アメジスト
アンドレは初めて来る店の扉を開けた。
飴色の扉の蝶番は少し油が足りないのか、ぎい、といささか大きい音を立てる。
だが店のざわめきと熱気の中では、そんな音で振り向く者などいない。
席は八割方埋まり、このご時世にも店がそれなりに繁盛していることを物語っていた。
卓のある席には連れのいる輩が陣取り、与太話に花を咲かせている。
年季の入ったカウンターに空いている席を見つけ、腰を落ち着けた。
「何にします。」
赤ら顔の店の主人が尋ねる。
「オー・ド・ヴィ。混ぜ物のないやつ」
「おやおや。うちの酒は混ぜ物なんざしちゃいませんや。」
皿を拭きながら主人はまことしやかに言い返す。
「そう期待したいもんだな。」
アンドレは軽く応じた。
とん、と目の前にしろめ製の杯が置かれた。
琥珀の液体がゆらりと揺れる。
杯を取り上げて中身をほんの少し口に含み、まあまあだなとひとりごちた。
時々独りになりたくなる。
片時も彼女の傍を離れたくなどないのに、たまに喉元までせり上がったモノで息が詰まる。
モノとは何か、どうすればいいのか。
知っていはいても。
どうしようもない。
薄く笑んだ。
彼女がいないこんなところでさえ、モノに名を付ける事を避けている。
理由ははっきりしている。
名を持たせ実体を与えれば、彼女を傷付けることすらあり得るから。
だから逃げ出す。
時々。
モノを何とか飲み下せるまで。
ざわざわとした雰囲気は好ましい。
ここなら誰にはばかることなく独りでいられる。
もう一口酒を含む。熱い流れが喉を焼いて胃に届く。
もう一口。
しゃらん、とかすかな音がした。
「お兄さん、隣良い?」
見上げると左側に女が立っていた。
派手な化粧に肩をむき出しにしたドレス。
返事をするのが億劫で、目線をカウンターの中に戻す。
元から返事など期待していなかったのか、女はすとんと左隣に座った。
「あたしビール。」
カウンターの中の主人に声をかける。
顔馴染みなのか親しげな笑顔で、主人は女の前に木のコップを置いた。
「いい男ね。」
馴れ馴れしく肩へ手をかけようとする。またしゃらん、と鳴った。
ああ、女がしている腕飾りか。
乱暴にならないように手を振り落す。
「つれないのね」
物慣れたしなを作って女が笑う。
振り落とされた手でコップを取り上げ、少し啜る。その動きにつれてまた腕飾り
がしゃらん、と鳴った。
「これ?」
アンドレの視線が自分の腕飾りに止まっているのを気づいた女は、コップをカウンターに置いて右手を心持ち高く上げてみせる。
不揃いな紫水晶を連ねて二連にした腕飾り。
手首の動きにつれて音を立てる。
「客にもらったもんなの。二日酔い除けのお守りなんだって。でもこれに頼るほど飲めないのよねえ。」
小首をかしげて彼の顔を覗き込む。
割合美人なんだろう、きっと。少し眼と眼の間が離れているが、ぽってりとした唇は男好きしそうだ。
少し酔いが回ったのか、アンドレはぼんやりとそんなことを思った。
「ねえ、上で飲み直さない?」
女は不意に右手をカウンターに乗っていたアンドレの左手に重ねた。
手首に当たった紫水晶はひんやりとしている。
指が彼の指をそっと撫でる。
あからさまな誘い。
「いいでしょ。」
甘ったるい口調。
断られることなど念頭にないようで、女は立ち上がりかけた。
この店の二階が女たちの商売の場な訳だ。
アンドレは黙ったまま首を横に振った。
「つまんないの。」
言葉とは裏腹に声はより一層ねっとりとし、彼の手をしっかり掴もうとする。
今度は躊躇なく振り払った。
あまりのしぐさにさすがに脈なしと見てとり、女は大仰に溜息をついた。
あっさりと手を放し、栗色の髪の毛を乱暴にかき上げる。
「ふうん。」
呆れたとも怒っているともつかない調子でつぶやくと、女はもう一度腰かける。
自分のコップを取り上げると、勢いをつけてぐいとあおった。
そして横目でアンドレを見る。
「あんたははずれか。自信あったんだけどな。」
自分のしろめの杯に口を付けていた彼は思わず左の女を見遣って目を細めた。
心の内に抱えるものがあるとはいえ、ここへは酒を飲みに来ただけだ。
なぜそんな風に女が見たのか不思議だった。
「あれ、意外?」
口元を右手で拭うとコップをカウンターに置く。しゃらん。腕飾りがまた音を立てる。
アンドレの顔の中に面白いものを見つけたようで、女は得意げな笑いを浮かべた。
「だってあんた、ひどく飢えた目をしてるよ。」
アンドレは表情を変えずにいることに失敗し、目を見開いた。
喉に詰まったモノに名前を与えられて、心の中で警鐘が鳴る。
「てっきり女が欲しいんだと思ったから、声かけたのに。」
彼を誘うことは諦めたらしく、声にも表情にも先ほどまでのぬめりが消えていた
。
アンドレを見つめる顔は思ったより若い。
「綺麗な色だね。眼も髪も。」
唐突な褒め言葉。
アンドレは真意を測りかねたが、女にとっては言葉以上の意味はないらしい。
もう一度コップを取り上げ、中が空なのを見て小さく舌打ちをした。
「さて、ひと稼ぎしなきゃ。」
名残惜しげにコップをカウンターに置いて立ち上がると、周りを見回す。
獲物を見つけたのか、自分の身なりを点検するとドレスの胸元を引っ張って整えた。
店の奥、卓に着いて男が一人で飲んでいる。
もうアンドレには見向きもせず、女はまっしぐらに男の元へと歩み寄った。
後ろから見ても分るほど、気合いの入った媚態と共に。
「もう一杯。」
店の主人に声をかける。
事の成り行きを見て見ぬふりしていただろう主人は、ほい、と軽い返事をして酒を杯に注いだ。
もう少し。
もう少し酒が要る。
あの女が名を付けてしまったモノを飲み下すために。
足取りが怪しくならないぎりぎり、のところで腰を上げた。
杯の脇に飲み代を置く。
「まいど。」
主人の声に手を上げて応え、飴色の扉へ向かう。
扉を閉めると深く息を吐いた。
今の時間だとさすがに戸外では吐く息が白い。
思わず喉に手を当てる。
今日と同じように、これから幾度となく飲み下すのだろう。
だがもし飲み下せなくなったらどうする?
「あんたのせいだな。」
不揃いな紫水晶をつないだ二連の腕飾りと付けていた白い手。そればかりが印象に残っている女のせいにすることで、アンドレは取りあえず己が問いを誤魔化した。
fin
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