「アンドレの見た悪夢」


 それは、暑いとはいっても湿度の低いフランスでの7月の夜の出来事。
 ジャルジェ家のある一室から、勢い良く一人の男が部屋を飛び出してきた。そう、
飛び出すと言う表現がぴったりの慌てふためいた様子である。見ると男は夜着のま
ま、寝台から飛び起きてきたかのように、髪も乱れて、足元に目を落とせば、なんと
裸足である。
男は、暗闇をいかにも慣れた足取りですいすいと歩き、やがて、足音を偲ばせなが
ら、そっと階段を上り始めた。真っ暗にもかかわらず、迷う様子も手探りするような
気配さえまるで感じられない。
 やがて、ある扉の前に来ると、あたりを見まわしてから小さく扉を2回、コツコツ
とノックする。少し間をおいてさらにもう1回。それが決められた合図だった。

すると音も無くすっと扉が開き、男は中へ導かれるように足を運ぶ。
「遅かったな、ずっと待っていたのに・・」
拗ねるような口調で、中の人物は男を見詰めて声を掛ける。
「悪かったな、オスカル。まだ時間があると思って、横になったとたん、眠ってし
まったらしい・・今気が付いて慌てて来たんだ・・・」
「もう、来ないのかと思った」
「そんなわけ無いだろう。あんまり慌てて飛び出してきたから・・・ほら、裸足なんだ」
思わずオスカルも彼の足元に視線を落として、ふたりは顔を見合わせて笑った。
「そんな真っ黒の汚れた足で、私の寝台を汚すなよ。ばあやに不審に思われるだろう」
「ふふっ、そんなわけで、今日はお前と話しをするだけで良いさ」
言いながら、アンドレはグラスにワインを注ぎ、オスカルに手渡した。

「そうか、たまには、ふたりで話すのも悪くないな」
ふたりは軽くグラスの縁を当てて乾杯し、ゆっくりとその液体を口に含んだ。甘いワ
インの香りがあたりにほのかに漂う。
「あっ、オスカル、言っておくが、お前は少し無防備な所があるからな。酒が飲みた
くなったら、必ず俺に言うんだぞ。すぐに用意するから。その辺に置いてある酒なん
か勝手に飲むんじゃない!分かったな!」
何時になく強い口調でアンドレに注意を促されて、何となく不快だった。
「私が、何時、その辺に置いてある酒を飲んだんだ?無防備って何の事だ?」
不機嫌そうなオスカルを見て、アンドレもつい、言葉を濁す。
「いや・・別に・・深い意味なんて無いさ・・」
オスカルはやがてグラスを卓氏に置き、側の長椅子にゆっくりと腰を下ろした。
「アンドレ、お前もこっちに座れよ」
アンドレもにこやかに笑いながら、すぐその横に腰を下ろして、オスカルの肩をそっ
と抱きしめた。そのまま、軽く口付けを交わす。オスカルはアンドレの肩に自分の頭
を持たせかけて、目を閉じた。その様子に
「オスカル、今は屋敷で非番だから良いが、王宮の庭園ではこんな事は絶対に辞めよ
う。何処で誰が見ているか、分からないからな。膝枕だってそう言う所ではちょっと
出来ないんだ」
アンドレの言葉にオスカルはいきなり身体を起こして、真っ直ぐに彼を見る。
「お前な、さっきから、いちいち変な事ばかりを私に言ってはいないか!どうして私
が王宮の庭園で膝枕なんだ!冗談は笑えるものにしてくれ!」
オスカルはそれだけ言うと、ぷいっと顔を背けてしまった。
「あっ、すまない。怒らせるつもりなんて・・ちょっと・・変な夢を見たもんだから・・・」
アンドレがうっかり洩らした「夢」という言葉がオスカルの興味をそそった。
すぐさま、アンドレの方に向き直り、含み笑いを浮かべながら尋ねて来た。
「その夢って、ひょっとして私が出てくるのか。お前の夢にまで出てくるなんて、何
だか悪くないな」
「いや、それがその・・あんまり良い夢とは言いがたいので・・」
「何だ!言いかけて辞めるなんて男らしく無いぞ。所詮は夢の話しだろう。怒らない
から話してくれ」
オスカルの言葉を聞きながら、アンドレは今はこう言っていても絶対に怒るに違いな
いと確信を持ちながらも、やむなく話し出す。
あぁ・・なんて不幸なんだと心の叫び声が聞こえてくる。

