−神の槍−ラグナロック前哨

 


 鳩が飛んでいた。まるで彼を誘うように。白い羽根が蒼天を切り裂いてゆく。
これまで見たこともないような美しい空だった。光を失うまでの時が砂のように流れていく。
この空の色を見つめていられるのはいつまでなのだろうか。アンドレは思う。光を失うと知った
とき、何よりも恐怖したのは愛した人の姿を見つめることができなくなることだった。
光を失うということの意味を幾度も考えた。自分にとって光とは何なのだろう。
両手を日に翳してその暖かさに安堵しながら、見えなくなることと日の光が放つ温もりを失うことは同じことなのだろうかと考えた。
そしてオスカルの姿を見えなくなってしまうということと、彼女の命の温もりを感じなくなってしまうことは同じなのだろうか、それとも両者を天秤にかけて選び取るということなのだろうか、と埒もないことを考えた。
勿論、そのどちらかを選ばなくてはならないのならば彼の導き出す答えは自ずと決まっていたが……。
 その瞬間、天空を自由に飛びまわっていた鳩が彼の肩へと舞い降りた。
「なんだ、お前。随分と人に馴れているんだな」
 不思議な気持でその白い翼を見つめる。
その時、一人の少女が必死の表情で彼に向かって走ってきた。
貴族の娘にしては簡素なドレスを身に纏い、柔らかな淡い光を放つ癖一つない髪は結い上げてもいない。ビスクドールのように整った顔立ちには愛らしさと気の強さが同時に存在している。
まるで幼い頃のオスカルのようだとアンドレは思った。
「アースゲイル!」
 少女が手を差し伸べると、鳩は抗うことなく、彼女の胸の中にしっかりと抱きしめられた。
「お嬢様の鳩でございましたか?」
 優しい声音で囁きかけると、少女は満面の笑みで微笑んだ。
「すまぬ。こやつは自由に飛び回っていても我から離れることなどないのだが、己を呼びかける強い声に飛び出してゆかずにはいられなかったようだ」
「鳥かごに入れてらっしゃらないのですか?」
彼の言葉に少女は表情を堅く強張らせた。氷のような冷たい瞳にアンドレは、一瞬、たじろいだ。
「アースゲイルは我の翼だ、閉じ込めたりなどはしない。翼は常に自由でなくてはならない。
人であれ、神であれ。天を舞う翼を失ったときにあらゆるものの魂は死んでしまう。
そして死んでしまった魂には愛するものの呼びかける声音は永久に聴こえない。
愛するものの声音を聴くことのできぬものは愛されることすら知らずして魂が滅びてゆく。
そういったものがこの世界には多く存在している、それがなんと哀れな存在であることを汝は知っておるのか!」
 思いがけないほど大人びた言葉が返る。
その声すらも少女から一転して成熟した女性の者と変わる。強い光がアンドレの瞳を打つ。少女の姿が消える。白い光に少女だった者の黒い影だけがアンドレの瞳に映った。それは女神の姿だった。強い威厳が彼女の全身に満ちていた。それは王者の威厳、神の威厳だった。脆弱に庇護されて美を愛でられるだけの女神などではなく、人間に畏敬されていた古い時代の女神のようだとアンドレは強く思った。
「見よ!」
 すいと白い腕が指し伸ばされる。そこに見出だすことができるのは祖国フランス。
「戦が始まる。多くのものが命を落とすだろう。これまでに流されたことがないほどの血潮が流れてゆくのが我には見える。
汝はその中で命を落とすであろう。己の魂よりも、汝が信ずる神よりも、このかけがえない世界よりも愛しいものの代わりにその命を失うであろう。
我が眠りを揺り動かすほどに強い想い持つものよ。我が翼が受け入れしものよ。汝は我が翼に気に入られたようじゃ、ならば汝の願いをかなえねばなるまい。
汝は我に何を望もうぞ。長い、長い間、我はアースゲイルに気に入られるような強い愛情を持った汝のような魂を持つものと出会ったことはなかった」
 言葉が遠くに聞こえていた。
 いつの頃からか彼の耳にも始まりの弔鐘が聴こえていた。全てのものが嘆き悲しむ声音。
この美しい国に嘆きの叫びが満ちたのはいつだったのだろう。
動き出してしまった時代を止める術など誰も持たない。巨大に膨らんだ人々の呪詛が弾けていこうとしている。
