花冷え



天には細い銀の月とかそけき星明かり。
その淡さとは裏腹に地にはそこここに濃い闇がうずくまる。

隣にいる彼が、ふっと暗がりに溶け込みそうになる。
夜が彼を抱き入れようとした、そんな気配。

慌てて腕を捕らえた。
「どうした?」
怪訝そうに優しい声が問いかける。

「なんでも・・・ない。」
声に震えが出ないように言葉を返す。
彼が囚われると思った時の自分の感情。
怖れ、が多分一番近い。
あまりに突飛な考えに呆れながらも心の片隅ではまだ怯えている。
「お前を風除けにしようと思って。」
軽口でおののきを覆い隠す。
「そんな薄着で出てくるからだ。」
苦笑まじりの声。
寒さを覚えたが故の仕草。
そういうことにしてしまおう。

そっと視線を滑らせる。
見事な闇色の髪と瞳。
夜が女神なら、さぞ愛でることだろう、な。

軽い狼狽。
見なれたはずの髪と瞳に、何を考えているのだろう。

どこからか振りこぼれた小さな花びらが彼の髪に舞い落ちる。
つややかな黒髪にそっと乗った白さは夜目にも鮮やかでなぜかなまめかしい。
つと手をのばして花びらを払った。
彼が驚いたように私に目を向ける。

「花びらが髪に・・・。」
「・・・ああ。」
黒い瞳の奥がゆらりと揺らぐ。

だがそれも一瞬。すぐにいつもの眼差しに戻っていた。
穏やかな瞳の色は己が感情をくるみ込む。
まるで私が見たものが幻だったとでもいうように。

それをいいことに私は気付かぬ風を装う。
揺らぎの正体が何なのか、知っているくせに。

狡さは承知の上。
他にとるべき術を見出せない。

さりげなく視線を反らした。
「この辺りにこんな花をつける木はないと思ったが。」
口から出るのは他愛無い言葉。

「どこから飛んで来るんだろう。」
いつの間にか彼の手のひらにまた白い花びら。
「さあ。」
私も首をかしげる。

お互いに話の接ぎ穂を失って黙り込む。
居心地の悪い沈黙が場を支配した。

「身体を冷やすと毒だぞ。さ、戻ろう。」
沈黙を無理矢理押しやるような暖かな声。

ふわ。
私の肩にかけられた彼の上着。
ごく当たり前だというような、さりげない動作。

目が優しく私を促す。
それにつられて歩き出した。

彼と私の距離。
手を伸ばしても触れない距離。
でも一歩踏み込めば届く距離。

彼が想いを露にした時から存在する隔たり。
この隔たりに感じるのは、もどかしさか、安堵か。
自分に問いかけようとして、やめた。

白い花びらが目の前ではらりと舞う。
一枚、また一枚。

穏やかな春の宵。
でもまだ肌に感じる風は冷たい。

寄り添えばもっと暖かい。
分かっているのに。

fin