☆ 朝 ☆


     T

       夜が明けてきた。先程までわずかな月明かりの中に眠っていた部屋の調度品の数々
      が少しずつ静かに目覚め、テーブルや長椅子がひっそりと息づき始めた。天蓋の揺ら
      めくベットに横たわったままアンドレはぼんやりとそれらの調度品を眺めていた。ここは
     オスカルの部屋。そして夜はやはり明けてきたのだ。アンドレは腕の中に眠るオスカルが
     目覚めぬよう身じろぎもせず、夜明けを迎えた。眠らなかったわけではない、しかし、眠っ
     たわけでもなかった。
      オスカルはアンドレの腕の中でしがみつくように小さく眠っている。眠りについてからもこ
     の腕だけは離そうとはしなかった。気高く孤高を誇るオスカルが身体を重ねるごと変貌し
     、ついには小さな物音に怯える野兎のようになって自分の腕の中で丸まっている。その身
     体も心も柔らかく溶けだしてしまいそうであった。こんなにも、こんなにも華奢で儚い人だっ
     たのか。荒くれ者の集まりで評判の衛兵隊をまとめ上げ、ブイエ将軍に刃向かい、ジェロ
     ーデルの前で勇ましく身体を張って民衆をかばった人とは思えなかった。幼い頃からよく
     知っているはずのオスカルではあったが。オスカルの寝顔は、昔、人の目を盗んで共寝
     したあの頃の面影を残していた。大人になってからも気を許しうたた寝するオスカルだっ
     たが、今日の寝顔はむしろあの幼い日を思い起こさせた。それは無邪気で安らかな寝顔
     だった。そしてその寝顔にアンドレは涙した。今朝ほどオスカルをいとしく思ったことはなか
     った。長い年月オスカルだけを想ってきた。望むまいと思いながらオスカルの心を求めて
     きた。そして、迎えた朝、アンドレの心をおおうものは、幸福感と胸が詰まるほどのオスカル
     へのいとしさだった。愛し合うことがこんなにもせつないものだったのか。

      夜も深まってから、オスカルは泣いた。それもオスカルらしく「泣いてもいいか?」と聞いて
     から。そして、静かにオスカルはそっと泣き始めた。闇の中にオスカルのすすり泣く声が漂っ
     た。それは、時には大きくしゃくり上げる声だったり、また小さな嗚咽であったり。泣けばいい
     、泣きたいのなら泣きたいだけ泣けばいい。気の高ぶりもあるだろう、一時の感傷もあるだ
     ろう。しかし、そんなことよりも結局オスカルが一番望んでいたのは、もとよりこうして心ゆく
     まで泣くことだったのかもしれない。気丈なオスカルはどんなに辛い時期でも、ひとりこの部
     屋で泣き明かすことさえ自分に許してはいなかったのだろう。
      男として育てられたオスカルは女の言葉を話せない。話せないだけでなく、そんな自分の
     女としての気持ちを表に出す術さえしらない。だから、今こうして20年以上自分の抑えてき
     た自分の一部を吐き出そうにも泣くしか術を知らないのだ。泣けばいい。長い年月に溜まっ
     たものはこの一晩で取り戻せるはずもなし、取り戻さなくてはならないものでもない。でも、
     泣いて気が済むのであるなら、泣けばいいとアンドレは思った。オスカルの泣き声は闇の
     中で途切れながらも長く続いた。そしてその声はアンドレの思いとは裏腹に彼を突き刺した。
     アンドレはオスカルを胸に抱きその細い背を撫でながらも自分がいかに無力であったかと
     いうことを嘆いた。いつもオスカルの側にいて誰よりもオスカルを想い理解していると自負し
     ていたはずだったが、自分はオスカルの何を支えてきたのだろうか。いったい何を見てきた
     のだ。オスカルが自分の知らないところで押し込めてきたものの数々をひとつひとつ並べ立
     て自分に突きつけてきたように思えた。それらがこの涙であるならそれら全てを受け止める
     ことが、泣かれることがつらくても今せめてオスカルにしてあげられることなのだ。

