されたものだと俺は何処かで思っていたのに。

今も尚、お前をそんなにも苦しめて止まないのか。
今も尚、俺を苦しめて止まないのか。

何処までもお前にとって、奴は愛する男で。
俺は…。



言葉が俺の気持を、
其の形を露にし始める。

ハンス・アクセル・フォン・フェルゼン。


そう、今まで口にしなかったのは、
お前の為である様で、その実、俺の為。

お前は未だに、あの男を其れ程までに忘れられないでいる。
其の想いが真綿で締められる様にいつも、俺の心を苛んできたのだ。


「オスカルなにかあったんだな!?」

余りに苦しくて、
闇に蝕まれていく俺の心。
お前のいつに無く其の哀しげな様子に、
俺は、声を荒げ、問い掛けを続けずにはいられなかった。

「アンドレ…」

唇を噛み、全てを自分に抱え込み、涙を堪えるお前の其の顔が…。
お前の切なさが、俺の胸を深く抉り取る。

全てを自らの心の箱に封じ込め様としているお前。
もう、封じ込む事は出来ない程、苦しんでいるというのに。



そう
オスカル…


お前はこの件だけは、
俺に打ち明ける事が無かった。
俺も、お前に聞く事が無かったように。
二人にとって、其れは禁じられた言葉だったから。
触れては為らない、パンドラの箱…。

しかし、其の封印が破られてしまった今…。
空けられた箱が起こす悲劇の様に
次から次へと
俺の隠そうとしていた暗黒の闇が其の姿を現し始める。

フェルゼンへの云い様の無い狂った嫉妬と共に。

…オスカル。
お前は俺に、
何故話してくれないのだ。
俺が、部外者だからなのか!?

俺はお前をこんなに想っているのに。
お前は永遠に、俺を拒絶し続けるのか?

