癒し

        私は天国へも地獄へも迎えられなかった…。
        地の底に沈むような眠りから覚めたとき、私の体は恐ろしく衰弱していた。
       自分の体が自分の意志通りに動かせない。どれほど眠っていたのだろう…。
       すべてのものが、ぼんやりとしか見えなかった。誰かの家のようだが…
       ここはどこなのだろう?
        しばらくして部屋の中を見回したとき、私の目に信じられないものが見えた。
       「アンドレ…?」
        なぜ…彼は、私の目の前で死んだはずだ!
        私は記憶の糸をたぐった。パリに出動したあの日。私が進撃命令を出した
       テュイルリー宮広場での戦闘。兵士たちの何人かが銃弾に倒れたんだ。
       そして、アンドレが撃たれた。彼を背負って戦列を離れて、そうだ、
       止血をするために彼を横にして…。彼が欲しがった水を取りに行って…、
       戻ったときには、彼が瞼を閉じていた。その日の夜を、私はどうやって
       過ごしたのか覚えていない。
        次の日、生き残った兵士たちを率いて、バスティーユを襲撃した。私は満身の
       力をこめて彼らを指揮していた。しかし、無防備だったかもしれない。
       狙われて、私は撃たれた。武官失格だと、また、おまえに怒られるな…
       アンドレ…。
        そして、バスティーユに白旗が挙がって…、これで死ねる、アンドレの
       ところへ行けると思ったんだ。そこからの記憶はない。そのまま意識を
       失ったんだな…。
        あの二日間のできごとをひとつひとつ思い出しながら、私は、自分で
       アンドレの死亡確認をしなかったことに気がついた。何ということだ…!
       瞳孔拡大、脈拍停止、心停止、何一つ確認していない。石畳の上で、
       彼が目を閉じて、じっと動かないでいたことだけを目にした。
       ただ、それだけだった。それだけで私は錯乱して、その場にいられなくなった。
       私は何ということをしたのだろう…!
        彼は私と同じように意識を失っていただけだったのだ。
        おお…神よ!感謝いたします。いまここに私たち二人が共に生きていることを。
       「アンドレ」そうっと呼びかけてみた。私の声は震えていただろう。
        アンドレの目がゆっくりと開かれた。ああ、懐かしい黒曜石の瞳。
       ああ生きている。彼は生きている。
       「オスカル!気がついたのか!」彼は身を起こそうとして、激痛を感じ、
       ふたたびベッドに身を沈めた。
        アンドレに、まだ生命反応があることに気づいたのはアランだった。
       瀕死のアンドレをベルナールに託して、彼は戦列に戻っていたのだった。
       生死の境をさまよっているアンドレのことを私に一言も告げないままに。
       助かるかどうかわからないアンドレのことを知らせて、万一のときに、
       二度めの悲しみを味わわせるよりは、今のままのほうがいいと
       判断したのだそうだ。
        アンドレは左半身をやられていたが、心臓を外れていた。体の外側に
       弾がそれて助かったようだ。銃弾が貫通していたほうが、手当てはしやすい。
       よかったな、アンドレ。
        死んだと思っていたアンドレより、私の方が重傷のようだ。
       私は、体の正面から撃たれたのだな。貫通しなかったから、背骨が助かったが、
       腰も背中も、もう自分の体ではないようだ。それに、剣を持つ右腕が動かない。
       骨が砕けたのだろう。神経をやられたかもしれない…。筋肉と腱が、
       どれほど裂かれているか…。ふっ、脚が動かせるのがせめてもの救いか…。
       「オスカルさま…!」
       聞き覚えのある声。ああ、ロザリーだ。
        ロザリーが私たちを助けてくれたんだな。
       「ロザリー。ベルナールとともに、アンドレを助けてくれて、ありがとう。
       私は、とても長い間、眠っていたような気がする。」
       「ええ、ええ、オスカルさま。もう、お目覚めにならないのかと心配しました。」
        ロザリーの大きな瞳から涙があふれてきた。
        ロザリー、おまえは今も泣き虫なんだね。
       
        一月後、私は起き上がれるようになった。そして、動かなくなった
       右腕の機能を回復するための訓練を始めた。次の一か月の間に、私は、
       自分の足で歩けるまでに回復した。
        アンドレの身体の回復は、私よりもはるかに、はやかった。
        彼が側にいる。血の通った彼の手が私に触れる。
        そして、私に生命の力を与えている。
        彼が頬を寄せる。唇。昔と同じ…何も昔と変わっていない…。
       「アンドレ。二人で、ここに、こうしているなんて、夢のようだ。
       私たちは、あの戦闘を生きのびたんだな。まだ…信じられない…」
       「そうだな。でも、確かに生きているよ。俺たちは。」
        生きている…そう、生きているはずだ。それなのに、どうしたのだろう…?
        私の心の底に居すわり続けるこの重苦しさは何だ?
        懐かしい胸に顔を埋めているのに。なぜ…?
        死の恐怖か…?いや…違う。自分一人が取り残される恐怖だ。
        たった一日、彼を失った時間を過ごしただけで、何と心が弱くなったことか。
        私は、不安な思いをぬぐい去れないのか。
       「アンドレ、私は、もう二度と、あとに遺されたくはない。私を……」
        ふいに目の前が真っ暗になった。
       「どうした?オスカル!オスカル!しっかりしろ、オスカル!」
        アンドレが私を呼ぶ声が聞こえる。
        聞こえるのに、体に力が入らない…。動けない…。
        貧血を起したようだった。
       「オスカル、傷がまだ回復していないんだ。無理するな。」
       「そうだな。熱が出てきたようだ。」
        私は、睡魔にとらわれるままに眠り、傷を癒そうとした。
        しかし、立ちくらみとめまいは何度も私をおそった。
        あれは、久しぶりに外の空気を吸おうとしたときだった。
        腹部に激痛が走った。傷を負ったところだ。
        傷口が開いたかもしれないと思った。
       しかし、血は、別のところから流れてきた。血は、足の内側を伝っていた。
       なぜ…?なぜ、こんなところから血が…?
       「アンドレ!アン…ドレ!」
       「どうしたんだ?オスカル。」
       「血が。血が出ているんだ…。」
       「傷口からか?」
       「違う…。アンドレ、医者を…医者を呼んでくれ。」
       「わかった。」彼は人目につかないように医者を呼んだ。
        医者は私の様子を見て、即座に手当てをした。そして、出血の原因は
       流産だと私に告げた。
        私が妊娠していた…?腹に銃弾をうけたのに…子が育っていたというのか…?
        貧血も睡魔も、ときおり起こった腹部のするどい痛みも、そのせいだったと…?
       「アンドレ!アンドレ…!おまえの初めての子を…」
         俺の胸にしがみついて狂わんばかりに泣き叫んでいる。ああ、おまえが、
       心の苦しみを抑えこまないで、感情のままに泣きわめくなんて…。
        オスカル、今は泣きたいだけ泣いてしまえ。涙を流したぶんだけ
       悲しみは癒えるのだから…。
       「オスカル。さあ、落ち着いて。いいかい、よく聞いて。俺たちは二人とも
       死ななかったんだ。二人が生きていれば、神は、いつかまた私たちに
       子を授けてくれる。」
       「アンドレ。そんな日が本当に来るのだろうか?」
       「ああ。来るさ。きっと来る。だから元気を出して。俺のために、
       笑顔を見せてくれ。」
        オスカルは、微かに笑みを見せた。