亡命(3)

    オランダに来て、数カ月がたった。
    私は、ずっと、二人分の家庭教師を続けていた。途中からアンドレが
   手伝ってくれるようになり、生徒たちは、二人とも優秀だった。
    マダムは、ときどき様子を見に来た。教えるところを見られるのは
   全く構わないが、彼女がやってきて何か言うたびに、冷や汗をかく思いを
   させられるのには閉口した。
    マリエーヌのダンスのレッスンをしていたときのことだ。
    私は男性のパートも、女性のパートも踊れるから、マリエーヌを相手に
   踊っていた。
    マダムは、私たちのダンスを微笑みながら眺めて、こう言った。
   「あら、ヴィオレッタ。男性のパートが、とてもお上手ね。まるで、
   ずっと踊ってらしたみたいだわ。」
    アンドレだけにやらせるべきだった。私は自分の不注意さを戒めた。
    似たようなことは、乗馬の練習をしているときにもあった。跨がって
   乗りたいのを我慢して、慣れない横乗りをしているときだった。
   「あら、横乗りは、あまり、お得意でない御様子ね。馬の背って、
   跨がっても乗れるのでしょう?ねえ、マダム・グランディエ。」
    私にどうしようがある?下手なものを上手なふりをするのは無理だ。
    格段に腕を上げてきたジュリオとの剣術の稽古のときに発せられた
   マダムの言葉には、心臓が止まるかと思った。
   「あなたに勝てる殿方は、おいでにならなかったでしょうね。」
    下手なものを上手なふりをすることはできないけれども、得意なものを、
   少しできる程度に見せることは、うまくできると思っていたのに…。
   ばれている…?まさか…?
   「危ないな。マダムはいったい、何が言いたいんだ…?」
    私は、こうつぶやきながら青ざめていただろう。身元がばれることは
   命取りだと思っていたのだから。
    マダムが何気なく発する言葉におののきながら、私の耳は、あることに
   気がついた。彼女の話すフランス語が、注意深く隠してはいるが、
   ある特徴を持ったものであることに。
    私は、直接マダムにたずねてみた。今から思うと、何と恐れ知らずな
   ことをしたのかと思うが…。
   「マダム、あなたのフランス語は、習ったものではないような気が
   するのですが…。パリ育ちの…、もしや貴族のお生まれでは…?」
   「あなたの耳はだませないのね。ええ、私は、パリの没落貴族の家に
   生まれましたのよ。かつては栄華を誇ったという誇りだけが支えの
   貧乏貴族でしたわ。」
   「そ…うでしたか。」
   「父は私を、どこに出しても恥ずかしくないように教育しましたのよ。
   そう、ヴェルサイユ宮の舞踏会に行っても気後れしないように。もっとも、
   お金のない私たちには、遠い夢物語でしたけど…。あの頃のヴェルサイユには、
   美しい近衛連隊長がいらっしゃいましたわね。何というお名前だったかしら…?」
   「私にも、ヴェルサイユは縁のないところでしたから…」
   「落ちぶれた貴族がパリで暮らすのは、それはみじめなものでしたのよ。」
    アランも同じようなことを言っていたな。
   「私はそんな暮らしがいやで、今の主人と結婚してオランダに参りましたの。
   でも、不思議なものね。娘時代に、あんなに嫌だったパリの生活が、ときには
   恋しくなりますのよ。異国の平民として生まれ育った子供たちに、フランス
   仕込みの貴族の教育を受けさせるのも、私の郷愁のせいですわ。」
    この人も、祖国に安住できなかったのだ。
   「私の身の上話、お気に召しましたかしら?」
    微笑んでいたマダムが、襟を正して私の方に向きなおった。
   「こんどは、あなたの番ね。オスカル・フランソワ。」
   「マダム。なぜ、その名前を…」
   「ごめんなさい。私は、はじめからわかっていて、あなたたちを呼んだのです。
   あなたのうわさは、この隣国にも届きますもの。」
   「私たちを、お子様方の家庭教師としてだけではなく…ですか?」
   「もちろん。私は、今、あなたにしかできない仕事をお願いしようと
   しているのです。」
    マダムは、私たちに、このオランダで革命要員を養成してほしいと告げた。
   ヨーロッパの十字路であるオランダ。そのオランダの南部地域が、フランスで
   起きた革命に呼応しようとしている。革命は隣国に波及して、ヨーロッパ全体を
   巻き込むだろう。
   「マダム、私は…」
   「まさか、また、あの日と同じ戦場にお戻りになるおつもり?
    あなたは、とうに気づいているはずだわ。あなたの傷ついた身体は、
   もう元には戻らないのよ。」
    軍人として使いものにならない…?認めたくないことだった。
    しかし、自分の身体だ。自分でわかる…。マダムの言うことは事実だった。
    私は…軍心マルスに見離されたのだ。
   「それにあなたは、命を育んでいらっしゃるのでしょう?」
    この何週間か、強烈に襲ってくる眠気と貧血、そして、ずっと続く微熱。
   まちがえようもなく同じ症状だ。初めてのときは傷のせいだと思っていた。
   本当は違っていたのに…。
    あの児は…、あの戦闘を私とともに、せっかく生き延びたのに…。
   私が気づかないままに亡くしてしまった。あの児は私に、自分の存在を必死に
   訴えていたのに…。
    そして…、私は今ふたたび、命を宿している。
   「あなたが、今、革命の渦の中に飛び込めば、それは、あなた一人だけの
   行動にしか過ぎないわ。でも、ここで、革命の闘士たちを育てて、
   フランスに、いいえ、ヨーロッパ中に送り込めば、あなたの力が何倍にも
   なって活かされるのよ。」
    新しい命を道連れするつもりはなかった。
    そう、アンドレに告げなければ。彼が父親になることを。
    私は、私に与えられた新しい運命に逆らうことをやめた。
    私たちが起こした革命が、正しい方向に進んでいくように、見つめて
   いこうと決めた。正義の心と真実を見通す眼を持つ人々を育てながら。
   アンドレと、そして、新しい世紀を生きるであろう命とともに。