眠りと目覚め



 ――眠れない。
 暗闇の中、オスカルは寝室の棚からブランデーの瓶を取り出すとグラスに注いだ。
 フランスが変わる。どう変わっていくのか分からないが大きなうねりが脈打っているのを感じる。良い変化か悪い変化か。いずれにしても世の中が変わろうとする時の巨大なエネルギーがフランスに満ち満ちている。一つの文明が崩壊し再生されてゆくのだろうか。崩壊には流血が伴う。
 ブランデーをあおり窓の外を見る。夜の闇の中に青白い月明かりが木々の形を浮かび上がらせている。その明かりは部屋の中にまで入り込み部屋は薄青く見えた。オスカルは窓を僅かに開けた。隙間から晩秋の冷えた空気が入り込む。それがブランデーで火照ったからだに心地よかった。いつからこのような酒を飲むようになったのか。酒は嫌いではなかったしワインやリキュールの類はしょっちゅう飲んでいた。でもブランデーは別だ。ブランデーの喉を焼いて落ちてゆくような熱さが好きだ。胃の腑に収まると全身に揺るぎない熱がしみわたり頭の芯がほぐされる感じがする。
 そうだ眠れなくて試してみたのだ。何も考えず深い眠りに落ちていかれた幼い頃は別として寝付きのいい方ではなかった。からだが疲れていても精神が冴えているとだめだ。眠れない。寝返りを打つのにも飽きて本でも広げてみる。オスカルは寝しなに活字をよく読んだ。活字を追っていると神経が落ち着いてくる。寝台の脇に蝋燭を立て寝る前のひと時を楽しむ。蝋燭の明かりにうつし出される小さな世界。優しく眠りにいざなってくれる扉でもあった。
 ワインを飲みながらアンドレにつき合わせてよく夜中まで語り明かしたりもした。そう、眠ってしまうのが惜しいような綺麗な夜もあった。
 オスカルはもう一杯グラスにブランデーを注ぐとそれを持って窓辺の椅子に腰をおろした。テーブルにグラスを置く。ブランデーの芳醇な香りが心地よい。
 もうあんな楽しい夜はこないのだろうか。フランスの膿んだ体の上に立っているようで辛い。その傷ついた体は疲れきり打ちひしがれた人々で出来ているのだ。彼らは血の通った瑞々しい感受性を持った生きた人間なのに。血を流し何かを訴えている。支配階級の方も膿を持っている。彼らは自分達がもう何者であるかが分からなくなっている。あちこちで起こる略奪や暴動。貴族達が公然と国王に楯突き市民が軍隊に歯向かう。どうなっていくんだフランスは。

 ――アンドレ、お前はもう寝ているのだろうか。
 オスカルは腕に頭を乗せ眠りが来るのを待つ。
 フランスだけではない。自分の中にも大きな変化が訪れていることにオスカルは気づいていた。アンドレ、アンドレ、心の中で何度も呼びかけてみる。
 ジェローデルに彼を愛しているのかと聞かれ答えられなかった。フェルゼンに暴徒から助け出され彼を置いて逃げた。しばらくぶりに見るフェルゼンだった。あんなに恋焦がれたフェルゼンだった。彼は自分を貶めアントワネット様との関係を暴露してそれをおとりに救ってくれた。そんなフェルゼンを残しアンドレを連れて逃げた。傷ついたアンドレを放っておけるはずがない。でもそれだけでない事をオスカルは気づいていた。ただこのような感情をどう呼べばいいのかわからなかった。
 フェルゼンは何か言っていた。「…故郷へ帰るところだ。グスタフ陛下の命令でロシアと戦わねばならない」フェルゼンが故郷へ帰る、ロシアと戦う。ああ、なんという違いだろう。アメリカへ渡ったフェルゼンを待っていた時と。まるで自分の中の感情がすっかり抜けてしまったようだ。

