「アンドレのため息」

 夏の最中、もうあと2ヶ月足らずで、アンドレの誕生日が来る。今年も8月26日
は、アンドレがこの世の生を受けた運命の日。さぁ、何をアンドレに贈ろう。どんな
贈り物でアンドレに私の想いを伝える事が出来るのか。ましてや今年の誕生日はふた
りにとって特別なのだ。
 オスカルが執務室であれこれと頭を悩ませているというのに、また、大きくため息
が聞こえてくる。さっきから、一体何度目のため息になるのか。少し苛ついて、机の
端をコンコンと人差し指で叩いて見た。

「あっ、ごめん、オスカル。俺のため息が聞こえたか?」
「さっきから、何回目だと思っているんだ。ため息ばっかり…ちっとも仕事に集中で
きないじゃないか」
仕事に集中出来ないのは、アンドレのため息のせいではないのだが、この際何でもそ
う言う事にしておこう。これは、まぁ昔からの習慣のようなものだ。
「何か悩みでもあるのか?相談に乗るぞ」
すると、アンドレは困ったように眉を潜め、再びため息をついた。
「いや、別に悩みと言うような大袈裟なものじゃないんだが…・ちょっと…」
言い渋るアンドレを見ているとむらむらと好奇心が沸いてくる。
「何だ、私にも言えない事か?さ、遠慮なんて要らない、言って見ろ」
アンドレはじっとオスカルの蒼い瞳を見詰めていたが、ゆっくりと口を開いた。
「いや、やはり辞めておくよ。お前が聞いて愉快になる話じゃないからな」
そう聞くと益々聞きたくなるのが人情である。それに、オスカルは好奇心が強いの
だ。
「私が聞いて不愉快に成る話とは何だ?ひょっとして女の話じゃないだろうな!」
その言葉にアンドレは驚いて、すばやく否定した。
「まさか、違うよ。俺がそんな…・」
「なら、言える筈だろう。妙に隠そうとするところが怪しいものだ」

追い詰められて仕方なくアンドレも話し出した。
「あんまり言いたくは無いんだが…・実は夕べ自分が死ぬ夢を見たんだ。たとえ夢と
言っても気分の良いもんじゃないな」
「えっ…お前が死ぬ夢?」
オスカルも驚いて椅子から立ち上がり、アンドレのすぐ横に来て不安そうに表情を曇
らせる。
「そんな顔をするな。ただの夢なんだから…」
「でも…」
アンドレはオスカルを宥めながら、側の長椅子に座らせて自分もその隣に腰を下ろ
す。
「多分、あんな事は実際には無いだろう…なんだか、むちゃくちゃな夢だったから」
「お前はどうして、死ぬ事になるんだ?私はどうなっているんだ?」
アンドレはオスカルの肩を抱き寄せながら、安心させるように話し出す。
「うん、よくは分からないが、軍隊がチュイルリー広場にいるんだ。パリの民衆もそ
こに大勢集まってきている。なんだか緊迫した情勢だった。そこへブイエ将軍がやっ
て来るんだが、また彼の軍服が妙にキラキラと光っていて、よっぽど材料費を削って
織らせた布なのか、ペランペランに薄くて貧弱な軍服なんだな。そこらへんの兵士か
民衆の服の方がよほど、良かったくらいだぜ。その節約した分は全部帽子に注ぎ込ん
だんだろうな。やたらと羽根飾りの多い派手な帽子だったぜ。しかし…あの軍服…も
うお気の毒で俺は、思わず自分の軍服を見たよ」
「ふうん…ブイエ将軍家が没落したとは聞いていないが…何か困っているのかな?」
「それが、オスカル!俺の方は、一体どうしたんだ?って言うくらい立派な軍服を着
ているんだ。それだけじゃない、その立派な軍服には勲章も2つくらい付いていて、
マントも羽織っていて、軍靴だってブイエ将軍よりもずっと豪華なんだ・・・・」
オスカルは堪えきれずに思いきり噴出した。
「あっはっはっ…お前って…」
暫く思いきりあたりに笑い声を響かせて笑っていたが、ようやく
「あぁ、可笑しいったら…可笑しい。なんで、お前が軍服に勲章なんか付けているん
だ?そんな物ある筈ないじゃないか。それに、マントだなんて、何処から持ってきた
んだ?その軍服にマント・・あははっ…・あまりにも不自然じゃないか!」
「笑うなよ!そりゃ、俺の方が聞きたいよ、全く。それも俺だけ豪華な軍服なんて…
変だろ?アランや衛兵隊の皆は普通なんだぜ」
アンドレも少し怒りを込めて話を繋ぐ。
