パンドラの箱

神話に曰く
昔、神は男に女と箱を贈った。
箱にはあらゆる禍いを詰めて。男と女にその害の及ぶことのないように。
だが女は愚かにも箱の蓋を開け、禍いをこの世に解き放った。
すべての禍いが飛び去った後、幸いなことに希望が残った。
故に人は絶望することなく生きていけるのだ、と。


  蝋燭をオスカルの部屋へ持っていってくれるようおばあちゃんに頼むと、足早に自分の部屋へ戻った。
  普段通り振る舞ったつもりだが、奇異に思われなかっただろうか?


本当に幸いだったのだろうか?希望が残ったことは。
あるいは災厄よりなお残酷な、神々の贈り物だったのでは?


  扉を閉めると力を使い果たしたかのようにそのままもたれ掛かる。
  天井を見上げて息を吐いた。
  先程の出来事が頭の中を駆け巡る。
  何をした?俺は。


己が面(おもて)に浮かぶは冷笑。
かつて殊勝な言葉を口の端にのぼせた男への。
できるつもりだったのだろうか、黙って見つめることなど。
他の男のものになる彼女を。


  自室にいたオスカル。想いやつれた眼をしていた。
  呼ばれるまま部屋に入り、彼女の話に耳を傾けた。
  そう、彼女が欲したのはただ話の聞き手。
  嘆きの壁のようにすべてを飲み込んでくれる存在。


裂け目を通して心の深淵がのぞく。
暗い色の中、ちらちら瞬く紅蓮。
消えることのない炎、冷めることのない熱情。


  不意に浮かんだ涙。何故なのか見当はついていた。
  だが問わずにいられなかった。
  分かり過ぎる程分かっていたこと。彼女の恋情が自分に向けられることはない。
  なのにはっきりと示されて度を失った。


ぎりぎりと鳴る鎖。
千切れそうなその縛めに頼るしかない自分。
抑えの軛(くびき)はほろほろと崩れ果てた。
だのに残骸になおもしがみつく。


  いつの間にか自分の中で友情は愛情に変わった。
  だが伝えるわけにはいかない。
  想いを秘めておける自信もあった。
  ・・・これ程脆いものだとは思わなかったが。


まばゆく輝き人を魅了する光。
望み焦がれて止む事を知らない。
灼き尽くされる程弱くなく、喰らうことは許されない。


  彼女にこの上なく暴力的に触れた。
  恥じ入るしかない行為なのに、指が腕が唇が彼女を覚えている。
  為した事への厭わしさとは裏腹に、感触と香りがこの身から去らない。
  あまりの浅ましさに唇を噛み締める。


諦めることができるのならいっそ楽だったのだろうか。
絶望することができるのならまだ救われたのだろうか。


  側に居られれば満足だと思い込もうとしていた。
  彼女の友情と信頼で十分だと。
  欲しいものに眼をそむけ続けた。
  そして破綻した。


長い年月
親友の仮面を被り続けた。
心に想いを封じ込めて。彼女を煩わすことのないように。
だが激情が鎚となり、仮面を剥ぎ取り打ち壊した。
露になった感情の果て、後に望みだけが残った。
故に諦めも絶望もできずにただ在るしかない。


  剥き出しにしてしまった想い。
  一番守りたい相手を最も残酷な方法で傷つけた。
  思わず両手で頭を抱え込んだ。
  低くうめく。

  扉にもたれたまま、どのくらい時間が経ったのだろう?
  感覚が混乱していて頭がまともに働かない。
  身体に力を入れ、なんとか足だけで立つ。
 
  上着を脱いで手近の椅子に放り、襟元をゆるめた。
  本来ならば荷物をまとめて出ていくべきなのだろうか。
  ふっと浮かんだ思考に溜息をついた。
  どうすべきかなど分からない。どうしたいのかだけはっきりしている。
  彼女の側を離れることなどできはしない。
  足を引きずるようにベッドへ近寄った。
  端に腰掛け、膝の上で両手を組む。
  そうして自分の指先を見つめ続けた。
  灯りのともらない部屋、窓から差し込む月明かりの中で。

  
開いたのは禁断の箱。
知るべきではなかった己が真実。

そして・・・。


fin