 ――アンドレ。
 オスカルは指先でテーブルをたたきながらもう一度呼びかける。眠りはまだやってこない。
 アンドレがこの家に来た日を思い出す。父親に死なれたアンドレは母をも亡くしたばかりだと聞いた。幼いオスカルには父母を亡くすという事がどのようなことだか分からなかった。でも想像したみた。あの優しい母上がものも言わず寝台の上に横たわっている姿を。それは水をかけられたようにぞっとする出来事だった。オスカルは思い出した。友人の母が亡くなり棺に入った彼女を、その葬列を見送ったことを。友は泣いていた。人が死ぬ。それはオスカルが初めて見た死の光景だった。アンドレはそれを体験してきた。どう彼に接していいか戸惑った。
 初めて見るアンドレは悲嘆にくれている様には見えなかった。小さな笑顔を見せることもあった。でもオスカルは少しでもアンドレがぼんやりしているとたまらなく不安になってとてつもなく面白い遊びに彼を誘うかめちゃくちゃな剣の稽古に付き合わせるしかなかった。アンドレが母の事を考えて悲しい想いをしているのではないかと心配した。あの葬列を思い出させてはいけない。そう思ったのだ。穏やかそうに見えるアンドレの表情の影に深い悲しみが隠されているようで彼が泣き叫んで母を恋い慕わないだけに押さえつけた彼の苦しみが思いやられた。

 ――でもアンドレ、もしかしたら母上との語らいを私は邪魔していたかもしれないな。
 アンドレはよくうたた寝をする事があった。椅子に座ったまま或いは裏庭の木の根元で。母はオスカルに言った。
「疲れているのですよ。眠らせてあげなさい」
 そう言って上掛けを掛ける。
 オスカルはアンドレの側に座ってアンドレが目覚めるのを待った。アンドレが眠ってしまうと詰まらなかった。こんなに毎日は退屈だったのか。早くアンドレが起きないかと待った。
 オスカルはアンドレの顔の下に潜り込んでその顔を見上げる。アンドレは口を小さく開けて柔らかな寝息をたてていた。黒いまつげを綺麗に揃えて可愛らしい顔をして眠っていた。オスカルはそっとアンドレの鼻の頭に触れてみた。アンドレは構わず眠り続けている。唇に触れてみる。アンドレはうるさそうに首を振ったが起きなかった。オスカルはもう少し顔を近づけるとまつげに触ってみた。黒いまっすぐなまつげだった。アンドレは目を擦ると眠そうに目を開けた。
「オスカル」
 目の前の人物を意外そうに見つめアンドレは夢の世界に別れを告げる。結局こうしていつも起こしてしまう。でもアンドレは途中で起こされても決して怒ったりはしなかった。それは遠慮というものではなかったような気がする。眠そうに見えるのはほんの一瞬で後はしっかりと覚醒する。羨ましい奴だ。オスカルは考える。もし自分が夢の途中でそれを蹴られでもしたらおそらく癇癪を起こしただろう。ゆっくり寝ないと頭がはっきりしない。
 でもアンドレがうたた寝をしていたのは家に来てからしばらくの間だけでその後はそんな事はなかった。それどころか彼は早起きで気がつくと庭に出ていた。そして夜が早い。オスカルがアンドレと夜の読書でも楽しもうと部屋を訪ねてみるともう寝ている。寝起きも良ければ寝つきも良い。感心する。
 けれどもそれも子供のうちだけで年と共にアンドレも宵っ張りになり充分オスカルに付き合う事が出来た。でも朝早いのは変わらなかった。
「明日は休みだから朝はゆっくりできるぞ」
 休日の朝、オスカルがいつもより遅い朝の眠りを楽しんでいる時アンドレは日の出と共に起き出していた。まったく鶏のような奴だ。一体いつ寝ているのだ。
 オスカルはグラスをのぞき込んだ。僅かに残った液体を飲み干しグラスを机に置く。硬質な音が部屋に響き孤独をかき立てた。
 オスカルは闇に慣れた目で部屋を見回した。両肩を抱きアンドレを想う。目を閉じてもう一度記憶を探る。アンドレの可愛い寝顔。あの時はアンドレの心の傷を思っていたが今は彼の母に想いが馳せる。
あんなに可愛い子供を残しどんなに無念だっただろう。今の彼を彼女に見せてあげたい。立派になった彼を見せてあげたい。彼女は成長するわが子を見守る事が出来なかった。一度でいい、アンドレの母上に会ってみたかった。彼を生んだ人がどんな人だったのか会ってみたかった。オスカルは肩を抱いたまま寝台に横たわった。眠りがすぐそこまで来ていた。