そして、その中でたくさんの血が流されていくというのか。それを告げる美しい女神の完璧なまでに整った顔は感情一つないままに、静謐ともいえる瞳で眼下に広がる大地を見つめていた。
そんな神に彼は死を告げられた。
 こんな瞬間が来る時を知っていたような気がしていた。だが、血の海の中で溺れるのが自分ならばそれでいい。
愛するものの死を見たくないということは、愛されているものにとってはとてつもなくわがままで自分勝手な行動なのかもしれないことなのだろうが、それでも自分は愛しているものの死を見たくない。
そして、その願いが叶えられるというのならば、それ以上の至福があるとアンドレには思えなかった。
ならば、自分の望むことは……。
「それが許されるなら、俺の死に俺の愛するものが耐えることができるように、彼女が俺なしでも立ち上がることができるようにして欲しい」
 まるで予測していたように彼女は儚く泣き出しそうな表情で彼の言葉を受け止めていた。
その泣き笑いのような複雑な表情に子供の頃泣き出すことを必死に耐えて笑みを浮かべていたオスカルの顔、傷ついていながら決してその心根を表面に出さず微笑んでいた初恋の痛みに耐えていた頃のオスカルの顔、その二つの表情を泣き出しそうな女神の微笑にアンドレは複雑な気持ちでそんなことを思い起こしていた。
きっと自分以外は誰も知らないオスカルの顔。だから願う。
誰よりも傷つきやすい心を持っている優しい彼女が、自分の死で傷つくことなどないようのに、自分の人生をしっかりと立ち上がって生き続けてくれることを。
「我は汝の願いを叶えることを誓約しよう。そして死して後は汝の魂を我が預かろう。
汝の愛するものが汝の元へと参るその瞬間まで汝は傷ついた体の痛みを感ずることなく、愛しきものの腕に抱かれる夢を見ていられるように」
 彼女の腕の中で白い鳩が少しずつ形を変えてゆく。
白い華奢な翼が茶褐色の力強い物へと変わってゆく。
それは彼が今まで見たこともない見事な鷹だった。そして彼女ももう貴族の息女の姿などはしていなかった。
銀色に輝いた甲冑に身を包み、その手に持つのは一振りの槍。羽根のついた兜からは豊かな金色の髪が背中へと流れている。
その瞳は蒼天を切り取ったようだった。オスカルの美が炎ならば彼女の美は凍てついた氷のようだった。身に着けた銀の戦装束が氷のような冴え渡る冷たい光を放っていた。
「鷹……、あの小鳩のアースゲイルが」
「アースゲイルとは『神の槍』を意味する。我の大切な翼だ。
我はこの『神の槍』で世界中を巡ってきた。アースゲイルと共に我は多くの争いを見つめ、多くの愛情の儚さを見つめ続けてきた。
だが、この長い年月の中で汝のように我とアースゲイルの眠りを揺り動かすほど強い愛情を示したものは、我が一族がことごとく滅び去った後では初めてだった。
そしてアースゲイルが我の元を離れ、汝の元へと自ら死を告げに参ったのも」
「貴女は死の神なのですか?」
 不思議と動揺は感じなかった。いつかオスカルよりも先に逝く、心の中で幾度も誓ったことだ。
そして彼女は言ってくれた、自分はオスカルのために死ぬのだと。だから十分だと思っていた。
「そうだ。我は死と戦を司る。我を見たものには死が訪れる」
 アンドレは静かに瞳を閉じた。彼女よりも先に逝くことを望んでいた、それは事実だ。
彼女が一人で立つことができるようにも願った。それも事実だ。
しかし、この心の奥にどうしても叶えたい望みがもう一つだけある。
「俺が命を失った後、俺は貴女の腕の中で幸福な夢を見ると言われた。だが、俺は傷ついた体の痛みを感じることは厭わない。貴女がアースゲイルの主であり俺の魂が貴女の手に委ねられるのならば、俺にアースゲイルと共にオスカルを見つめていることを許して欲しい。
貴女の腕の中で幸福な夢を見ることよりも、俺は最後まで彼女の痛みも悲しみも見つめていたい」
 女神は静かに瞳を閉じた。そして彼女はこれまで彼が聞いたこともないような美しい声で穏やかに語り始めた。それはまるで心を優しい柔らかな手で撫でられているような声だった。