「で、ブイエ将軍は、兵士に市民への攻撃を命じられるんだか、勿論お前は命令を拒
否するんだ」
「うんうん、それで・・」
「フランス衛兵隊の兵士は皆お前に従うと言って、将軍の命令を拒否した。その広場
にいたパリの市民たちもベルナールも大喝采でお前たちを仲間として迎え入れるん
だ。なんかさ、見ていてすごく感動したよ」
「そうだな、興味深い話だ」
「で、俺なんだが、間の抜けた話になるが、その場にいなくて、橋の上からお前に呼
びかけてるんだ」
「えっ、橋の上ってそれは一体何処だ?」
「多分…セーヌ河にかかった何処かの橋なんだろうけど、俺だけどうしてあんな所に
いるのか、まるで謎なんだな」
アンドレはため息と共にさらに話を繋ぐ。
「でさ、辞めて欲しいのは、そんな橋の上で思いきりお前と大声で会話しているんだ
ぜ。恥ずかしいったら…」
「まぁ、攻撃の事などは仕方あるまい…」
「違うんだ!オスカル、お前がこれ以上無いくらいの大声で、(アンドレ!この戦闘
が終わったら結婚式だ〜〜!)って叫んでいるんだぜ」
「何だって?」
オスカルは一瞬驚いて、アンドレの言葉の意味が掴めず、暫く考えてから、顔を真っ
赤にして
「馬鹿者!この私が、そんな全くの私的な話をそんな所でする訳が無かろう!何が結
婚式だ。それは、お前と私のふたりだけが知っていれば良い事だろうが!それを大声
で…」
「怒るなよ!俺だって見ているだけで恥ずかしいのは同じなんだから…」
「アンドレ、その時にはあたりには人はいなかったんだろうな?」
「何だか良く分からないよ。で、そこに突然ジェローデルがやってきて、お前の頬を
ビシャリだ」
「えっ…何故ジェローデルが…近衛連隊も出動していたのかな?いや、そんな筈ある
まいあれは王宮の軍隊だしな。休みでも取ってパリへ遊びに来ていたのかな」
「何を暢気な…・オスカル、彼は近衛の軍服姿だし、きっとお前の命令違反を聞いて
駆けつけて来たんだろう」
再びオスカルは我慢できずに噴出した。
「あっはっはっ…・アンドレ。考えても見てくれ。そこでブイエ将軍の命令に背いた
として…・ジェローデルがそれを伝え聞いた頃にはもう、戦闘は終わっているだろ
う。第一そんな緊迫状態で、ジェローデルだって私的な用で軍隊を抜け出せるわけが
無いだろう…はははっ…面白い夢だな」
楽しそうに笑いながら
「それとも、お前はジェローデルの事が気になるのか」
「うん…俺、考え過ぎかな。ともかくあいつはすごい剣幕で、すぐに命令を撤回し
ろって迫っていたぜ。でそれを橋で見ていた俺は、いきなり後ろからズドンだぜ」
「えっ…撃たれたのか?」
「あぁ。それも一発じゃない。もう、次から次から蜂の巣のように銃弾を浴びている
んだ」
「橋の上じゃ狙い撃ちだな。で、すぐに伏せて歩伏前進だな」
「そうだろう、幾ら俺だってそのくらいの知識はありそうなんだが、これまた、無防
備にボケッと伏せもしないで突っ立ってるんだ」
「何故だ?何故伏せない?」
「知らないよ、そんな事。もう、一介の兵士にこんなに銃弾を撃つもんかなってくら
いに
撃たれて撃たれて…とうとう倒れて…」
「…・・」
オスカルはあまりの衝撃に言葉を失って呆然としている。
「で、また立ち上がって、俺は歌を歌っているんだ。お前の歌を…」
「…歌う前に逃げないとな。で、敵は退却したんだな」
「…それが…・俺が歌い出だしたら、また攻撃が始まってズドンズドンだぜ。で、俺
は懲りずに撃たれても撃たれても、立ち上がってまた歌ってるんだ」
アンドレは些か呆れたように言い捨て、オスカルの表情を見た。
「撃たれても撃たれても立ち上がって…歌ってるって…何だか、オカルトじみていな
いか?お前、何時から、ドラキュラになったんだ?」
「俺が聞きたいよ。で、とうとう、橋まで壊れて…そこに倒れて動かなくなったん
だ…きっと死んだんだろうな」
「…・ちょっと聞きたいが、私は何をしているんだ、その時。どうしてお前を助けに
行かないんだ?」
「いや、お前はずっと俺の名を呼んで橋の下で叫んでいるんだな。確かジェローデル
がお前を押さえていたようだった」
「すると、何か。私はお前が撃たれているのをボ―ッと見ているだけだというのか!