        ******


 アンドレは部屋を出た。もう屋敷の中は寝静まったころだろうか。ちょっと厨房まで行って水を取ってこよう。明かりはつけない。帰りは屋敷の中をぐるりと回って帰ってくることにする。
 年が明け三部会の召集が布告された。時間の問題だとは思っていたがこれでフランス衛兵隊はますます忙しくなる。アンドレはオスカルの激務を思った。フランス衛兵に移ってからは近衛の時より確実に仕事が増えた。ベルサイユや宮殿内外の警備に加えパリの治安も任されている。パリに何かあれば必ず衛兵隊が駆り出される。パリの治安は急速に悪化していた。パリでオスカルと馬車に乗ったところを襲われてからオスカルは始終パリの様子を気にしている。毎日ダグー大佐にパリの状態を報告させ熱心に聞いている。
 昨年くらいからパリは抱えきれない程の色々なものを抱え爆発寸前だ。農民や浮浪者や軍隊がなだれ込み飢えが支配し不満と怨嗟が渦巻いている。以前から貧しさや不公平があったにせよパリは陽気で活気に満ちた街だった。良いものと悪いものがごちゃ混ぜに同居する刺激的な喧騒とけだるい倦怠に包まれていた。世界の中心、文化の発信地。あらゆる美しい物と最先端の楽しみとすすけた家々と曲がりくねって汚い路地があった。
 パリ、世界中の憧れを集め外国の文化を取り入れる事に寛容で好奇心に溢れた街。刹那的な享楽を愛し退廃と爛熟を誇っていた。それがどうだ、人々は今日を生きるのに必死で今そこには剥き出しの貧困と底知れぬ絶望があるばかりだ。
 パリだけではない、フランス全土に不安と緊張が高まっている。昨年グルノーブルで起こった屋根瓦事件、これは混乱を如実に物語る事件だった。そして発砲できない軍隊はいかに無力かという事を思い知らされた。今後いつオスカルの隊が同じ目に会うかわからないのだ。オスカルが絶対に民衆に銃を向けない事はアンドレには解っていた。だから不安なのだ。
 おばあちゃんがオスカルが強い酒ばかり飲むと心配していた。オスカルは人の痛みを我が事のように感じる感受性を持っている。アンドレはそれを真近でつぶさに見てきた。オスカルには祖国の軋んだ叫び声が聞こえるのだ。それがあいつの心を乱す。アンドレにもオスカルを通じてその声が聞こえてくる。三部会がこの状況の打開点を作ってくれる事を祈る。フランスを生まれ変わらせてくれ。
 オスカルの心を辛くさせる事は祖国の不安定さだけではなかった。王太子殿下の具合が良くない。オスカルは衛兵隊に移ってからあまりベルサイユ宮殿には行っていない。あれほど誠意を尽くしてお仕えしたアントワネット様に数えるほどしかお会いしていない。王太子殿下やアントワネット様の事が気にかからない訳がないのに頻繁に会おうとしないオスカルにアンドレは辛い葛藤を見る。
 そしてオスカル自身の問題。立ち消えになった結婚話。あの時の事を思い出すとアンドレは体中が熱くなる。オスカルの思いなど顧みる余裕などなかった。全身の血が沸騰するような嫉妬と苦悩。皮膚を切り裂くような絶望と無力感。そして決定的な自己嫌悪。
 狂っていたとか己を見失っていた、どういい訳してもあの行為を正当化できるとは思わない。オスカルはもしかしたら感づいたかもしれない。何が成されようとしたのか分かっただろう。それでも何も言わない。アンドレは決心した。もうオスカルに愛しているなどと言わない。自己を押し付けるような事は決してしない。徹底的に自分を殺し影に徹するのだ。オスカルが望む通りに、生きたいように、自分に出来ることをするまでだ。
 オスカルにはもう安寧の日々は訪れないかもしれない。女なら誰でも望み叶えられるだろう結婚して子を成す、平和な家庭を持つという事はオスカルにはないのかもしれない。アンドレは人間の欲の深さに辟易する。あんな思いを味わったのに何を考えるのだ。こんな考えは自分をますます惨めにするだけだ。自分には何の力もないという事を嫌というほど思い知らされてきたではないか。
 それからディアンヌの死。自殺だった。結婚を夢みて破れ自ら命を絶ったディアンヌの死は妹を愛しかけがえのない者として慈しんでいたアランの狂わんばかりの悲しみと共にオスカルの胸に残っただろう。

