Retraite
                          〜ルトレート〜
 
         

         年に1度くらいオスカルは、静かな日々を送りたいと言って、
         ルトレートに行くことにしていた。
         ルトレートという言葉には、退却するとか、退役するとか、
         隠れ家とか、いろいろな意味があるが、カトリックでは、
         宗教的儀式の前に一時的に俗界を離れて瞑想にふけること、
         つまり、黙想会を意味していた。
         彼女は女でありながら、男装をさせられて男のように育てられた。
         そのため、教会の教えに反していると陰口を言う関係者もおり、
         彼女は幼い頃から、その言葉に傷つけられていた。
         しかし、その人生は彼女自身が最初から選んだわけではなく、父親のたっての
         願いだった。
         大人達の思いやりのない言葉のために、娘の信仰が揺らぐことを心配した信心深い母親の
         ジャルジェ夫人は、彼女が王太子妃付きの武官として宮殿に伺候することが決った時、
         娘と二人だけで遠縁の女性が院長をしている女子修道院で
         静かにリトレートを行うことを決意したのだった。
         オスカルは始めての経験に戸惑い、俺を同行させることを母親にねだった。
         俺はまだ子供だからと許されて、女子修道院の一角に宿坊を与えられて、
         オスカルが滞在する間、修道院の仕事を手伝ったり、お祈りに時間を費やしたり、
         ラテン語の授業を受けたりして日々を過ごした。
         その修道院は若い女性よりも俗界で苦労した中年の修道女が多く、俺が幼い頃に
         両親を失ったことを知った女達は同情し、皆が母親のように接してくれた。
         そして、それは毎年の習慣になり、大人になってオスカルが毎年の夏に
         リトレートをする時も俺はお供をすることになり、僅かだが貴重な男手として
         修道院の仕事を手伝うことにしていた。
         オスカルは、始めての滞在から数年後に、この修道院で一人の女友達を得た。
         スール・カトリーヌ(カトリーヌ修道女)は、持参金の節約のために修道院に
         入ってきた女性だった。
         つまり、貴族ではあったがあまり裕福とはいえず、弟の受け継ぐ財産を
         減らさぬように、両親が彼女を神に捧げることにしたのだった。
         しかし、彼女はそれを自ら納得して過ごしていたようだった。
         彼女は、オスカルより3歳年下で、栗色の髪と水色の瞳を持った大人しい
         女性だったが、不遇な境遇にもかかわらず、芯が強く賢い女性らしく、
         短期間にすっかりオスカルと息投合していた。
         二人で語らい、互いの胸の内を明かし合い、時折手紙をやりとりして、
         友情を育んでいったのだった。
         何度か年を過ごすうちに、オスカルが、長年胸に秘めた初恋を
         告白した唯一の女性になった。

         1787年、このスール・カトリーヌに驚くべきことが起こった。
         彼女は修道院の狭い空間に飽き足らず、広い世界へ足を踏み出すことにしたのだった。
         つまり、彼女はアドランの司教ピエール・ピニョー・ド・ベエーヌが組織する
         コーチシナ地方(ヴェトナム)への布教活動に参加することになった。
         オスカルは、女友達のあまりに遠い異国への旅立ちを心配した。
         「すまないが、ベエーヌ司教のことを調べてきてくれ。アンドレ」
         俺はオスカルの願いを聞き入れ、教会関係を回り、彼のことを調べた。
         「1765年に外国伝導会の宣教師としてコーチシナ地方に赴任したらしい。
         その後、かの地のグエン・アインという指導者に肩入れしているな。
         なかなかその国の政治にも通じていて、その皇帝への支援が、フランスの東洋進出の
         拠点の供与になるに繋がると、ルイ16世陛下を説得して、軍事的支援を取りつけたが、
         インド総督の反対で条約が破棄された。…今は難しい立場だろう。」
         「…そうか。そんな遠い国へわざわざ軍隊を派遣しようとは…何を考えているのだ。
         今のフランスにそんな力があるわけがない。国内で手一杯なのに…。」
         「ベエーヌ司教は今回の帰国にかの地からの使者として、わずか四歳の
         皇太子を伴ってきたが、幼子は秋の寒さの訪れと共に広いヴェルサイユ宮殿の
         中で肺炎を起し亡くなった。凋落しかけたかつての大国フランスに
         無駄な足を運んだわけだ。オスカル」
         「かわいそうに…こんな異国で家族にも見守られず、使命も果せず、
         幼い命を散らすなど、悲劇以外の何物でもないだろうに…」
         彼女は、異国の高貴な血筋の幼子にまで心を寄せた。
         「しかし…カトリーヌはどうしてそんな遠い国まで行く気になったのだ?」
         オスカルは心配そうに眉を寄せ、俺に問い掛けた。
         「俺の方が聞きたいよ。何もこんな時期に東洋の果てまでいかなくても…」

