翠玉
もう少し、そう思うとついつい遅くなってしまう。
ようやく編み針から眼を離し、ロザリーは辺りを見回した。
部屋はすっかり薄闇に包まれている。
「ベルナールに知れたらまたお小言だわ。」
彼女の妊娠を知った夫は妻を労り、何くれとなく気を配ってくれる。もちろんロザリー
にはありがたいことだがいささか口うるさいのが玉に傷だ。
彼女のやる事に一々文句をつけたがる。
例えば編み物。そんなに根を詰めると体に障るというのだ。
同じ姿勢を取り続けているのも感心しないと。
「どうしてあんなに口うるさいのかしら。」
幸い、と言っていいのかどうか、今日は寄り合いがあるとかでベルナールは遅くなる。
お小言は喰らわずにすみそうだ。
一つ伸びをすると体の力が抜けた。ロザリーはふっと溜息をついた。
でも幸せだわ。
ぽつん、と不意にそんな思いが頭に浮かんだ。
生活は豊かとはいえず、街はますます物騒になる。
でも愛する夫がいて、もうすぐ家族が増えるという喜びがある。
自分が手に入れた確かなもの。
姉さんは?
思い出す事の少なかった、いや、思い出す事を怖がっていた姉が今日は妙に懐かしい。
小さい頃から自分の器量と出自が自慢の姉だった。
無理もない、ロザリーもずっとそう思ってきた。姉さんは綺麗だったもの。
つややかに光る豊かな黒髪、深い色した翠玉の瞳。少女の頃からなまめいた表情が良
く似合った。
気紛れで働く事を嫌がり、母とロザリーに平気で仕事を押し付けた。
それでも病気になった自分達を必死で看病してくれる優しいところもあったっけ。
貴族に憧れ、貴族になるために最初は母と妹を、次に昔の自分を少しづつ捨てていっ
た。
憑かれたように富を欲しがり、あげくに国で一番高価な首飾りを騙し取り、捕まって
刑を受け、逃亡し、死んだ。
やっとの思いで会いに行った時の偽りの涙。次に会った時の冷たい瞳。裁判で見せた
したたかな眼差し。逃亡後に届けられた息災を告げる手紙。
別れてからの姉の人生で知っている事と言えばこれだけだ。
あまりに私と違い過ぎる生き方を選んだ姉さん。
姉は自分の思い通りに生きたのだろうか?そしてそれは姉にとって幸せな事だったの
だろうか?
こんな風に思う事自体、生き残って自分なりの幸せを手に入れた私の思い上がりなの
かも知れないけど。
熱でうなされていた時、大丈夫だと言いながら泣きそうな顔で自分を見つめていた翠
玉の瞳を思い出す。
それだけ覚えておけばいい。
今の私にできるのはそれぐらいだもの。
「ベルナールは食事要らないって言っていたから、簡単に夕食を済ませてしまおう。」
思いを打ち切るためにわざと他愛もない事を言葉にしてみる。
編みかけの靴下と編み針を箱に入れ、立ち上がってそれを物入れの上に置いた。
残り物を入れてある鍋を温めてっと。
そんな事を考えながらもう一度繰り返す。
そう、それだけでいい。
fin