望まない夢


男はゆっくりと身体を起こした。
見渡す限りの麦畑。豊かな実りが広がっている。
今日は一日中良い天気で、頭上には雲一つない夏の空が広がっていた。
だが今太陽はゆっくりと西へ傾き、畑の実りを愛でるようにひときわ鮮やかな光を投げかけている。
その光を受けて畑は見事なまでの黄金に染まる。
晩夏の風は日中の暑さを払うように優しく吹き抜けていく。満足そうに畑を見回す男の黒髪も同じ風がふわりと持ち上げた。
重た気な麦の穂がさやさやと鳴る。
「あなた。」
自分を呼ぶ声を耳にとめて男は振り返った。髪に隠れていた開かぬ左眼が一瞬露になる。
妻が子供の手を引いて畑の横の道をこちらへ急ぐのが見えた。
大地の色の髪と眼を持つ妻。子供の髪と瞳は自分に良く似た黒。
「今日はそろそろおしまい?」
にこにこと笑いながら妻が問いかける。
「ああ。」
「そう、ちょうど良かったわ。じゃあ一緒に帰りましょう。」
「父さん、あのね。」
父と母の会話に加わろうとして小さな息子は精一杯話し掛けた。
「なんだ?」
「今日ね、ひわを見つけた。」
「どこで?」
「家の裏。でもね、近寄ったら逃げた。」
たどたどしい口調の息子に微笑みかけ、男は妻を見遣った。
「今日の様子はどうだった?」
「良くもなし、悪くもなし、といったところね。」
「父さん、肩車。」
息子が口を挟む。
やれやれという風に肩をすくめ、男は道具をまとめると袋に入れた。
肩に担うと道に上がってしゃがみ込む。
満面に笑みを浮かべた息子は父親の広い背中へ這い上った。
「大丈夫か?」
「うん。」
しっかり肩に乗るとぎゅっと父親の頭を抱え込む。
小さな指が髪を掴んでいる。痛さに顔をしかめながら男は立ち上がった。
「髪を引っ張るな。」
「うん。」
返事はいいが相変わらず指は父の黒髪を掴んで離さない。
「ほらほら。そんな風にしたら父さん痛いわよ。」
妻が子供をたしなめ、ようやく掴む力が緩んだ。
「さあ、帰るか。」
「うん。」
子供は御機嫌できょろきょろ辺りを見回しているらしい。
体がゆらゆら揺れているのを感じる。
「たか〜い。」
はしゃぐ子供の声を頭上に聞きながら、妻と家に向かって歩き出した。
残照に映える金の波が揺れている。


ここはどこだ?


ふと頭に浮かんだ言葉に驚いた。
ここは俺の畑。家族三人でささやかな暮らしの糧を得る場所だ。
何をばかな事を考えているんだろう。
頭に浮かんだ言葉を振り払う。
さあ、家に帰ろう。


