亡命(2)
オランダに着いた。私はドレスを身につけ、雇われ先へ向かった。
我々の雇い主は、貿易で財をなした一家だ。私たちが貴族であるかどうかは
問わない、人物と能力を見て雇うか否か決めるという。
まずは試用期間というわけだ。
女主人が出てきた。
「はじめまして、ごきげんようマダム。グランディエと申します。」
片足を後ろに引いておじぎをする。頭ではわかっているのに、一瞬、
動きが遅れている。相手が手を差し出すのを待ってしまうのだ。
長年の習慣は命取りだ。
今の私は、オスカル・フランソワではなく、グランディエ夫人なのだから。
「ようこそ、グランディエさん。さすがに優雅な身のこなしでいらっしゃること。
とてもお美しい方ね。」
「恐れ入ります、マダム。」
「子供はお連れではないのね。」
オスカルの顔がこわばった。
「え…え、マダム。生まれてすぐに亡くしました。」
「まあ、お気の毒に。その子が忘れられないでいらっしゃるのね。それからは、
ずっと、おふたりだけで…。でも、羨ましいわ。仲睦じくて。」
マダムは、私が子供を亡くしたのは、何年も前のことだと思っている。
無理もないか。私はそんな年だ。子を産んでさえもいないのに。
「うちの子供たちを紹介しますね。上が女の子、下が男の子ですのよ。」
「こんにちは先生。マリエーヌです。」
「こんちは先生。ジュリオだよ。」
なかなか上手なフランス語だね。姉上の子供たちより、少し幼い。そう、
私が姉上たちのように嫁いでいたら、こんな子供たちがいただろう。
「マリエーヌには、フランス語と行儀作法とダンス、それから刺繍を
教えて下さい。」
アンドレが笑いをかみ殺す。
笑うな!刺繍だって出来るようになったではないか。
私はオルタンス姉上と違って、指先を傷だらけにしないぞ。
右手の機能回復と傷をいやす暇つぶしのために、ロザリーに教えてもらった。
ロザリーの刺繍は母上が教えたものだ。私は間接的にだが、女の手仕事を
母から習ったのだよ。
それにしても、いったい誰が私を不器用だと決めたんだ。不器用な手が、
どうしてモーツァルトが弾ける?狙いを定めて引き金をひくとき、私の指は、
その辺の奴等よりずっと繊細に、正確に動くんだぞ。
(男と比べてもしょうがないが)
「ジュリオには、フランス語とラテン語、それから剣術と馬術を…」
マダムはアンドレの方を見た。
「お目の具合がよろしくないのでしたわね。」
「マダム、御子息には、私がお教えいたします。」
私は、あわてて口をはさんだ。
「あなたが?ま…あ、剣をお遣いになれるの?」
「はい、マダム。護身用に、夫から習いました。」
私の口から、ためらいもなく夫という言葉が出る。士官学校で訓練したなんて、
誰も思わないだろうな。
「馬も、横乗りでしたら大丈夫です。」
馬の背には、跨がって乗るものだ。横乗りなど、ほとんどやったことはないが、
しかたがない。まあ、何とかなるだろう。ったく、女の「ふり」をするのは
何て疲れるんだ。
「わかりました、ヴィオレッタ。あなたのやりたいようにどうぞ。」
ああ、私は、ヴィオレッタだった。身元を隠すための仮の名…。
ヴィオレッタ・グランディエ。
「あなたの夫は、放っておいても自分から仕事を見つけるでしょう。アンドレ、
ここに慣れるまでゆっくりなさい。それから医者の診察を受けて下さいね。」
ん…?アンドレの性格を知っているような口ぶりだな…?妙なことを言うな。
それに、医者?試用中の家庭教師を医者に診せるというのか?
何と酔狂な金持ちだ。
二人分の家庭教師か…。どうなるか、わからないが…。
とにかく、今日は休もう…。