『ラグナロック』


 極北の果てにアイスランドと呼ばれる国がある。
 その国の人々の信ずる神に一人の女神があった。美しい金髪に碧眼の女神。愛の神、美の神。そして戦と死を
司る神。その女神の名をフライヤという。鷹の羽衣を身に纏い、戦場を駆け抜ける女神。彼女の美しさは命を狩
るその瞬間に最も光り輝いたという。
『君はフライヤのようだね。戦場を駆け巡るヴァルキュリアの長』
 彼の、フェルゼン伯の故郷の伝説を聞きたいとねだったのはオスカルだった。北の果て、明けない夜と暮れ
ない昼が存在するという北国。そこではどのような物語が語られているのだろうか。好奇心、それとも……。
『彼女は神々の王の正妃ではなかったが、その地位は並み居る女神達の中で最も高かったという。彼女はまた
愛情深く、その夫を失ったとき鷹の羽衣を身に纏って泣きながら夫の姿を求めて世界中を彷徨ったという。そ
のとき彼女が流した涙が赤い黄金となって世界中に散っていったのだと伝説では語られている』

 ふっと意識が戻った。夢を見ていたのだ。随分と昔の夢だった。まだ子供だった頃の夢だ。未知な場所に対する
憧れが強く、生きるということが全てにおいて喜びだった日々の夢だった。あれからなんと長い時間が過ぎ去っ
たのだろう。ぼんやりと辺りの闇に瞳を凝らす。彼女の傍らには冷たくなった夫の体があった。もし世界中を探し
して彼の魂を見つけ出すことができるのならば、自分もあの女神フライヤと同じことをするだろう。血の涙を
流しても、背中の翼が圧し折れても、彼を捜しつづけるだろう。捜さずにはいられないだろう。
「あなたはどこへ行ってしまったのだろうか」
 答える言葉はない。
 ふらりと彼女は立ち上がった。捜さなくてはいけない。彼もきっと自分のことを捜しているはずなのだから。
彼の心を見つけ出して、そして、最初からやり直すのだ。もつれた糸を解いて、何もないただの男と女として
やり直したい。どこか現実感を失った心がそう命じる。まだ間に合う、まだ遅くない。そう囁く。そう心の奥か
叫びをあげる女が存在する。その声音に導かれてふらりとオスカルは暗く閉ざされた教会をあとにした。
 深い呑みこまれそうな闇がそこに在った。自分がどこにいて、どこへ向おうとしているのかわからない。彼女
の心の中にあるのは、失ってしまった大切なものを取り戻したいという強い想いだけだった。
 教会の中で眠っているのはただの抜け殻に過ぎないのだから、彼の心を見つけ出さなければならないのだ。
間に合う。そう、彼がただ独り逝ってしまうことなどありはしないのだから。
「大丈夫、まだ遅くなんてない」
 誰に言うでもなく呟く声音が低く響いた。自分自身に呟く言葉。血を流しつづける心を誤魔化すための言葉。
まるで世界中が凍り付いてしまったようだ。己の腕で抱きしめる自分の体は冷たく、瞳は何も映し出さない。
早く、彼の心を見つけ出さなければ、早く、彼を見出さなければ、世界が壊れる。彼女の信じ、歩み続けてき
た世界が崩壊してしまう。足元から全てが崩れ去る。
「どこに居るの、あなたはどこへ行ってしまったの」
 捜して、捜しても見つからない。どうして、何故、遅すぎたというのだろうか。その報いを受けなくては
ならないのだろうか。嘆きの言葉を口にすること以外、もう許されないというのだろうか。
『我の長き眠りを覚ましたのは汝か。大いなる神々の運命の果て、眠りつづけた我を呼び覚ますは汝か』
 鈴を鳴らすような甘美な声が耳に響いた。ふと瞳を上げる。そこにあるのは銀の甲冑に身を包んだ一人の女
神。透き通るような白い肌、華奢で繊細な体つき。しかし隙のない身のこなしは戦場を駆け抜けたものだけが