         あわてて修道院を訪れた俺達に彼女は爽やかな笑顔で旅立ちの決意を語った。
         「遠い異国で神への私の愛を広げたいの。」
         俺達の心配を他所に、彼女はラ・ロシェルの港から旅立って行った。
         旅立ちの際に、顔を合わすことはたまにあっても、あまり話したことのない
         俺にまで手紙を送ってきてくれた。
         その手紙には「オスカル様をよろしく頼む」という彼女からの願いがしたためてあった。
         「…年下の私が言うのは失礼かもしれませんが、オスカル様は男性の中に立ち混じって、
         軍人として立派にお仕事をこなしてみえても、ただの女性としては、まだ雛鳥なのです。
         あなたの熱い思いを受け止めるには、まだ幼子なのです。
         長年のお話やお手紙にでてくるのは、初恋の愛しいお方のことよりも、
         いつもあなた様のことばかりでございました。
         …いつかあなたの愛に、包み込むような深い愛に気づかれることでしょう。
         どうかオスカル様の力となり、いままでどおり優しく見守り、励まし、
         愛しい存在として大事にして差し上げてください。
         ごきげんよう、オスカル様のアンドレ・グランディエ…」
         俺はただ恥じ入るばかりだった。
         包み込むような深い愛し方などできていない。
         それどころか…かつては愛していると言いながら、乱暴さえしようとしたのだ。
         彼女は俺を買い被っている。俺はただの男だ。
         やっとオスカルと俺の新しい距離を見つけたのに、時どき、その距離を縮めたくなる。
         手を伸ばし、彼女の美しい絹のようにしなやかな金の髪に口づけたくなる。
         ほっそりとした身体を腕の中に取り込み、誓いを破りたくなる。
         彼女の心を手に入れることができないならば、せめてその身体だけでも手に入れたい。
         そんな邪なことさえ考える男なのだ。
         こんな俺に彼女のそばにいる資格があるのだろうか?
         でも、今さら離れるなど…できもしないし、考えられもしない。
         オスカルを愛することをやめられない。なぜなのだろうか?
         できることならば…、俺こそが遠い異国へ旅立つべきなのではないだろうか?
         誓いを破らぬ前に、彼女を抱きしめることが我慢できるうちに…。

         その後、奇跡のように、スール・カトリーヌからオスカル宛てに
         手紙が届けられることがあった。
         何人もの人の手を渡ったその手紙は、潮風で皺だらけになった羊皮紙に綴られていた。
         手紙に綴られていたのは、仲間の修道女を病で亡くした辛い航海の様子であったり、
         到着したコーチシナの湿気の多い気候や心優しい穏やかな人々の生活ぶりだった。
         「…親愛なるオスカル・フランソワ様、私は今、神に見守られながら、
         この地の生活を学んでおります。私達宣教師は、ドイ・ドゥアと呼ばれる箸と
         いうものの使い方から、水田の耕作の仕方、ヴェトナム語まで一つ一つを
         土地の人々に学び信頼を得ようとしております。
         私はこの地の水田の美しさに感激しております。いつの日にか必ず神の愛を
         この地に溢れさせることができると思います。…」
         彼女の手紙はかの地の生活の困難さよりも、使命を果す喜びに溢れていた。
         しかし、次第にその手紙の内容は変化していった。
         異国での過酷な自然は、彼らを次第に本質的なものに近づけていったようだった。
         「…私達は、故国から遠い熱帯雨林の中に忘れ去れていくようです。
         孤独な私達の身体にも、雨が染みこんで行きます。
         神の作りたもう自然は、人種の区別なく、信仰の区別なく、
         平等に私達に恩恵を授けてくれます。…」
         高位聖職者の思惑や、兵士による侵略を嫌悪し、彼らはただ異国で神の愛を
         伝えることだけに心を砕くようになったらしい。
         そして、最後となった手紙には不思議なことが書かれていた。
         同行した修道士ドミニク様とヴェトナムの素晴らしさに感嘆の声を上げていた。
         「…兵士は言いました。“フランスの威力を見せつけるべき時だ。”
         修道士ドミニクは、反論しました。“福音を伝えるのに、マスケット銃は不要だ。
         武器を置きたまえ。“と…彼の姿を私は尊敬の眼差しで見つめました。
         神の御心のままに私達はサイゴンの奥深くの村へ旅立ちます。
         もうお手紙を差し上げることも出来ないでしょう。
         私はこの遠い異国で愛の王国を見つけました。神がお許し下さることを祈っております。
         親愛なるオスカル・フランソワ様、あなたが身近にある愛の王国に一刻も早く
         気づかれることを祈っております。
         あなたのアンドレへ私から信頼の口付けを私にかわり伝えて下さい。
         いつの日にか天の園でお会いしましょう。…」
         オスカルは読み終わると理解が出来ないというように俺の顔を見つめた。
         「神の許しを請うとか、愛の王国を見つけたとか、私の愛の王国に気づけ…
         カトリーヌは何を言いたいのだろうか?アンドレ」
         「…おまえにわからないのに、俺にわかるわけがないだろう。オスカル」
         「そうだな、もっともだ…。じゃ、彼女の伝言だから私がかわりに…」
         ふいに俺に近づき、俺の唇に口付け、耳元で面白そうに囁いた。
         「しかし、いつの間にお堅い修道女から口付けをされるような立派な男になったのだ?」
         俺は不意の出来事に驚き、ただ動くことさえできずに佇んでいた。
         それは、きっとスール・カトリーヌの思いやりだったのだろう。
         俺のささやかな望みをかなえてくれるための…。