      オスカルは長いこと泣いていた。このまま夜が明けてしまうのではないかと思う程だった。
     そして、ようやく泣きやむと腕の中で戯れながらも眠りにつく様子はなかった。小さかった頃
     の事や初めて王宮にあがった頃の話、妹のようにかわいがったロザリーの話など金の鎖を
     たぐり寄せるように話しは尽きなかった。そんな時のオスカルは楽しそうで、夜中を気遣って
     か低く押し殺したように笑った。
     「少し眠ったほうがいい。」
     話の切れ目にアンドレは言った。
     「おまえは眠いのか。」
     「いいや。」
      眠ってしまうのが惜しいから次から次と語り出すオスカルの気持ちは百も承知だった。
     眠れば朝になる。朝になれば、動乱のパリが待っている。しかし、アンドレはオスカルの
     身体を気遣った。ただでさえこのところの混乱に不規則な勤務が続いている。
     まして、朝になればパリに行かなくてはならない。緊張が続くパリでは一瞬の判断の間違い
     が命とりにもなりかねない。今日この時が永遠に続いて欲しいという思いはオスカル以上に
     あるが、現実を考えると、とにかくオスカルに少しでも眠って身体を休めてもらうことが必要
     なことだった。
     「眠くはない。でもおまえ。パリに行く途中で、居眠りして馬上からころげ落ちたいか?
     パリの石畳は痛そうだ。」
     「それに第一おまえとおれが寝不足の張れた顔をして、おまけにおまえはあれほど泣いた
     から目も真っ赤にはれあがり目の下に隈ができた顔でアラン達の前に現れてみろ。ヤツは
     何と思う。衛兵隊のみんなはどう思う。まあ志気のあがらないのは確実だろうよ。」
     「でも眠ってしまったら朝になってしまう。」
     「そうだな。でもおれは眠るぞ。おまえ起きていたければ一人で暗闇の中起きていていれば
     いい。」
     オスカルを困らせるように言うとオスカルは不機嫌にアンドレをにらみつけ、それでもしぶ
     しぶ眠りに付こうかとすりよせた身体をアンドレが強く引き寄せ
     「こうしているから。眠った方がいい。眠れなかったら目を閉じるだけでも。」
     オスカルは四肢をアンドレに絡ませ、目を閉じ、思いの外早く小さな寝息を立て始めた。
      そうだ。夜が明ければ朝になり、朝になればパリに出動だ。そして、実際その夜はこうして
     明けた。今日、パリでオスカルが衛兵隊を率いてどう打って出るのか。
     その事についてアンドレは一言も尋ねなかったし、無論オスカルも語らなかった。とにかく
     平和な一日であるはずは決してないことは分かり切っている。


     U
 
      先程までの薄明かりの部屋に7月の光が遠慮がちに忍び込みあたりに朝の空気が漂い
     始めた。朝早く起きる使用人達の物音が聞こえてきた頃アンドレの腕の中でオスカルはそ
     っと目を開いた。
     「朝になった。」
     「うん、朝だ。」
     目覚めたオスカルは清らかな笑顔をしていた。あれほど泣いたのに目元も涼やかに白い
     肌は陶磁器のように艶やかだった。寝乱れた金髪が朝の光を受け輝いていた。オスカル
     はのびをするように身体をぐっと伸ばし、アンドレの唇を欲した。

      いつでも恋人達の朝のベットはけだるく甘い。特に長い年月を経て結ばれたオスカルと
     アンドレにとっては尚更のことであった。甘いなごりはなかなか二人をベットから解放させ
     てはくれない。そんなふたりを引き離したのは、静かなしかし確実にオスカルの部屋を目
     指す足音だった。耳ざといアンドレが先に気づき、
     「ん?誰か来る。」
     と言うなりすばやくベットから降り、あたりに脱ぎ散らかした服をつかむと間仕切りのカー
     テンの陰に滑り込んだ。オスカルはその早業に呆れながらもしぶしぶベットから出て薄物
     の夜着をはおった。
     「オスカルさま、お飲物をお持ちしました。」
     その声はいつもジャルジェ夫人の身の回りの手伝いをしているおとなしいルイーズという
     娘だった。オスカルが声をかけると彼女は遠慮がちに部屋に入り、テーブルに持ってきた
     飲み物を置き、そっとさがっていったようだった。というのも、オスカルも慣れない朝に気恥
     ずかしく、なるべく彼女の方を見まいと窓辺に佇み朝の外の景色を眺めていたからだった。
     足音が遠のき、全く聞こえなくなり、部屋は静寂に戻った。オスカルの気配すらも感じないこ
     とを不審に思いながらアンドレはカーテンの陰から姿を現した。オスカルは窓辺に立ち外を
     見ている。その視線の先には王宮があり、その上にはベルサイユの7月の空があった。
     オスカルはアンドレが近づくのも気づかないほど放心したように佇んでいた。その立ち姿は
     何とも頼りなく、心細げであった。
     「オスカル。」
     「オスカル、今から逃げることもできる。」
     そう、選択肢は王宮側につくか民衆側につくかの二つではない。三つ目の選択肢がある。
     アンドレはオスカルの後ろ姿にそれまで口にしたことのない事を言い放ってしまった。
     もしかしてと思いながら。オスカルはアンドレの言葉に打たれたように躰を揺らし、そして小
     さく首を振った。それからはっきりと
     「いいや、私は逃げない。」
     「オスカル」
     「私は逃げない。」
     アンドレが言葉をさがしている間にオスカルは重ねて言った。やはり、オスカルにはその
     選択肢はないのだ。そんなオスカルの細い肩に手をかけ、
     「オスカル、いつだって、いっしょだ。」
     と囁いた。ベルサイユの7月の空は青く晴れ渡り、今重苦しくフランスを覆っている様々な事
     とは全く無関係のように澄み切っていた。