もつ雰囲気を感じさせる。それは彼女の知るどんな女神の姿とは違っていた。
『汝の嘆き悲しむ声が我には聞こえた。愛しきものを捜し求める魂の慟哭する声が我には聞こえる』
 甲冑を身につけた女は寂しげに微笑むと、オスカルの瞳を静かに覗き込んだ。深い深海の底のような碧玉が
彼女の心を覗き込んでいるようだった。
『そなたが嘆き悲しむは愛しき者を失ったが故か。嘗ての我のようにそなたも愛しき者を捜し求めてさまよう
のか』
 羽根の着いた兜から癖一つない艶やかな金の髪が流れ落ちる。その碧眼は痛ましげにオスカルの姿を見つめ
ていた。その手に持つは見たこともない文字が柄に描かれた一振りの槍。
『だが死んでいったものの魂は決して戻らぬ。世界中を捜し求めても決して見出すことはできぬ』
「そんなはずはない。彼は私の傍にいると誓ってくれた、彼の誓いが破られることなどない!」
 叫ぶ声の何処かでそれを否定する声が響いた。生きていればこそ、生きて血の通った人間であればこそ、誓
いは護られる。彼は、アンドレはもうその誓いを護ることはできない。冷たい体、物言わぬ唇。決して開かれる
ことのない彼の瞳。彼は失われてしまった。そう理性は彼女に告げる。彼は二度と戻らない。しかし心は血の叫
びを上げるようにそのことを強く、強く否定する。
『護りたくても護れぬときもある。共に生きることを誓っていても、それが適わぬときもあるのだ。我もそう
であった』
「そんなはずはない。そんなことがあるはずはない!」
 子供のように泣き叫びながらオスカルは叫んだ。そうだ、そんなはずはない。今、自分が生きて呼吸をして
いるのは、彼がまだ生きているからだ。彼がいない世界などありえるはずがない。彼がいて己が居る、それが
オスカルにとっての世界だったのだ。だから、彼が消えてしまうことはありえない。あるはずなどない。
『我もそうだった。我が夫を失って今だ命あるを、何故にと運命の女神達を呪った。だが、我が在るというこ
とは確かに意味のあることなのだと知ったのだ。幼きものよ。我は生き延びた。長い長い時の中を、こうして我
は存在してきた。今や我を信ずるものはなく、我が一族もことごとく滅び去った。それでも我はこうして存在し
ている』
 彼女の心を読み取ったように柔らかく甲冑を身につけた女は微笑むとそう静かに呟いた。
「あなたは一体……」
『我はあるものには美の女神と呼ばれ、あるものには守護女神と呼ばれ、またあるもの達は我に対して畏敬
の念を込めてこう呼んだ。ヴァルキュリアの長、死を操る神フライヤと』
「フライヤ」
 極北の神。愛と美と、死と戦を司る女神。今はもう信ずるものすら存在しないであろう女神。
『強き魂を持つものよ。汝の闘いの果てに、汝は最も愛しき者を得ることができるであろう』
「貴女はどうして、ここへ」
『さぁ、何故であろうか。汝の魂が我に近しいものであったからであろうか。戦乙女よ、汝は闘いの中で生き、
闘いの中でその命果てるであろう。それ以上のことは我にもわからぬ。運命の女神の紡ぐ糸は誰にも読み取る
ことはできぬのことなのだから。我に知ることができるのは戦場でのことばかりだ。汝はその場所で汝の一対
たるものと再び一つとなるであろう』
「再び一つに」
 その言葉にフライヤは微かに頷いた。
『戦乙女よ、汝の戦場へと急ぐが良い。汝の求めるものを得るために』
 華奢な腕がオスカルの体をふわりと抱きしめた。冷たいはずの甲冑も今の彼女には暖かく感じらた。その抱き
しめる腕の中から、伝わってくる体温の中から、嘆き悲しみ苦しいまでの思いで愛するものの姿を求める叫び