 厨房に着くとアンドレは水差しに水を入れた。オスカルの悩みを思いやるのもいいがアンドレにはやる事があった。しかも早急にだ。アンドレは水差しを持つと来た方と反対の方向に歩き出した。
 屋敷の中は大体覚えた。兵舎の中もまず大丈夫だ。明かりをつけずに水をこぼさず部屋まで行きつければ良しとしよう。馬の蹄鉄をかえる。馬車の用意をする。焦らず確実に手順を覚えることだ。声を聞き分けその調子や抑揚でその場の雰囲気をつかむこと。やる事覚える事は沢山あった。間に合うだろうか。でも一番大切なことは誰にも気付かれないようにする事だ。特にオスカルには絶対に気とられてはならない。おばあちゃんは医者に見せると金がかかると言った。分不相応な恩をかけてもらっている。これ以上迷惑を掛けてはいけない。それもある。心配かけたくないし同情されるのも嫌だ。でも本当の理由はそんなものではない。
 もしオスカルが俺の右目も見えなくなってきていると気づいたら… アンドレにとってそれは左目を傷つけられた時と同じ位の痛みだった。アンドレの目の事を知らない者が「アンドレ、その目はどうしたの?」そう聞くたびに見てきたオスカルのたとえようもないほど悲しい顔。あんな顔を見るくらいなら焼けつくような左目の痛みに耐えていた時のほうが余程ましだ。どれほど、油断していた、不注意だった、或いは不可抗力だと言ってみたところで自分自身を責めるオスカルを止めさせる事は出来ない。
「わかっている」同じ事をこれ以上言わせないように寂しそうにオスカルは微笑む。アンドレはその弱々しい儚げな笑顔を見るたびに後悔の念に苛まれる。片目を失ったことは悲しい。でもオスカルが一生この負い目から逃れられないのではないかと思うとその方がずっと辛い。だからどんな事があっても右目の事をオスカルに悟られてはいけない。

 アンドレは足を止めた。壁に手を触れてみる。ここは扉。屋敷の中は体が部屋や階段の位置を正確に覚えている。オスカルの部屋だ。中はしんとして物音一つ聞こえない。良く眠っているようだ。よかった。せめて少しでも眠らせてやりたい。
 三部会が始まったらその警備にフランス衛兵は付くだろう。今までの仕事の上にだ。仕事が増える事があっても減ることはないだろう。オスカルは目を閉じてじっとしていることが多くなった。馬車の中や司令官室の机の前で。目を閉じていてもオスカルが眠っていることは決してない。少しでも仮眠が取れれば楽になるのに。なんとか休ませたいと思ってもオスカルが隊にいて少しの隙でも見せることはまずない。その辺の自己管理は悲しいくらい徹底している。