 金の髪がゆるやかに揺れる。


豆の煮込みとパン、少しの野菜。ワインを少々。
質素だが温かな食事。
息子が一生懸命パンを頬張る。
横で妻が汚れた口元を拭いてやっている。


 息子などいない。


「どうも妙だな。」
思わず声に出してつぶやいた。
「え?」
驚いたように妻が応じる。
「ああ、いや。」
言葉を濁すと男はワインを口に含んだ。


 蒼い瞳が真直ぐに見つめる。


頭を振ってさっきから浮かぶ思考を追い払おうとする。
妻と子が居る暮らし。今の自分のすべて。


 そんなものは要らない。


食事が済むと妻は片づけを始めた。
男は息子に小さな木彫りの人形を作ってやる。
ナイフが木を削る音。小さな木片が卓の上に飛び散る。
それを息子は男の横に座って目を輝かせながら見ている。
少し大きな木片が削れると、手を伸ばして取り、いじる。
「ナイフの前に手を出すなよ。」
「うん。」
卓の上の蝋燭がじじっ、と音を立てた。
「今日はここまで。」
顔と胴体はだいたい出来た。手と足も大方彫り込んである。
後は顔の表情を決めて、色を塗ってやろう。
そんな風に考えていると、息子は焦れったそうに男の手元を覗き込んだ。
「父さん、もうすぐ?」
「ああ。」
「ほら、もう寝る時間よ。」
妻が子供に声をかける。
「は〜い。」
えらく間延びした声。いやいや何かする時の息子の癖だ。
「早くなさい!」
思った通り、妻の声がきつさを帯びた。
その声にそっと男は微笑む。
「父さん、お休み。」
「ああ、お休み。」
男は息子の頭を撫でてやる。
ちょっと気が済んだような顔で息子は寝室に向かった。
せき立てられながら着替えをし、ベッドに這い上ったようだ。
子守唄を歌っているのだろう、妻の柔らかな声が聞こえる。


 合わない鍵。足りない駒。揃わないはめ絵。掛け違った釦。


先ほどからの違和感が今度は恐ろしい程の強さで自分の中からせり上がってきた。


 ここは居るべき場所ではない。


必死に打ち消す。何をばかなことを考えているんだ。
「眠ったわ。」
妻が戻ってきた。
椅子に座ったまま振り返る。
夫婦二人きりになったせいか、妻はほんの少しなまめいて見えた。
「明日も晴れそうだな。収穫が終わるまで天気が崩れなければいいんだが。」
妻と目を合わせる事をなぜかためらい、顔を卓の方に向けた。
今まで作っていた人形の削りかすを集めはじめる。
ふわ。
左肩に妻の手がかかる。
男には左の視力がないので、一瞬気付くのが遅れた。
首をまわすとすぐ近くに妻の顔があった。いつの間にか手の上に顎を預けている。
「俺の眼・・・。」
「なあに?」
小首をかしげて妻が尋ねる。可愛らしい仕草。
「俺の左眼はどうして見えないんだっけ?」
妻が大きく眼を見開いた。
「いきなりどうしたの?山仕事を手伝いに行った時、伐った木の倒れる方向が悪くて
枝で傷つけたんじゃない。」


 違う。これは鞭で傷つけられたもの。悲鳴にも似た彼女の声が聞こえた。


彼女?誰の事だ?


 見事な、そう、さっき見た夕日に染まった麦畑のような見事な黄金の髪を揺らし、彼女が自分の名を呼びながら駆け寄ってくる。


「いったい今日はどうしたの?変よ、あなた。」
さすがにおかしいと思ったのか妻は男から体を離し、両手を腰に当てて咎めるように言った。
「ああ、悪い。疲れたんだろう。」
男はのろのろと立ち上がる。
「今日はもうお休みなさいな。」
疲れたという言葉に納得したのか、妻の声がやや穏やかになった。
「ん。」
生返事をして寝室に向かおうとした。


 ひどく渇く。


「水が欲しいな。」
寝室へ向けた足の向きを変え、戸棚からコップを取り出した。それから卓の上の水差しをとって水を注ぐ。
一気に飲み干した。


 いくら飲んでも意味のない事。


「ワインを飲み過ぎたかな。」
言い訳めいた言葉を口にして、もう一度コップに水を注いだ。


 癒えるはずはない。渇いているのは喉ではないのだから。


昼間の空の色を不意に思い出す。清澄な蒼。
彼女の瞳のような。

頭を振った。なんなんだ、これは。
その蒼の前にすべてのものが色褪せていく。


 そう、お前は至上の輝きを知っている。


違う!家と妻と息子。輝きはせずとも今の自分の大事なもの。


 輝き以外に何一つ、大事なものなど持たぬ者が。


ささやかな幸せ。穏やかな歓び。


 そんなものを欲した事などないくせに。


夕日に染まった麦畑の黄金、晩夏の澄んだ空の蒼。
焦がれ死にしても悔いはない程焦がれたもの。
頭に焼き付いたこの色達にぞっとする程の渇きを感じた。

「あなた!」
まるで悲鳴のような妻の声。
にもかかわらずひどく遠くに聞こえる。

姿が浮かぶ。
翻る黄金の髪と澄んだ蒼の瞳。女神の美貌と軍神の才。玻璃の脆さと鋼の勁(つよ)さ。
天にも地にも欲したのはただ彼女だけ。他にはどんな幸せもどんな歓びも要らない。