「驚いたものだ。汝は我が愛の神であることを知らずして、そのようなことを望んでくる。貪欲に愛されることばかりを望む人間ばかりが溢れるこの世界で、汝は愛するものの行く末のみを案ずるのだね。アースゲルズが聴いたのはそんな汝の声音であったのか。汝にはわかるのだろう、真に愛し合っているものは互いを呼ぶ声を聴き、そして同じ瞳で同じ世界を見つめてゆくことを」
 それを愛と呼ぶのならば、そうなのかもしれないとアンドレは思った。
 甲冑に身を包んだ女性は言葉を繋ぐ。軍神の姿のまま、それでも愛の神の慈悲に溢れた瞳で命を無くすと宣言した青年に向かって語りかける。
「それは汝らが同じ魂を持つが故だ、ともに持つ心の形が同じだからだ。それ故に真に愛するもの同志は全身全霊で引き合うのだ。我も汝のようなものに久々ぶりに出会った。望みを叶えよう。アースゲイルもそれを望んでいる。汝は傷ついた翼を休めることなく、汝の愛するものの傍らに存在しつづけるであろう。汝の愛するものをその腕に再び抱くその瞬間まで」
 気がつくと女神の鷹は白い小鳩に変化して、アンドレの肩で羽根を休めていた。
「御覧、やがてこの国は紅蓮の炎に包まれていくだろう。運命の女神が紡いだ糸を断ち切るものも、読み取れるものもこの世界にはいない。そのなかで幾人の人間が同じ魂のものとめぐり合い、そのもののためだけに生きて死んでゆくことができるのか。ともに死ぬためでなく、ともに生きてゆくためでもない。ただ相手を愛するが故にだ。魂の呼びかけに答えゆく愛を見出すことができるものが幾人いるのだろうか。願わくば汝等以外にもそのような声音を持つものがあることを我は願いたい」
 こんなに単純で簡単なことを人は長い年月の間に忘れてしまったと、女神は微かに笑って見せた。
そして、アンドレの肩に羽根を休める小鳩に柔らかな言葉を掛けた。
「アースゲルズ、我が『神の槍』よ。最後の瞬間まで彼の生き様を見守ってやるがよい。千年という汝と我のの長き眠りを覚ました彼と彼の愛するものの強き魂の呼び合う声音を、その真実を見つめておいで」
 小鳩は白いたおやかな指に小さな頭をこすりつけた。
アンドレは不思議な感慨に囚われながらその風景に見入っていた。
そして、彼女の瞳はアンドレのたった一つの瞳を深く染み入るようにして見つめ返していた。
そこに在ったのは痛みと哀しみだった。
「我はゆく。我はこれ以上の力を持たぬ。だがアースゲイルが我との誓いを果たしてくれよう」
 軽く腕を振ると彼女は身に纏った長衣を翻した。
光輪が彼女の姿を包み、幻のように消えてゆく。
「名前を!」
 アンドレは叫んだ。
「我が名はフライヤ! 忘れるな、死に逝くものよ。
汝に渡したこの『神の槍』約束の時が過ぎしときに必ず我の手に戻すことを!」
 声音は幾重にも響いて消えた。
「アースゲイル、神の槍か」
 アンドレは静かに呟いた。『神の槍』と『神と剣』、両手に抱え込んだものは彼にとっては確かに神に授かったものだった。
一つは愛の神に預けられし翼。そして、もう一つは神から与えられた何よりも尊いもの。
彼にとって初めて会ったその日から彼女の存在はは永遠で恒久、宇宙の全てだった。
そして心の通じた今、彼にとって輝く愛で、死を告げられたそれは彼にとっては微笑みかける甘美な死なのかもしれない。
今までの人生で死に行くことを幾度か考えた、しかし、今日のように静かに受け入れたのは初めてだった。
生きるということと死ぬということ、愛することは一つなのかもしれない。
ならば、自分は死だけを受け取り残った全てを彼女に託していこう。そう思う。
そうだ、たとえ彼が死に逝くとしても彼女の存在がある限り彼は永遠の存在でいることができる。彼は微笑んだ。それは確信とも云える思いだった。
『たとえ時間が僅かしか残されていないのだとしても、ともに生きようオスカル。最後の瞬間まで』
 遠くからオスカルが彼を呼ぶ声が聞こえていた。7月11日の夕暮れのことだった。
                                             

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