俺がお前をこんなにも愛しているのに。
お前は何故俺を見てくれないのだ。

オスカル…。

お前に魅入られているこの俺に、どうして気が付いてくれないのだ。



俺はお前の前では男でさえないのか。

お前にとって俺は…


そんな心の暗い叫びを軽い眩暈を伴い耳にしながら、
俺は、つい、お前のか細い其の腕に、
力を入れ過ぎてしまった。


壊れてしまうのではないかと思えるほど、
余りにも、儚い、一人の女の腕。

俺の思わず入れてしまった力の強さに、

お前はあの時、初めて俺の“男”に、気が付いたのかも知れない。

「は…はなせ」
「いやだ!」
お前が、俺に初めて向ける其の瞳。
俺の中の男に、初めて、気が付いた瞳。
俺は如何しても離す事が出来なかった。


「はなせっ アンドレ!!」
声を荒げ、それでも、尚、
俺の男を否定しようとするお前。

「いやだ!!」

俺は此処に居るのだ。
俺を其の存在を否定するな。

「あ…」

お前の中の眠ったままの女の性(さが)が、
何処かで俺が男であるが故の、危険を察知した声の響き。

お前が初めて一人の男として俺を見てくれた。
其の声の甘い響きが、俺を惑わした。

気が付いてくれたのか。
漸く…。
俺が一人の男であるということを。
俺が押さえに押さえて来たこの事実を。



お前に
今まで、完全に否定されて来た俺の男としての性(さが)。
お前が気付こうともしなかった、
顧ようともしなかった
俺の中の、
男の性(さが)。

そして、
お前が、初めて俺の前で見せた
俺に怯える女の顔…。


俺はまるで、甘い媚薬に誘われるように
お前の女に迷い込んだ。

「おれがこわいか?」
密やかに隠してきたこの想い、
俺の想いの丈を、
荒ぶる気持を…
考えもなくただ、お前にぶつけていた。


男として、俺はお前の前に居るのだ、と。

そう、
俺は男。
お前は俺のただ独りの愛する女。

其の想いが俺を、いっそう暗い闇へと引きずり込む。

もう止める事など出来ない、
お前への想い、俺の男としての欲望。

迷宮を彷徨っていた俺の、荒ぶる性が
お前をただひとつの出口として、
雪崩れ込んでいく。

「殺されたってかまわない!」

雪崩れ込む心が叫び声をあげる。
誰よりも、お前を愛している男は俺であると云う事を。
ただ其の想いが俺の心を支配する。

溢れ出した俺の想いは、堰を切った様に一気に溢れ出し…、

「お前を愛している!!」

そう、愛している。
愛しているんだ。

狂おしい程に、
この命を賭けて。

俺は俺の激情に流され、
闇を彷徨う、荒狂う俺の封印した愛情を
怯えて竦むお前に、考えも無く激しくぶつけてしまった。

お前が如何に、傷つくかより、
俺は俺の想いを優先していたのだ。

そして、強引に奪ったお前の唇。
夢にまで見た俺を捕らえて離さなかった其の香しい唇。

狂う様な陶酔に俺は、俺を制する事などもはや出来ずにいた。
お前の震える唇に、無理矢理割り入り、熱い想いを乗せ、狂った様にお前を貪り…

「オスカル!!」

俺の中で、小さく震えるお前の蒼褪めた様子にさえも気がつかない程に。
お前を愛する気持をただ切々と語り、愛しさに、其の項に顔を埋め、
絹糸の様な黄金にけむる美しい髪を指で梳きながら、
薄絹を纏うお前の肌を感じ、強く抱きしめる俺。

戸惑うお前の肩を抱き、
其の儚さに酔い痴れ、

お前を誰よりも
愛しているのだと知って欲しくて。

俺は密やかに隠し通そうとしていた其の想いの丈を、
遂に吐露してしまった。

「おまえをほかの男の手にわたすくらいなら…このまま射殺されてしまった方がましだ!」

そう、殺されても構いはしない程に深く、
お前を愛している俺の心の叫び。

俺の心は涙を流し、お前しかもう見えない。
お前だけを愛しているのだ。


「ほしいというならこの命もくれてやる!」


「だから…オスカル」
俺の声を聞いてくれ。
俺を男として少しでも見てくれ。
俺の想いをどうか聞いて欲しい。
ただ其れだけで良いから…。

頼むから…



だが、
お前は
俺から逃げてしまうのだ。
いつもすぐ近くに、居る様で、実はとても遠い存在のお前。

「は…はなせ人をよぶぞ」

此処まで来ても尚、お前は俺を否定する。
俺が男であることを。そして俺のお前への愛情を…。

「愛している!愛している!愛している!」

狂おしいこの狂気にも似た絶望的な想いに、もう我を失っていた。
夢か現かわからない程に。

如何して解かってくれないんだ。
抱きしめても、抱きしめても、
するりとお前はいつも、離れて行ってしまう。

俺がこんなにもお前を愛しているのに。
どれだけ抱きしめればお前は俺を認めてくれるのだ。


ただ其れだけを
俺は聞いて欲しくて。

「いやああああーーーーーーー!!!」

闇を切り裂くお前の叫び声。
何処までも俺を拒絶する其のお前の声。
俺はもう、其の叫びの意味さえ解からぬまま、
ただ、ただ、想いをぶつけるしか出来なかった。

そう、


其れは、
俺には甘美の声として聴こえ
獣の様に、お前を求めた俺の、漆黒の闇が、
より深く俺を支配し、遂には、暴力的に其の牙を剥き出した。


そして

力任せに破った絹の衣。

其の音にお前は俺を初めて真っ直ぐ見据えた。



そして、

何かを悟ったかの様に
流した一筋の涙。



お前の頬を伝う一筋の涙…。



「それで…どうしようというのだ  アンドレ…」
抵抗する事さえも、其の生きる輝きさえも失ったお前の瞳と声。
破ったのは、衣だけではなく心もまた俺は…。





其れは

俺を一瞬にして闇から引き上げた。


真珠の涙。
破れた衣(きぬ)
白く光る陶磁の肌、
其の甘やかな薔薇の香り。

乱れ散った絹糸、黄金の髪。
白い絹のベッドに横たわるお前…。

オスカル…俺は一体…!