ふざけるな!」
「怒るなよ!俺だって、疑問だらけでため息をついているんだから」
「ジェローデルが押さえているにしろ、仮にもお前が撃たれて居ると言うのに…見て
いるだけとは…もう、自分が絶対に許せない!くそう、ジェローデルの奴!」
オスカルは感情を爆発させて、アンドレの軍服の襟を掴み、思いきり叫んでいた。
アンドレが自分を置いて…撃たれて死ぬなどという恐ろしい出来事はたとえ夢でも納
得できない。いつしか、その蒼い瞳からも大粒の涙が溢れ、声を出して泣いていた。
「泣くなよ、オスカル。そんな事はただの夢さ」
アンドレはまた、大きなため息をつくとオスカルの黄金色に光る髪にそっと触れ、優
しく抱きしめた。
「それが不思議なのは俺が死んだとたん、お前を押さえていた手をさーっと離すん
だ、あのジェローデルって男。その上お前も俺の側にも来てくれず…ちょっと寂しい
ものがあるな。しかし、俺が死んだあとのお前は最高にカッコ良かったぜ。そのま
ま、民衆を率いてバスティーユを攻撃して落とすんだ。まるで、軍神マルスを見てい
るようだった・・毅然として光り輝いていて…崇高なまでに理想に燃えて…・素晴ら
しかったよ」
「辞めてくれ!お前が死ぬのをただ見ているだけなんて、私にはとても耐えられそう
に無い。たとえ、夢だとしてもだ!」
オスカルは長椅子から立ち上がり、窓辺に向かう。アンドレが自分を置いて死ぬとい
う全く想像さえ出来ぬ話を聞かされて、気持ちが重苦しく、胸が痛い。
 突然後ろからそっと抱きしめられて耳元で囁かれる。
「悪かったな。変な夢の話なんて聞かせてしまって…・」
そのまま振り向きざまに唇を重ねる。始めは軽く合わせていただけだったのが、不安
からかより深く激しくお互いを求め合う。
「決してお前を置いて死んだりしないよ。約束するから、機嫌を直してくれ」
「本当だな」
「あぁ、必ず…」
一瞬、アンドレの脳裏に何故だか黒い予感が過るが、それには触れずにもう一度、彼
の愛しい人の涙に濡れた蒼い瞳を見詰める。それは、不吉な夢の予感に怯えて、微か
に奥底で揺らめいて見えた。
「お前を置いて死んだりしない、きっと。命ある限り死ぬまでずっと側にいるさ」
それこそ、オスカルが最も待ち望んでいた言葉…彼は決して嘘をついたりしない。幼
い頃からずっと。寡黙で言葉は多くないが、いつでも、どんな時でも私との約束は必
ず守ってくれた…
 オスカルは思いながら、ふとアンドレの瞳を覗き込む。深く吸い込まれそうな黒い
瞳。何もかも受けとめて安堵感を与えてくれるただひとつの黒曜石。
「お前を信じている…あぁ、そうだ。お前の誕生日の贈り物をずっと考えていたん
だ。何が欲しい?」
「そうだな」
アンドレには、欲しいものはただひとつだけ。彼の愛しい恋人の存在しかない。
「誕生日にふたりで、星を眺めてワインで乾杯しよう。これからもずっと一緒にいら
れるように…・」
「ふふっ…そんな事でいいのか。今、パリは不穏な情勢で休暇が上手く取れるかどう
か分からないが、ふたりで星を見る事くらいは、出来るだろう。分かった。最高のワ
インを用意しておくよ」
ふたりは、もう一度そっと唇を重ねた。あたりが黄昏色に染まりだし、傾きかけた太
陽がふたりの背中を紅く不吉な色に染め上げていた。