 アンドレは扉の前を離れた。自分の部屋へ向かう。明かりなしで歩くことくらいなんでもない。少し自信がついた。なんとかやっていけるかもしれない。
 実のところオスカルは寝るのが好きではないかとアンドレはふんでいる。よく眠れた時のオスカルは実に晴々とした顔をしているが寝不足だと機嫌が悪くてしょうがない。床に入ったら直ぐに眠ってしまうと言ったアンドレを信じられないという目でみていた。寝入るのに時間がかかるらしい。でもそれも昔の話だ。今のオスカルは何の苦労も無い涼しい顔で朝早くから夜遅くまでの勤務に耐えている。軍隊にいれば朝早く夜遅いのは当たり前。夜勤もあるし緊急事態もある。オスカルの責任感の強さは並大抵ではない。あいつなら倒れる寸前までそんな素振りは見せずにやり抜くだろう。それが心配だ。

 アンドレは暗闇の中を振り返った。闇の中にオスカルの部屋の扉が見えるような気がした。
 活発だったオスカルは眠りっぷりも見事だった。夕食の後オスカルはころんと寝てしまう事があった。遊び足りない気持ちを満足させるように食事の後の時間を約束する。アンドレを待っている間、或いは遊びの途中でもオスカルはあっという間に夢の世界へ行ってしまう事があった。
「まあ、お嬢様」
 こうなるとオスカルはおばあちゃんが着替えさせようとしても奥様が呼びかけても起きることはなかった。旦那様がいる時は旦那様がオスカルを抱きかかえ寝台まで運ぶ。そんな時の旦那様はどことなく嬉しそうだった。愛しくてたまらないというようにオスカルを見る。
 アンドレは思い出す。屋敷の中でオスカルと隠れ鬼をしていた時を。朝から雨の降る薄暗い午後だった。やっと見つけたオスカルはアンドレの寝台の中にいた。すっぽりと上掛けを被りすやすやと眠っていた。
「オスカル、みつけた。今度はオスカルが鬼だよ」
 アンドレはオスカルを揺すりながら声をかけたがオスカルは起きなかった。隠れ鬼は中止になった。でもそれだけではなかった。オスカルは夕食になっても起きてこなかった。おばあちゃんが起こしに来たがオスカルは寝たままうるさそうに手を振り回し枕にしがみついて離れなかった。旦那様はいなかった。奥様が言った。
「御免なさい、アンドレ。今晩一晩だけオスカルにベッドを貸してあげてちょうだいな」
 その晩アンドレは雨の音を聞きながらおばあちゃんのベッドで寝ることになった。