仕出かした其の事実に直面し驚愕する俺。

一番大切なものを俺は…、
卑劣な暴力によって、奪おうとしていたのか。

愕然とする俺の心が、お前を想い、
思い切れないまま、深く悔やむ。




「すまなかった」

この罪を、この俺を、
お前はもう二度と俺を許しはしないだろう。

犯してしまった事の大きさに、
お前の心の傷に
俺はどう償えば良いのだろうか。

「もう二度とこんなことはしない。神にかけてちかう」

しかしながら…、
俺はお前の側を離れる事さえ出来ないでいる。

そんなにも、俺はお前への愛に溺れ、
お前が居なくては生きられ無い程に、
深く狂っているのだ。

そう、
本来ならば俺はこのまま、お前の傍に居る事も、
この屋敷にさえ、もう居るべきでない。

其れが解かっていても、
離れられない俺。

こんなにも
狂おしくお前を愛しているのかと
今更ながらに其の恐ろしさに震えながら、お前を想う。

「だけど…ああ…愛している 死んでしまいそうだよ」

お前の為なら死すら怖くは無い。
そう、
この愛を思い切る事は死以上の事を意味するのだ。

だが…せめて
犯した罪と
お前への償いとして
俺が出来る事といえば

お前には二度と触れない事。

想いを込め、お前の掌に俺は、最後の愛撫をする。
苦しくて、この想いに押し潰されそうな俺の弱き心を抱え。

俺はこの弱い自分と此れからも、向き合っていかなくてはならない。

残るのはただ、お前を愛しているということだけ。
どんな裁きも俺は受けよう。

愛しているのだ。お前を…



「アンドレ…」




俺の名前を
優しく呟くお前の声。


オスカル…
今も尚、
残り香りが俺に纏わり、
狂う様な、俺の心の闇が夜毎、俺を苦しめる。

俺はいつも、お前を一番に想い、
お前の事だけを考えて生きてきたというのに。


俺はこの罪の深さと共に、
永遠に続く地獄の深淵を見て生きていくのだ。

オスカル…、

俺が、
俺自身の手で、崩してしまった。
俺が今まで積み上げてきた大切なもの。
波にさらわれる砂の城よりも其れは…呆気なく、

一瞬、

俺の心に吹き荒れた嵐。

割れてしまった脆く美しい硝子の細工。



俺は
本当は、いつも、
あの儚い硝子細工を抱え、
細い蜘蛛の糸を渡っていたのに、
いつの間にか、其の状態に甘んじ、慣れ、
現実から逃避する様に、気がつかない振りをしていたのだ。

