後ろ姿
バシッ!
「マドモアゼル!」
そう叫ぶ求婚者を思いっきり突き飛ばし走り去った。
違う・・・違う、違う!
私の知っている唇は・・・口付けは・・・っ!
ああ、アンドレ!!
・・・アンドレ?
何故、私は彼を思い出しているのだろう?
彼と唇を重ねたのは、ただ一度だけなのに。
あの苦しいほどの愛を告白されたときの・・・。
一度だけ?
ズキン・・・。
胸に何かが突き刺さる感覚。
体が熱くなり、泣きたいような気持ちに襲われた。
そうだ、一度ではない。
私は彼の口付けを過去に何度も受けているのだ。
あの日。
なかなか帰ってこないフェルゼンを気がかりで、しかしその想いを誰にも
打ち明けられず、どうしようもなく苦しかったあのとき。
乱闘騒ぎを起こし、酔いつぶれた私に誰かが優しく口付ける夢を見た。
『可哀相に、オスカル』
そう言うと私に唇を押し当ててきた。
『愛してる、愛しているよ・・・』
何度も繰り返し、何度も口付けてきた。
『ああ、愛している。オスカル・・・』
切ない・・・、とても切ない感情だった。
苦しい思いが悲しいほどに伝わってきて、私は思わず涙したのだ。
夢だと思っていた。今の今まで。
狂おしい口付けを受けたのも、私が泣いたのも・・・。
しかし、私が求めている口付けは、あの日のものと同じものだった。
夢ではなかったのだ、今になってやっと気づいた。
けれど、私は何故アンドレの口付けを思い出したのだろう?
何故彼を思い出すだけで、こんな気持ちになるのだろう?
ああ、誰か・・・。誰か教えてくれ!
答えのこない問いをオスカルは何度も繰り返していた。
体中が熱い。
「・・・風にあたりたい」
ポツリと言うと、オスカルは敷地内の湖畔へ足を運んだ。
ほってた体を少し冷やしたかった。
湖畔に出るとサアーッ!と、涼しい風が通った。
木の葉がザワザワとこすれる音がして、その音が夜に栄えていた。
風で揺れた水面に月や星の光が反射して、広がっている。
美しい光景を目の前にして、オスカルはだんだんと落ち着いてきた。
アンドレの姿を見る前までは・・・。
「アンドレ・・・ッ!」
先に湖畔に来ていた彼の後ろ姿が見えた。
そういえば、ここは子供の頃からの二人のお気に入りの場所だった。
パーティーが滅茶苦茶になり、給仕の仕事の必要がなくなったので
彼もここに出で来ていたのだろう。
オスカルは体が再びカアーッ!と、熱くなるのが分かった。
真っ先に彼に駆け寄りたかった。
しかし、あと一歩が踏み出せない。
先刻、別の男の口付けを自ら受け入れてしまった後ろめたさ。
そして、自分でも分からない気持ちの戸惑い。
彼にどう接すればいいのか分からなかった・・・。
アンドレは湖畔の方をじっと見つめて立っていた。
ジャルジェ将軍や出席者の顔を思い出すと可笑しくなる。
やってくれるな。オスカルは・・・。
今回はこういう形で収まったが、こんな事がこれから何度も起こるのだろう。
そして、フェルゼンのようにオスカルの心を捕らえる男が現れたら・・・。
そのとき俺はどうするのだろう?
以前は嫉妬にかられ力任せに想いをぶつけ、彼女をこの上なく傷つけた。
必死に抵抗し泣きじゃくる彼女を目の当たりにし、やっと思いとどまった。
『もう二度と触れない』
そう誓った。
次はこのような事になる前に、自分にできる事は・・・。
「オスカルのそばを去る事・・・かな」
アンドレはため息をついて座り込んだ。
アンドレの後ろ姿が切なそうに見えた。
オスカルはその背中に抱きつきたい衝動に駆られた。
その想いを必死に押さえ、話しかけることにした。
彼のそばに行きたい・・・。
「こんなところで何をしているのだ?アンドレ」
「・・・オスカル。見事だったよ、旦那様が少し気の毒だけど」
「いいのだ!勝手に事を進めた父上が悪いっ!」
「おかげで、フランソワ達は大喜びしていたけどな」
二人の間にクスクスと笑い声が広がった。
ふいに笑いが途切れると、二人は少しの間見つめ合った。
彼のそばにいたい・・・。
「そばに行ってもいいか・・・?」
「どうしたんだ今更あらたまって、変だぞお前」
『変』・・・。
そうかもしれない、自分の中で何かが変わってきている。
アンドレに対する今までになかった感情の変化。
自分の心を覗かれた気がして、隣に腰を降ろしたときは
もう彼の顔を見れないほど緊張していた。
「そうだ、オスカル。ジェローデル様を見かけなかったか?