 懐かしい思い出がアンドレの顔に笑みを運ぶ。アンドレは部屋の扉を開けた。暗闇ばかり見ていた目に僅かな蝋燭の明かりが眩しい。アンドレは右目を手で覆うと寝台脇のテーブルに水差しを置いた。
「僕アンドレのベッドで寝ちゃったんだ」
 朝になってオスカルは冴え冴えとした顔をして起きてきた。昨夜の雨は上がり澄みきった青空だった。
「アンドレのベッド気持ちいいね」
 オスカルは言ったがそう寝心地のいいベッドだとも思えない。一晩ぶりに取り戻したベッドにはほんのりとオスカルの匂いが残っているような気がした。
 探検と称してオスカルと森に入った事もある。あれはいくつだったか。十かそこらだった。森の中で迷い方向が判らなくなった。散々歩き回り木の根につまずき手や顔に切り傷をつくりながらやっとの思いで森から這い出た時は日はとっぷりと暮れていた。しかもあたりはまるっきり見覚えのない場所だった。どうやって帰ったらいいだろう。アンドレは袖を握り締めてくるオスカルの手をしっかりと握ると見当をつけた方へ歩き出した。途中で会った農夫の荷馬車にベルサイユの方角を聞いた。いつしか星が出て月が出ていた。肩先まで闇がしのびこんでくる。星空だけが明るい漆黒の闇だった。
 ベルサイユの明かりが見えた時は心底ほっとした。
「オスカル、着いたよ」
 オスカルはアンドレの手を握り締めたまま涙を拭った。泥だらけの顔だった。 
 屋敷に着くとそこは大騒ぎだった。明々と灯が焚かれ馬や馬車が何台も出たり入ったりして旦那様自らが指示していた。
「奥様、お嬢様とアンドレが帰ってきましたよ」
 おばあちゃんが気がついた。転がるように奥様が飛び出してくるときつく抱しめられた。涙ばかりで声はなかった。
「オスカル」
 旦那様もやってきた。
「申し訳ありません」
 オスカルは頭を垂れた。怒られるはずだった。
「誰かこいつらに湯を使わせ何か食べさせろ。そして部屋に叩き込んでおけ!」
 アンドレは立っていられないほどの疲れを感じてスープでパンと肉の塊を流し込むとすぐベッドにもぐり込んだ。そして夢も見ないで昼過ぎまで眠った。起き出して今度はゆっくりと腹一杯食事を詰め込んだ。
「オスカルは?」
「まだ寝ていらっしゃるよ。今日は部屋にいて静かに反省するんだよ」
 おばあちゃんもあまり怒らなかった。いつもの三倍は覚悟していたのに。
 オスカルは起きてこなかった。昼が過ぎ夕方から夜になっても起きなかった。死んでいるのではないか。アンドレは心配になって時々オスカルの部屋へ見にいった。その度にオスカルは安らかな寝息をたてて眠っていた。どうなっているんだ。よくこんなに眠れる。腹だって減るだろうに。
 夜オスカルはおばあちゃんに起こされふらふらしながら起きてきた。半分眠ったまま少しのスープとパンを食べるとまたベッドに戻っていった。そして次の朝まで眠り続けた。
 
 アンドレは寝台に腰掛け水差しから水を入れて飲むとそのまま後ろに倒れこんだ。天井に蝋燭の仄かな明かりが丸い輪をつくっている。
 あれは今思い出してもぞっとする出来事だった。暖かい季節でよかった。冬だったら間違いなく死んでいた。夜通し歩き回った。夜の闇の中でオスカルは泣き言一つ言わなかったが口数が少なくなって最後には何も言わなくなっていた。不安を避けるように寂しくならないようにアンドレだけが話し続けていた。
 思い出は尽きない。あの時見たオスカルの寝顔。何ものにも侵されない深い眠り、この世の至福をつめ込んだような健やかな眠り。金色の巻き毛に縁取られた薔薇色の小さな顔。忘れない。
 あれから何年も経った。もうオスカルは人前に寝顔を晒すようなことはしない。

 アンドレは目を閉じた。まぶたの裏にオスカルの姿をありありと思い浮かべることができる。
 目を閉じたオスカル。目を閉じていてもオスカルはひときわ美しい。別の美が姿を現すのだ。白い額から連なる高い鼻梁。彫りの深さを際立たせる閉じられた瞳。神が創りたもうた完璧な容を誇る唇。完全なる静謐の世界がそこにあるのだ。周りの空気を澄み渡らせる凛としたたたずまい。
 生きる躍動を感じさせその精神の気高さを物語る瞳と同じものでありながら、豊かな感情がほとばしる唇と同じものでありながら、全く違う美しさ。静謐から躍動へ、美しさが色を変えるのは閉じられた瞳がまつげを持ち上げ除々に現れる時。
 オスカル、美しい俺の女神。俺の光。心の中では何回だって言うさ。心は自由だから。
 ――愛している。
 アンドレは蝋燭を吹き消した。



        Fin