     「ところで、オスカル。おまえはいつも朝からカフェ・オ・レを二杯飲むのか?」
     アンドレの言葉に振り返って見ると、テーブルの上には二人分のカフェ・オ・レが置かれて
     いた。その上どういうことかバラの花を溢れるばかりに生けた小さな華籠が添えてあった。
     「これはどういうことか。」
     いぶかるアンドレにオスカルは小首を傾げた。確かにカフェ・オ・レは飲むにしてもいつもは
     一人分だし、華籠もない。
     「これはお見通しってことかな。」
     「たぶん。」
     とオスカル。
     「これは、つまり警告ってことか。それにしても誰の差し金だろう。
     おばあちゃんだったらこんなしゃれたことはしないし。」
     「さあ、でもルイーズが持って来たということは母上と考えるのが普通だろう。」
     「うん。でももし警告だったらこの華籠はなんだ?」
     「さあ。」
     「いずれにしても冗談じゃないぞ。もしもだんな様の耳にでも入ったらおれは今日パリに行く
     前に刺し殺されてしまう。」
     「うん、考えられないこともない。」
     「そういう言い方はないだろう。」
     そう言うアンドレの目は意外なほど落ち着いて笑みさえ含んでいた。
     「そうだな。では、まずこのカフェ・オ・レを飲んでからにしよう。」
     とオスカルも声を立てて笑った。