が聞こえてくる。そこには同じように愛するものを失った女が存在した。
『我と近しい魂を持つ者よ、汝に幸運を与えよう。汝が汝の生に最も相応しき死を迎えることを、我は汝に誓
おう。どんな英雄も得ることのなかった死を我は汝に与えよう、戦乙女よ。そして必ずや汝の愛しき者との再会
約束しよう』
「私は再び彼と巡り会うことが許されるのだろうか」
 彼女の言葉に女神は微笑んだ。それは優しく暖かな笑みだった。
『愛は許しを必要とはしない。汝の魂と汝の愛しきものの魂が呼び合う声音が愛と呼ばれるものなのだよ。その
声を聴くものだけが愛を知り、生きてゆくことを許されるのだ』
「私は彼の声を長く聴くことができなかった。それでも、私は彼と再び会うことができるのだろうか」
 涸れたはずの涙が再び瞳から溢れ、零れ落ちる。フライヤはその涙を白く細い指先で拭った。その瞬間、涙が
赤く輝く黄金となった。
『幼き者よ、愛の長さを問うてなんとする。汝は愛しきものの魂の叫ぶを聴いた。それが愛でなくてなんであろ
う。さぁ、お行き。汝の戦場が待っている。そこで汝は己自身の大いなる運命を知ることになる』
 声音は凄烈なまでに響き渡り、彼女の全身へ染み込んでいった。
 その言葉を最後にオスカルは自分があの教会に居ることに気がついた。傍らには物言わぬ夫が眠っていた。
もうじき夜が明けるのだろうか。窓の外から薄く光が射し込んでいる。
「夢、だったのだろうか」
 ゆっくりと立ち上がり、オスカルは自分の足元にあるものを見つけた。それはこんな場所にはあるはずの
ないものだった。拾い上げ、愕然とする。それは数粒の黄金だった。
「フライヤ、貴女も私と同じような朝を迎えたことがあるのだろうか」
 彼女の言葉が蘇る、生きて在るということには意味があるのだということを。そう神である彼女自身が言っ
いた運命の糸を読み取ることは誰にもできないのだと、そして神の定める運命には必ず意味があるのだとい
うことを。あの瞬間、彼と共に逝くことのできなかった我が身にはまだやり遂げなくてはならないことがある
のだろう。そう信じよう。愛しき半身を失った自分にも為すべきことが確かにあるのだと信じよう。オスカルは
黄金の粒を強く握り締めた。それは彼女の悲しみの結晶でありアンドレを想う心の欠片。愛し合ったという確か
な形。
「新しい一日が始まる。私が初めて一人で立たなければならない一日が」
 そっとオスカルは瞳を閉じた。静かだった。彼女を待ち受けているものが何であるのかはわからない。だが、
立ち止まることを選ぶことはもうできなかった。それに戦の神が約束してくれたではないか、最も相応しい死
に場所を与えてくれるということを。自分の人生を決して後悔しない。そんな死に場所を彼女は与えてくれると
誓ってくれた。それを信じよう。今まで生きて、自分の手で築き上げたもの、その全てを後悔したくない。後悔
することは自分を護り、死んでいったアンドレの人生を否定することになってしまう。そんなことはできない。
したくない。彼女は彼女の心が命ずるままに人生を終えるのだろう。それことが彼の願いであり、彼の願いは彼
女の願いでもあった。彼女は拾い上げた黄金の粒をそっとアンドレの手へと握らせた。そしてその手へと唇を微
かに押し当てた。
「私は行くよ、アンドレ。私の人生を私らしく生きるために。それが貴方の最も望むことだと信じているから」
 ゆっくりと彼女は立ち上がり、歩き始めた。彼女自身の大いなる運命に向って。
 大いなる運命、アイスランド語ではこの言葉を『ラグナロック』と云う。       fin