「まぁ・・かいつまんで話すぞ。お前と俺は、夜中に王宮の庭園を警護して歩いてい
るんだ」
「うんうん、それで・・・」
「そこへアントワネット様が現れるんだ。どうもフェルゼン伯爵と密会の約束がおあ
りの様だった」
「ふうん、それで」
「それが、人目を偲んでおられる筈なのに、お召しになっておられるドレスは目にも
鮮やかな黄色の、それは華やかで豪華なものなんだ。それも大声で歌を歌いながら歩
いておられるんだ」
オスカルはびっくりして、少し笑いながら
「おいおい、アンドレ、ベルサイユの闇に紛れようと思ったら、濃いブルーか、紫の
ドレスって決まっているじゃないか。フェルゼンとの密会にどうして選りにもよっ
て、黄色なんだ。一番夜に目立つ色じゃないか。はははっ・・ちょっと馬鹿馬鹿しい夢
だな」
「俺だってアントワネット様にお尋ねしたいくらいだよ。で、現れたフェルゼン伯爵もま
た華やかで目立つ装いなんだな、で、おふたりは離れた場所から大声で話しておられ
るんだ」
「益々、変な話しだな。どうして小声で側によって話さないんだ?」
「俺だってそんな事知らないさ。で、大声で歌ったり踊ったりして、まぁ、側で見て
いてはらはらするよ。そこへお前が登場だ。そりゃ、ふたりに気が付く筈さ、なんて
いったって、おふたりはすごく目立っていらっしゃるんだからな」
「・・・・・」
「で、夢の中のお前はまだ、フェルゼン伯爵に想いを寄せているらしくて、その情景
にショックを受けて、座り込んでいるんだ」
「私がか?何処に座っているんだ?」
「庭園に置いてある椅子にだよ。おまけに目の前のテーブルには酒が置いてあるんだ」
「何故そんな所に酒があるんだ?誰かが忘れて行ったのかな。宮殿の中ならともか
く、気持ちが悪い酒だな」
ぶっきらぼうに話すオスカルにアンドレは、少し間をおいてから
「お前は、その酒をグラスに注いで良い調子で飲んでいるんだ」
「私がか?誰が置いて行ったかわからん酒を?それに、そのグラスはどうしたんだ?」
「置いてあるんだよな、これがまた・・さぁ、飲んで下さいといわんばかりに・・・」
オスカルは一瞬言葉を失い、じっと考えて見た。どうも夜勤の見回り中に酒を飲んで
いる自分。それも、何処の誰が忘れて行ったのか、分からない酒だ。おまけに置き忘
れてあるグラスを使ってだ。
「オスカル、しかもその酒は開封してあったぜ。頼むから、絶対にこんな事は辞めて
くれよ。妖しい薬でも入っていたら、どうするんだ」
「好い加減にしろっ!黙って聞いていれば、よくもそんな事を。私が勤務中に酒など
飲む筈なかろう!馬鹿馬鹿しい!」
「いや・・まだ続きが・・」
「なんだって・・もう来れ以上酷い話しも無いだろうが・・・この際だから残りも聞いてやる」
アンドレは暫く黙っていたが、やがておもむろに口を開いた。
「そのあと、お前はたった1杯のグラスの酒に酔って、もうふらふらなんだ。まぁ、
黒騎士とかいう盗賊と格闘したりしたせいもあるんだろうが。で、そのあたりの長椅
子で昼寝 しているんだな、いや昼間じゃないから夜寝になるのかな?」
聞いているだけで益々怒りが込み上げて来る。底無しに酒が強いと自負している私が
たったグラスに1杯の酒でふらふらだと!そんな情けない有様だとは,たとえ夢の中
でも許せたものではない。無言で顔を引きつらせているオスカルにアンドレは恐る恐
る声を掛ける。
「いやまぁ、その昼寝のときに俺の膝枕で気持ち良さそうに寝ているんだ。俺はもう
我慢できなくてお前に口付けしていた。俺ってすごく柔軟な身体なんだなって自分で
感動したよ」
「それは良かった事だな。しかし、嬉しくない接吻だ。勤務中に酒を食らって、昼寝
している時とは・・・この私がか。それもたった1杯の酒に酔ってふらふらとは・・・お
前は常にそんな風に私を見ていたのか。だから、そんな夢を見るんだな!」
最後の言葉はこの上なく強い怒りを帯びて、アンドレに迫ってくる。
「いや・・まさか。俺だってびっくりしているよ」
オスカルは無言で彼の手を振り払い、じろりと睨みつけた。
「有り得ない・・・絶対に有り得ない夢だと思ったから、俺だって驚いているんだ。なん
であんな夢を見たんだろう?すごく不思議なんだ。でも、ひとつだけ、当たっている
事があったな」
「・・・・・」
「その夢の中でも俺は、一途にお前だけをずっとずっと愛しているんだ」
ふと振り返るとそこに黒曜石を浮かべたような瞳が情熱を込めて、オスカルを見詰め
ていた。やがて、吸い寄せられるように彼の胸に崩れおちる。ゆっくりと交わされる
熱い口付け。
部屋の中からは、ふたりの会話は聞こえなくなり、熱い吐息だけが微かに漏れ聞こえ
る空間へと変わっていく。開け放たれた窓からは夜風が心地よく流れ込み、夜空には
星が煌く7月の夜の出来事。


これは昨年の★組公演を見た娘が抱いた疑問を突っ込んでみました。あの場面は確か
に美しくて好きですが、考えたら不思議と言う事で、書いたコメディです。