     V

      衛兵隊の制服に着替え、アンドレは将軍の部屋の前に立った。先刻朝食が済み席を
     立ったジャルジェ将軍は壁際に立っていたアンドレに向かって
     「アンドレ、着替えて私の部屋へ。」
     一瞬全身に緊張が走ったが、アンドレはただ無表情に一礼しただけだった。
     「父上!アンドレに何用でしょうか!」
     衝撃が大きかったのはオスカルの方だったのかもしれない。見るとオスカルの顔には先程
     までの穏やかさは消え、鋭い刺すような目でこちらを睨んでいた。
     右手は腰にあるはずのない剣を探っていた。それは激昂したときのオスカルの癖だった。
     アンドレは後ろ手にオスカルをなだめようとした。
     「おまえはいい。部屋で待ちなさい。」
     将軍はオスカルを見まいとするかのように目をそむけ、そう言い放ち食堂から出て行った。
      アンドレには将軍の部屋の扉がいつもよりずっと頑丈で重厚に感じられた。
     背筋を伸ばし、高鳴る動悸をどうにか押さえ込んだ。オスカルの居るところでは落ち着いた
     態度をみせていたが、実際アンドレは動揺しなかったわけでは決してない。将軍の用といえ
     ばオスカルの事以外ないのだ。今はとにかく落ち着けと自分に言い聞かせひとつ深い息を
     吐いた。
     「アンドレか、入れ。」
     将軍は入り口に背を向け、窓辺に立ち、ベルサイユの空に視線を向けているようだった。
     先程のオスカルの後ろ姿をアンドレは思い出した。アンドレが進み出ても将軍は無言の
     ままだった。ながい沈黙が続き、アンドレは押し込めた動悸がまたもや首をもたげその上
     息苦しさも加わり、そんな自分を何とか落ち着かせるために全神経を使って待つ他なかっ
     た、将軍が口を開くまで。
     「アンドレ…」
     沈黙の果てに押し殺した声で将軍は言った。
     「オスカルを連れて逃げろ。」
     それは、アンドレにとって意外な唐突な言葉だった。まさか将軍から逃げろなどという言葉
     を聞くとは思わなかった。将軍は数日前自分に「オスカルの影になりそい続けろ」と仰った。
     しかし、その言葉の真意はどこまでだったのか。共に育った過去はあるにしても、貴族の
     姫君の臥所に忍び込んだ従僕の自分に課せられる罰は、良くて追放、悪ければこの場で
     刺し殺されるくらいの覚悟はつけてきたのだ。それをこの段になって不問にし尚かつ逃げろ
     とは。
     「オスカルを連れて逃げろ。」
     将軍はもう一度前よりはっきりとした声できっぱりと言い放った。
     「それは、ご命令ですか。だんな様。」
     驚きと緊張で声がかすれた。
     「命令?いや、…」
     と一旦口をつぐみかけ
     「わかるだろう、あいつが今日パリに行けば…。」
     と将軍は低く呟いた。アンドレは戸惑った。今朝オスカルの後ろ姿を見て、自分も一度は
     そのことを考えた。もしも、今朝になってオスカルが平和な女としての幸せを望む思いを
     持ったとしても、オスカルのことだ、自分から今日のパリ行きを降りるとは決して言わない
     だろう。
     それならば、自分の方から水を向けるのが俺の役目なのではないかと思ったのだ。
     しかし、オスカルの決意は変わらなかった。
     「ご命令とあらば、従います。しかし、しかし。オスカルは今朝のこの時でも今日の出動以外
     の道を考えてはいないようです。それでも良いのでしょうか。オスカルの意志を曲げて逃亡
     させることが許されるのでしょうか。」
     「おそらく説得しても納得はされないオスカルだと思います。となれば失神でもさせて連れ去
     るしかないのですが。あとで気づいたオスカルはどのように思うでしょうか。
     私には分かりません。」
     「そうだな。あいつの事だ。この期に至って逃げ出すような振る舞いはあいつの人生には認
     められないだろう。この先何が待っていようとも。そんな卑怯なまねができるはずはない。
     そう育てたのはこの私なのだから。」
     将軍はアンドレに背をむけたまま
     「いや、アンドレ。親というものは本当に気弱なものなのだ。この期に及んでもなんとか我が
     子をと思ってしまう。女々しいことだ。弱気な事を口にしてしまった。忘れてくれ。」
     そう将軍は言ってアンドレの方に身体を向け言葉を続けた。
     「だがな、アンドレ。もし、万一にも万一にもあいつがひるむようなそぶりをみせたら…」
     「お言葉をさえぎって申し訳ありません、だんな様。しかし、もし、万一にもオスカルがひるむ
     様子をみせたなら、その時はこのアンドレ、皆様がたのどんなそしりを受けようとも、オスカ
     ルを連れて国外にでも逃げます。私がオスカルを盗んだと言われようとも。私にとっては、
     おそれ多いことですが、王后陛下より、このフランスよりオスカルの命の方が大切なので
     ございます。万一ほんのわずかでも
     オスカルがひるんだら、その時は。」
     そうアンドレは言い切って将軍の前に頭を垂れた。
     「そうか…。」
     将軍は前に立つ黒髪の青年に視線を投げかけたままだった。

     「あなた。」
     その沈黙を破ったのは、知らぬ間に静かにタペストリーの前に佇んでいたジャルジェ夫人
     だった。
     アンドレも緊張のあまりいつ夫人がこの部屋に入ってきたのかさえ気付かなかった。
     「あなた。」
     夫人はその白い手に携えた何か小さな布の包みに視線を落としながらもう一度将軍に
     声をかけた。
     将軍は無言のまま夫人の呼びかけにゆっくり頷いた。
     「アンドレ。」
     夫人はそっとささやくような声で言った。
     「これをあの子に渡して下さい。」
     夫人の手の中には包みから取り出された小さなものが輝いていた。それは一個の指輪
     だった。
     「奥様、それは奥様から直接オスカルにお渡しくださった方が、オスカルも喜ぶと思うの
     ですが。」
     アンドレがそう答えると夫人はすぐさま
     「いいのです。いいのです。これはおまえの手からあの子に。いいわね、おまえがあの子
     の指にはめてあげてくださいね。必ずですよ。」
     夫人はそう言うといつもおだやかな方には珍しく強引にその指輪を包みごとアンドレの
     手に押しつけた。
     「それから、これは、おまえに。」
     夫人は指にもうひとつ指輪をつまみながら言った。それは、男ものの指輪で程良い大きさ
     の宝石が埋め込まれていた。アンドレは驚き、
     「いけません。奥様。そのようなものを戴くわけには参りません。
     私には分不相応でございます。」
     「いいのですよ。アンドレ。いいのです。さあこれは私がおまえの指にはめてあげましょう。」
     そう言うと、立ちつくしたアンドレの手をすばやくとりその指に指輪をつけてしまった。
     アンドレは呆気にとられ、
     「しかし、このようなもの高価なものは…」
     「いいのですよ。アンドレ、いいのです。」
     夫人はやさしく透き通るような声で言った。
     「あの子のあのような顔を私たちは今朝初めて見ました。そしてとても喜んでいるのです
     よ。あの子は家ではいつも穏やかにしてはいますけど、笑顔の裏になにかしら親には
     見せまいとしまい込んだ思いが
     あることを、やはり親ならば見えてしまうのですよ。でも、今朝の笑顔といったら。ああ
     この子でもこういう笑顔を見せることができたのかと。今朝のあの子は本当に華のように
     美しく、穏やかで幸せそうでした。
     あの子のあんな姿を見ることが出来るとは思ってもいませんでした。ねえあなた。」
     アンドレは夫人の言葉にもう一言も返せなかった。からだが硬直したように固くなり、声が
     出せなかった。
     「アンドレ、持って行きなさい。その指輪を。」
     「万が一の時の為にはその指輪も役に立つ。」
     そう低くしかしきっぱりと言ったのは将軍だった。万一と言う言葉にはっとしたアンドレに
     将軍は表情を和らげ、
     「さあ、もう行きなさい。オスカルが待っているだろう。あいつの事だ、これ以上待たせると、
     抜き身片手にこの部屋に飛び込んでくるに違いない。さあはやく。
     私達もあいつに刺し殺されるわけにはいかない。
     それにアンドレ、おまえが隠し持ったその短剣も無用だったようだな。」
     夫人と目配せした将軍は口元に笑みさえ浮かべていた。

