迷宮
そばにいられる、それだけでいい。そう繰り返す、呪文のように。
だのに頭の片隅で声がする。お前がそれほど殊勝なものか、と。
迷いこんだ迷宮。出口はただ一つ、彼女の言葉。
得られることなどないそれを求めて、俺はさまよい続けるしかない。
「思ったより月が明るいな。」
オスカルの部屋に入ってきたアンドレは開け放たれたガラス窓から月を認めて、
部屋の主に向かってそう言葉をかけた。
「そうだな。」
窓枠に身体をもたせかけ、ぼんやりと外を見ていたオスカルは声の主へ振り向か
ずに応じる。
窓の外には沈み行く半月。古代の大神の名を持つ惑星が供を務める。
その少し上には仲の良い双子星が明るく輝いていた。
穏やかな春の宵。だがこの時間になるとさすがに空気は冷たくなる。
盆を窓の前の卓にのせると、アンドレはオスカルに問いかけた。
「どう言う風の吹き回しだ、一緒に飲もうだなんて。」
「うん。」
ようやく視線をアンドレに向けると、オスカルが言った。
「たまにはいいだろう。久しぶりにのんびりした夜だ。」
「おばあちゃんの眼を盗んで持って来るの大変だったんだぞ。」
盆の上には繊細なカットの施されたグラスとデキャンタ。デキャンタの中には琥
珀の液体が揺れていた。
「窓は閉めるぞ。冷えるだろう。」
オスカルが窓から離れて椅子に腰掛けると、アンドレは窓を閉め、風で広がった
紗のカーテンを両脇に留め直した。
それから卓を挟んで向かい側の椅子に腰掛ける。
「少なめにしておけよ。」
言葉と共に渡されたグラス。
「いい香りだな。」
言葉は受け取らず、酒を注がれたグラスを大事そうに受け取り、顔に寄せてオス
カルが呟いた。
「お前のお気に入りのコニャックだぞ。感謝しろよ。」
「分かってるよ。」
いささか恩着せがましい言葉にオスカルはつんとして応じた。
手の熱で暖められたグラスから芳醇な香りが立ち上る。
「葡萄の美酒、夜光の杯・・・」
「なんだ、それは。」
グラスに口をつけかけて、アンドレが訊ねた。
「詩さ、異国の。葡萄の美味い酒とガラス製の酒杯。」
自分のグラスを少し上に上げてオスカルが答える。
「普通、葡萄の酒というとワインのことだと思うが。」
半ば呆れてアンドレが答えた。
「これも葡萄の美酒さ。」
しれっとしてオスカルが言葉を返す。
「・・・。続きは?」
反論する気力を失い、アンドレが促した。
「飲まんと欲すれば 琵琶 馬上に催す
酔うて沙場に臥すとも 君笑ふことなかれ
古来 征戦 幾人か回(かえ)る」
アンドレはほんの少し眉をひそめた。
今の不穏な世情を考えると詩の意味はいささか物騒にもとれる。
「酔っ払いの言い訳みたいだな。」
おどけてみせた。
「かもな。」
オスカルはデキャンタを自分で取ると、グラスに酒を足した。
カットグラスのきらめきの中、琥珀の酒が踊るように跳ねる。
「少しだけだって言っただろうが。」
思わず発されたきつめの言葉。
「少しだぞ、注いだのは。」
さらっと受け流された。
アンドレはやれやれという風に肩をすくめる。
「それだけ飲むんだったらいっそ水で薄めたらどうだ。お前にはちょうどいい。」
今度はオスカルが眉を跳ね上げた。
「それって美味い酒への冒涜だぞ。」
不同意を視線に表わし、アンドレに投げ付けた。
華やかなカットグラスに触れる唇。
動く白い喉。
不自然にならないように、さり気なく眼を逸らす。
動作にだけは慣れた。気持の揺れに慣れることなんてないんだが。
グラスを弄ぶ手。
長い指。
見ているのが不意に息苦しくなって、自分のグラスに視線を戻す。
手の中でグラスを転がす。琥珀の旨酒が自分の想いと一緒にゆらゆらと揺れる。
「だけど真面目な話、量減らした方がいいぞ。また増えただろう。」
「分かっている。」
言葉のない空間を酒と共に楽しむゆとりなどない。
沈黙の帳が降りるのを恐れて、舌に言葉をのせ続ける。
極上の酒をもってしても芯から酔えなどしない。
時間はゆるゆると流れる。本当に話したいことが何か分からぬまま。
「もうお終いだ。」
立ち上がったアンドレがひょいとオスカルの手からグラスを取り上げた。
「あ、おい!」
「飲ませたっておばあちゃんにどやされるのは”俺”なんだぞ。」
”俺”を強調し、アンドレはさっさと盆にグラスとデキャンタを戻した。
気付いただろうか。
まあ構わない。
分かろうと分かるまいと。
無造作に取り上げた仕草。
でも分かった。
指が触れぬよう、注意を払ったこと。
「あのな、子供みたいなふくれっつらをしないように。」
「やらせているのはお前だ。」
盆を持って立ち上がったアンドレを下からオスカルが睨む。
あまりに子供っぽい表情にアンドレは思わず吹き出した。
「まるでおもちゃを取り上げられた子供だな。」
「楽しみを取り上げられたという点では同じだな。」
言葉を選ぶ。他愛無く聞こえるように。
そうせずにはいられない。
無難なのだろうな。
お互いが幼馴染みを演じていることが。
「じゃあお休み。」
「お休み。」
盆を左手に持って後ろ向きにアンドレがひらひらと手を振る。
その背中にオスカルも挨拶を返した。
お互いに知らない。部屋の扉の内と外で思わずもれたため息ふたつ。
側にいて欲しい、これは本心。でもなぜかという問いに答えられない。
友情、必要、愛情、利用。意味を成さない言葉の羅列。
迷いこんだ迷宮。答えという出口は見つからない。
それともそれを得ることを恐れて、私はわざとさまようのだろうか。