         それから、時は流れ、俺達の間にも数々の事件が起こった。
         彼女の結婚話、上官や父親への反抗、そして、思いもかけぬ愛の告白…
         すべてが矢のように過ぎていった。
         ある夜、いつものように腕の中にオスカルを抱きしめ二人で過ごしていた時、
         彼女は突然思い出したとばかりに立ちあがり、机の引出しをあけ、
         美しい緑色した絹の幅広のリボンを取り出し、俺の手のひらにのせた。
         「昔、まだカトリーヌが修道院に居た時に、おまえへの誕生日の贈り物を
         作るのを手伝ってくれた。でも、恥ずかしいくらい下手だったから、
         渡すのを諦めたのだ。でも、折角思い出したから、早いけれど贈るよ。
         昔のようにその美しい黒髪を伸ばすことがあったら使ってくれ。アンドレ」
         そのリボンには、慣れぬ手つきでアンドレと俺の名が刺繍されていた。
         俺はただ喜び驚き、彼女を引き寄せ、薔薇色の唇に口づけた。
         「…とても嬉しいよ。ありがとう。折角だから、また髪を伸ばそうかな。オスカル」
         彼女は恥じらいながら、俺の胸に顔を埋めた。
         しばらくして、彼女は閃いたとばかりに俺に語り出した。
         「アンドレ、カトリーヌの最後の手紙を覚えているか?」
         「…ああ、不思議な手紙だったな。たしか…」
         「やっと彼女の書いた“私の愛の王国”の意味がわかったよ。
         遠い異国で見つけた彼女と違い、私はこんな近くに持っていたのだな。アンドレ」
         「え?どういうことだ?オスカル」
         「…おまえには…わからなくてもいいのだ。私がわかれば…。ふふふ」
         顔を挙げると、彼女は幸せそうに微笑んでいた。
         「それは酷いな。俺にわかるように説明してくれないか。オスカル」
         「…仕方ないな。カトリーヌが書いてきた“私の愛の王国”は、おまえの
         胸の中だったのだ。私のいるべき場所は、ここだと彼女は言いたかったのさ。」
         「はあ?…なんとなく…、わかったような、わからないような説明だな。」
         「きっと…、彼女は異国の厳しい自然の中で、あのドミニクとかいう
         修道士とともに歩む中で、信仰に縛られない、女だからと蔑まれない、
         彼女なりの幸せを、彼女なりの神を…彼の中に見つけたのだろう。
         その幸せを私は身近に持っていると教えたかったのだろう。アンドレ」
         俺はまだオスカルの言いたいことがすべて理解できなかったが、
         なんとなく彼女が今の自分に満足しているのを感じ安心した。
         「いつの日か、歳をとったら…、ルトレート(退役)して、ルトレート(隠れ家)で
         二人だけで静かに暮らそう。毎日をルトレート(黙想会)のように静かに祈り、
         働き、愛し合い、慈しみあい…嫌かそんな生活は?アンドレ」
         そんな言葉遊びのような夢を語る彼女の口調が、俺の心を幸福な気分にさせた。
         「そんなわけないだろう。嬉しいに決っているよ。オスカル」
         愛しい女は、俺の唇に軽く口づけし、再び幸せそうに胸に顔を埋めた。
         こんな混乱した世の中で、そんな日が俺達に訪れないだろうことは
         二人ともわかっていた。ただ夢をともにみるだけで幸せだった。
         胸の中のオスカルが、突然小さな声で囁いた。
         「…こ、今年の誕生日は早めに、おまえが嫌でなければ、別の物も贈るよ…。」
         「え、もうこの美しいリボンだけで十分だよ。オスカル」
         そして、静かに俺は彼女を抱き上げ、寝台へ運んだ。
         俺の愛の王国は…きっとオスカル自身の中に存在するはずだ。

                        FIN