世界がぐるぐると回り出した。



「ばっかじゃないの!」
突然の怒鳴り声にアンドレはのろのろと眼を開けた。
ここはどこだっけ?
ぼんやりした頭にゆっくりと記憶が戻ってくる。
用があってパリまで出かけた。思ったより早く片付いたので久しぶりに出店を冷やかしながら歩いていた。
その中で見つけた”夢を紡ぐ館”というテント。
なんでも好きな夢を見せてくれるとの看板のあおり文句にふとつられた。
ごたごたと積み上げられた道具達。中央に大きな卓。その向こうに座る年若い少女。
妙に人を喰った表情をしていた。
「お望みは?」
椅子を勧めながらつんとした表情と勿体ぶった声で尋ねる。
「田舎で妻と子供と暮らす夢を。」
作った表情が瞬く間に崩れ、顔に不審げな表情が浮かんだ。
「どんな夢でも見せてくれるんだろう。だったら今の生活とまるっきり違う夢がみたい。」
この言葉にどんな勘違いをしたのか分からない。さも気の毒そう、という表情が不審にとって変わった。
まともな結婚もできない境遇だとでも思われたんだろうか。
・・・当たらずしも遠からずか。
一人の女に囚われて身動きもできない。だが本来なら自分には想うことすら許されない。そして彼女の結婚話。
オスカルの存在しない生き方、見たいと思ってはいけないだろうか。
我ながら情けないとは思うが。
「体の力を抜いて、眼をつぶって。」
香炉に怪し気な香を足しながら、少女が促した。
言われた通りにする。
最初きつい刺激のある香りも馴染むにつれて甘く感じるようになった。
少女がつぶやく呪文のような言葉。低く高くうねる波のような響き。
その波に呑まれて少女の紡ぐ夢へ落ちていったはずだったのだが。

ここまで思い出すと目の前の少女をまじまじと見つめた。
夢で出てきた妻とそっくりな顔。ただし年令はこっちの方が10も若いか。
ひどく不機嫌そうだ。
「せっかくいい具合に夢を紡いでいたのに、自分から戻ってくるなんて。」
どうやら自慢の術を台無しにされたことに腹を立てているらしい。
「悪かったな。」
「だいたいあんたが望んだ夢でしょ。なんで自分で断ち切っちゃうのよ。」
アンドレは曖昧に笑った。
望んだ夢、か。少女にはそう言ったくせに実際はひとかけらだって欲しがっちゃいなかった。
「幾らだ?はずむよ。」
現金なものでこの言葉に一転少女はにこやかな笑顔を見せた。あからさまに機嫌を直したのが分かる。
少女に言われた通りの金を払い、テントを出た。


良い天気だな。
初秋の風が心地よく頬を撫でていく。
もう一度夢で見た光景を思い出した。
夕日に染まった麦畑の黄金。晩夏の抜けるような空の蒼。
そう、欲しいものはひとつだけ。最初から分かり切っていた。
その存在すら記憶していなくとも、焦がれる事をやめられはしない。
オスカルは俺自身に刻み付けられているのだから。
・・・いっそ狂えば楽だろうか。
いささか自虐を帯びた思考に苦い笑いが浮かぶ。
それでも結局は同じ事だ。理性という箍(たが)がない分、もっと一途に彼女を愛するだけ。
空を見上げた。本当に良い天気だ。
さて帰ろうか、居場所へ。

欲しいものはひとつだけ。夕日に照り映える麦穂の黄金と夏空よりもなお蒼い瞳。


fin