旦那様が探しておられたんだ」
「し、知らん!何故私があいつの事を知ってるというんだっ!」
オスカルは、一人でドギマギして慌ててしまった。
先刻の事をアンドレに責められているような気がした・・・。
唇に口付けの後が残っているような気がして、手の甲でゴシゴシとこすった。
「オスカル、何しているんだ?そんなにこすったら唇が切れるぞ」
「な、何でもない!見るなっ!」
アンドレから顔をそむけ、なおもこすった。
「おい、本当に切れるぞ。やめろってば!」
やめろ、見ないでくれっ!
グイッ!
オスカルの腕をつかむと自分の方に顔を向けさせた。
「・・・ほら、切れちゃったじゃないか」
もう片方の手でオスカルの顔をつかむと、親指で切れたところをなぞった。
「あっ・・・」
オスカルは全身に電気が走るような衝撃を受けた。
ザアーッ!
風が流れて木の葉を揺らした。
月が出てきて、アンドレの端正な顔をはっきり見る事ができた。
アンドレの顔が自分のすぐ前にある。
こんなに近くで見たのは、あの告白をされたとき以来だった。
口付けをされたときはもっと近くで見れた。
私はこの男と口付けを交わしていたのか・・・。
「・・・ごめん」
オスカルを表情を読み取り、アンドレは彼女を解放した。
戸惑いを、怯えていると勘違いしたのだ。
「さて、俺は戻るよ。こんなところで風邪ひかないように気をつけろよ」
「もう、行ってしまうのか?」
「ああ、そろそろあいつらを帰さなきゃいけないだろ」
「もう少しくらい、いいではないか」
「そうはいかないさ。みんなにお屋敷のことを任せっきりにはさせられない」
アンドレは立ち上がると、お屋敷の方へ向かって歩き始めた。
アンドレの背中・・・。
最近、彼の後ろ姿ばっかり見ているような気がする。
『行かないで!』
その度に出そうになる言葉。
何故こんなにも彼と一緒にいたいと思うのだろう・・・?
突如アンドレは歩みを止めた。
「オスカル・・・。求婚を断っているのは俺の為か?」
「アンドレ?」
「もしそうなら、そんな事はやめてくれ。」
オスカルに背を向けたまま続けた。
「俺のせいで女性としての幸せを断っているのだとしたら・・・」
二人とも何も言えなくなってしまった。
気まずい沈黙が流れた。
私が求婚を拒否しているのは・・・?
きっとアンドレの為だ。
では、何故アンドレの為に断っているのだろうか。
「・・もし」
アンドレが沈黙を破った。
「お前が誰かと結婚したら、お前から離れられるように努力するよ」
この言葉にオスカルは衝撃を受けた。
もし、私が結婚したら?
そうしたら彼はこうして離れてくのだろう。
また彼の後ろ姿を見なくてはいけなくなる、そしてそれさえも見る事が
出来なくなってしまうのだろう。
ずっと一緒にいられるわけない、なんて分かっている。
でも・・・でも一緒にいたい。
ああ、出来る事ならずっと一緒にいたい!
永遠に、お前と一緒に・・・。
行かないでくれ、アンドレッ!
ドンッ!
アンドレは背中の感触に驚いて振り向こうとした。
オスカルが後ろから抱きつき、しっかりとつかんで放さないのだ。
「オスカル?」
しかし声に制され振り向く事は出来なかった。
「黙って!」
今にも泣きそうな、蚊の泣くような声でオスカルは懇願した。
「こっち向かないで、もう少しこのままでいて・・・お願い・・・」
彼から離れたくない、こうしていたい。
どうして、それを声に出して言う事が出来ないのだろうか?
言ってしまったら私達はどうなるのだろうか?
この想いはどこから来るものなのだろうか?
私はこれから、どうしたいのかも分からない。
何をしたらいいのかも分からない。
ただ、今はこうしていたい。一緒にいたい。
私に二度と触れないと誓った彼に残酷な事をしていると分かっていても・・・。
ああ、私のアンドレッ!
しばらくするとオスカルはそっとアンドレから離れた。
もう、彼の顔をまともに見る事も出来ない。
「すなまい・・・」
その言葉を残しオスカルは屋敷の中に逃げるように帰っていった。
この想いが何なのか、自分でも分からない。
何故こんなにも彼と共にいたいと願うのだろうか?
今は分からない。でも、答えはきっとすぐそこにある・・・。
近いうちに知る事が出来るだろう。
この想いが一体何なのかを・・・。
FIN