戸惑い
書類というのは溜まるんだな。
処理すべき人間がどんな状況に立たされていたのかなどおかまいなしだ。
自分の机に山積みにされた紙の山を見ながら、オスカルはそう呟いた。
アラン以下12名がアベイ牢獄から無事に帰還した日の昼下がり、釈放された彼ら
をねぎらい、オスカルは司令官室に入った。
そこで見い出したのは机を覆う書類の束。
思わず天を仰いだ。だがやってしまわねばならない。
そう思って手を付けはじめたのだが、中々終わりそうにない。
だのにアンドレはしきりに食事をしろ、仮眠を取れとうるさい。
確かに釈放の知らせを聞いて、すぐに屋敷からここへ駆け付けたから食事をする暇
などなかったし、昨日から一睡もしていない。
だがそれ程やわではないし、第一ある程度片付けてしまわねば隊の動きが滞る。
書棚で資料を探していたオスカルの横でアンドレはなおも言い続けていた。
「だから何度も言っているだろう。食事をして少し仮眠をとれ。」
彼の方には顔を向けずにオスカルは答えた。
「それどころではない。」
「やることが山積みなのは分かってる。だけどな。」
アンドレの声がだんだん苛立ってくる。
「大丈夫だよ。」
「丸一日、食べも眠りもせずに大丈夫な訳がないだろう。お前は今、倒れてる暇なん
かないんだぞ。」
オスカルは思わず顔を横に向けた。
すぐ側に立っているアンドレと視線がまともにぶつかる。
きつい口調とは裏腹の気づかわしげな眼差し。
その眼差しが嬉しくて、思わず手を差し伸べた。
アンドレの右頬に触れる。
「心配、性だな。」
アンドレは一瞬目を見開いて、それからゆっくりと微笑んだ。
オスカルの指先を捕らえて、てのひらにくちづける。
「そうだよ。」
身の内で常ならぬものがゆっくりと広がり出す。
それに戸惑って思わず軽口を叩いた。
「キザだな。」
「何が?」
「てのひらへのキスは懇願のキス。そう聞いたことがあるぞ。」
「お願いして聞いてくれるお前なら、俺の苦労は100分の1ぐらいに減っていると
思うが。」
今までだったらすぐに何か言い返していた。なのに今はなんと言っていいか分からな
い。
私の中に広がり出した何かが言を封じ、戸惑わせる・・・。
知っているくせに。自身の中に広がるものの名を。
それは彼への恋慕。
分かっているくせに。なぜ戸惑うのか。
変わってしまった間柄に、まだ慣れることができないからだ。
ここにいるのはもはや幼馴染みではなく、私の・・・。
アンドレの顔を見ていることができなくなって、彼の肩に軽く額をのせた。
一瞬、彼が身じろいだような気がした。
「どうした?」
でも彼の声は静かで優しい。
「うん・・・。」
こうしていると、疲労が身体から浮き上がってくるのが分かる。
ついさっきまでは何も感じなかったのに。
疲れを自覚するのさえ、私にはこいつが要るんだろうか?
アンドレの左手が軽く私の肩を支え、右手がゆっくりと髪を撫でている。
こうしていることがひどく心地いい。
そう思ってしまった自分にオスカルは驚いていた。
アンドレも戸惑っていた。
手を伸ばしてもオスカルに触れない位置にいること。彼女と一定の距離を保つこと。
それが自らへ課した枷のはずだった。
「愛している。」
昨日の彼女の一言で必要無くなった枷。
なのに枷のない自分にまだ慣れることができない。
もたれかかるように自分の肩に頭を預けるオスカル。
今までとはあまりに違い過ぎる距離がアンドレを戸惑わせた。
彼女の髪を撫でている自分の手が妙にぎこちない。
「分かった。一番急ぎの仕事を片付けたら言う通りにする。」
本人は気付いているのだろうか。いつもと違う自分の声に。幼い頃から一緒にいた自
分にさえ聞かせてくれたことのない、柔らかで甘やかな調子に。
きっと自分にだけ、向けられる声。
戸惑いがふいに、抱きしめたいという衝動に変わっていく。
髪を撫でていた右手が止まり、頭から背中へと降りていく。
自分の肩を支えていた左腕も腰の辺りへ移動し出す。
抱きしめられる、そう思ってオスカルは眼を閉じた。
コンコン。
「隊長、おいでですか?アラン・ド・ソワソン、入ります。」
ノックの音とアランの声。
2人は慌てて身体を離した。
そうだ、ここは司令官室だった。そんなことにさえ、思い及ばなくなっていた。
見合わせたお互いの顔に微苦笑が浮かぶ。
――― 想いが通じるというのは、こわいものなのかもしれないな。
一瞬とはいえ、世界に恋人と自分しかいなくなる。
気を取り直して、探していた資料を手にとり、書棚の前のソファに座った。
アンドレはソファの横に立ち、私の手許を覗き込む振りをしている。
こういうのうまいよな、こいつ。
頭を軽く振って、襟元を締めた。気持ちを引き締める時の癖だ。
平生の私に戻らねば。少なくとも表面上は。
視線をドアに向け、声をかけた。
「アランか、入れ。」