お前の尊厳を、
お前自身を
お前の高潔な魂さえも、
いつも、俺が全てを掛けて護りたいと
思っていた其の影で

密やかに隠れ潜んでいた、燃え滾る様な獰猛な獣の俺が、
紅い舌を出して其の機会を、お前を狙っていたのだ。


着々と
お前を抱きたい、
俺のものにしたいと
執念深く…。





あの
縷々とした
細い一本の蜘蛛の糸は、
とても儚く、か弱き糸なのに。

何処かで、このまま、ずっと
切れないのではとの錯覚さえ覚えていた。

愚かな俺。

俺は、俺自身を偽り続け、
いつの間にか、騙し遂せると過信していたのだ。

お前を大事に想っていると、
誰よりもお前を護る者は俺なのだと、
俺は俺の中で、懸命に思いながら。


本当は
いつも、
俺の男の部分を
お前に見て欲しくて、
気がついて欲しくて、
俺を気にかけて欲しくて
其の思いに渇望していたのだ。

いつ、狂うかもしれない程の想いを抱え込み、
喘ぎながら暗い迷宮を彷徨っていたのだ。

狂おしい程に押さえてきたこの想い。
俺はいつも其の想いの前で
葛藤し、醜くのた打ち回り、
足掻いていたのだ。



お前を抱く俺を…
何度夢見た事だろうか。

俺の腕の中で甘く喘ぎ、
恍惚に浸る美しいお前の夢。
何度も何度も飽きる事無くお前を貪る俺の夢。

在り得ない事と、
朝の光の中、其の想いに鍵を掛けながらも
俺は毎晩の様にお前を抱いていたのだ。
飽く事無く、本能の赴くままに。
夢の中…。

お前を汚す事、侵す事を
一番恐れていた俺の本当の顔。

怖れていたのは
俺が其れを一番欲していたから。


俺は、いつも其の機会を狙い、
醜く緋い舌を出し、爛々と燃える瞳をぎらつかせ、
お前を他の女と同様にこの腕に、擁こうとしていたのだ。

だから、あの時

俺の醜悪な男の部分が、
お前を破壊せざる負えない程に、
其の牙を剥き、哀しみにくれるお前に
襲い掛かったのだ。

お前を一番理解する者、
尊重する者、
忠実な従僕、
幼馴染。
其れを自負し、誇りに思ってさえいた俺が…。



オスカル…。

黒い騎士の件で、
命を賭けてお前の思いを叶え様とし、
俺が自分の身を貶めて行った盗みの数々。
そして、…失明。

俺の中の甘えが、何処かできっと俺の想いに
気が付いてくれているのではないかと、
儚い夢を抱いていたのかもしれない。



全ては愛するお前の為、といいながら、
その実…、
俺は俺のエゴが、計算高さが、背後に存在し…。

でなければ、あんな。
あんな事をお前に出来る筈が無いのだ。






お前があの時、
真っ直ぐに俺を見てくれ無かったら、
俺は如何していたのだろうか。

果たして、
思いとどまる事が出来ただろうか。

オスカル。

お前の流したあの一筋の涙が、
あの時俺を救う唯一の蜘蛛の糸であったのだ。


オスカル。
もうお前には二度と触れない。

其の髪も、其の肩も、其の指にさえも、
二度と触れない。

傍に居て、お前から離れられない、
情けない程、愛に溺れ、足掻く俺にとって、

其れは俺に課せられた罪、
例え、何ものにも変えられない苦しみを齎すとも。

そして、もしも、お前が、
俺の存在を抹殺したいのであれば、
いつでもこの俺を其の剣で切り裂けばいい。

この俺の胸を抉り、赤い血を流し俺は、俺をいつでも捧げよう。

オスカル

愛している事はどうしても神であっても、
悪魔であっても辞められないのだ。

情けない程に。

俺は
ただ頭を垂れるしかないのだ。
もうお前を直視出来ないほどに。

だが…
オスカル…

何故なのだ。

お前は未だに俺を、
其の罪を問おうとしない。

其れが俺をどんなに苦しめる事なのか、
知っているかの様に。

やはり、お前は俺の男を抹殺する事にしたのだ。
其れならば俺も、俺の中の男を自ら抹殺しなければならない。

たとえ、緋色の血を流しながらでも。
この肉を切り裂きながらでも…

果たして其れが出来得る事なのか。



神話の箱に
最後に残ったのは、希望
俺は、其の名の糸を紡ぐ様に。

切れてしまったあの細い縷々とした蜘蛛の糸を
切れていると知りながらも、
ただ其れを頼りに
闇を歩き続けるのだろう。

天上の光を持つ高貴なるお前を護る為に。


もうお前には二度と触れる事は無いと
其れだけを深く心に刻み込んで。

お前だけへの愛を抱きながら。

そう、俺はお前を護る者。

もうお前には二度と触れない。
其れが俺の愛。


俺の天上人。
オスカル・フランソワ
硝子細工の様なお前を。

胸に抱き、
想いながら、
俺は今日もあの蜘蛛の糸を渡り続けるのだ。