☆ 感傷 ☆


            近くの教会で夕方のアンジェラスの鐘が鳴る。だがこの季節、太陽はまだ空中
           に留まり、きつい日射しを地上に投げつけていた。
           昼間の熱を残した風が墓地の中を歩く俺の傍を吹き抜ける。
           今年もやって来た。ここへ。
           今はもう”あの方”としか呼べなくなってしまった、想い人の眠る場所へ。

            とある墓の前に立つ。地にはめ込まれた墓石には名前が二つ。
           あの方とあの方の夫とのもの。
           墓の前に座り込み、懐中から携帯用のボトルを取り出して蓋に酒を注ぐ。
           安物のアルマニャック。あなたの口に合うような酒ではないけれど。
           心の中でそう呟きながら、蓋を墓石の上に乗せた。

            最初に会った時、おれはあの方をなんて呼んだんだっけ。
           記憶を探ってみる。
           よく覚えていないな。まあろくな呼び方じゃなかったことだけは間違いない。
           あの時の俺は反抗心の塊だったしな。
           何もかもが気にくわなかった。
           美貌も能力も心根も。
           それが薄っぺらな金めっきなら、かえって楽だったのかも知れない。
           めっきを引き剥がし、罵倒し、辱めてそれを当然と思えただろうから。
           だがあの方の真正が俺にそれを許さなかった。
           憎めなどしない、でも無関心ではいられない。
           気に入らない上官への反抗は、いつのまにか自己顕示へと掏り替わっていく。
           「素直になれ、素直に。でかい図体しやがって。」
           不意に声が蘇る。
           友人であり、あの方の夫である奴の声。
           こいつが俺にきっかけを与えた。自分の反抗の正体、それがなんなのかを。
           知りたくはなかったんだよな。
           女であるが故に逆らったはずだった。なのに女であるが故に惹かれずにいられ
           なかったことなんか。
           一度だけ、あの方の唇に触れたことを思い出す。
           甘く、苦い記憶。
           まるでこの酒のようだな。
           思いながらボトルに口をつけた。
           口に含むとほんの少し甘い。でもすぐに苦味を帯び、喉の奥で熱に変わる。
           熱は渇きを呼び込んだ。癒されることのない渇きを。

            あなたに出会ったせいで、この先女と一緒になるのは無理なようです。
           おまけに上官を敬うってこともできそうにないですね。
           なんせあなたに恋の想いも敬愛の念もをぜんぶ持っていかれてしまったんです
           から。
           他の人間へ回す分が残ってないんですよ。
           物言わぬ墓石にそれでも話しかける。
           あなたはどんな風に答えるだろうか。
           きっと困ったような顔をして、隣の片割れを見やるだろう。
           あいつは穏やかにあなたに微笑み、俺をなだめにかかるんだろうな。

            想いが届くことはない。触れることも叶わない。ならばせめて側に居たかった。
           だがあの方はそれさえも俺に許してはくれなかった。

            酒を注いだ蓋を手に取り、墓石の横の土に注ぐ。ぽとぽとと滴り落ちる茶色の
           液体は地に染み込んで歪んだ円を描いた。

            ボトルの蓋を閉め、懐中に収めて立ち上がる。
           服の塵を払ってしばし墓石を見つめた。
           そして呟く。
           また来ますよ、来年の同じ日に。

           今日は、7月14日。


           FIN