      アンドレは将軍が見抜いた通り懐中に短剣を携えていた。将軍をいきなり斬りつける
     つもりは無論なかったのだが、もしオスカルのことで咎められ自分の命にかかわるので
     あるなら、彼はその短剣で身を守るつもりだった。それは、自分の命が惜しいわけでは
     なかった。身分を考えれば将軍に刺し殺されても仕方ない自分でもあった。しかし、彼は
     オスカルをひとりでパリに行かせるわけにはいかなかった。なんとしても例え将軍に
     手傷を負わせても自分はオスカルについてパリに行くのだ。
     あいつひとりでは行かせない。そのための短剣ではあったのだが、さすが、王宮を守るに
     名高い将軍だった。自分ごときのたくらみなど手にとるように分かるのだろう。
      将軍の前を辞してオスカルのもとに急ぐと、階段の上に剣を抜いてこそいないが、愛用の
     剣を片手に握りしめ恐ろしい形相でオスカルが立っていた。まだ、軍服も付けず、先程の
     控えめにフリルをあしらったブラウスのままだった。
     「オスカル。」
     アンドレが声をかけると燃えるような形相はさっと引き、剣を握りしめたままアンドレに駆け
     寄りアンドレの首に腕を回した。
     「心配した。」
     「それはそれは。」
     アンドレはオスカルを抱いたまま足早にオスカルの部屋に向かった。
     
     「で、何のようだったのだ。父上は。」
     無事なアンドレを見て気を静めたオスカルが改めて尋ねた。
     アンドレは将軍の話はせずに、夫人から託された
     指輪を取り出し、そっとオスカルの華奢な指にはめた。
     「奥様からだ、おまえに渡すようにと言われた。」
     オスカルはその自分の指にはめられた指輪を見た。
     それは、大ぶりではなかったがダイヤとサファイヤを品よくあしらった指輪でオスカルの
     白い手によく似合っていた。それから、椅子に腰掛け随分長いことオスカルはその
     指輪を眺めていた。そっと撫でてみたり、光にかざしてみたり、飽きることのないようで
     あった。ドレスを着ることのないオスカルではあったが、何かの折りに両親から譲り受けた
     宝石はかなりの数であった。無論身に付ける
     こともなく、それらの宝石は静かにオスカルの宝石箱に眠り、こうやって宝飾品を眺める
     姿もアンドレは見たことがなかった。オスカルはいつまでも指輪を眺め続けた。
     「おいおい、そんなに気に入ったのかい。」
     あまりのその長さにアンドレは呆れていた。
     「おまえにそういう趣味があったとは知らなかった。」
     「アンドレ、この指輪知っているか。」
     指輪から目をはなさずにオスカルは言った。
     「いいや、初めてみる指輪だな。奥様のものだったのかい。」
     「この指輪は代々に伝わる指輪でね。」
     「そうか。いわく付きってことか。」
     それからオスカルは少し言いにくそうに
     「これは、つまり。つまり花嫁に渡す指輪なんだ。そのお、朝にさ。花婿から。」
     驚いたのはアンドレだった。そうかそういう意味だったのか。だから奥様はお前の手でと
     仰ったのか。
     それにしても本当に全てお見通しというわけだったのか。
     あの華籠は奥様からの志だったに違いない。
     アンドレは、はっとして自分の指を見た。
     「それじゃあ、おれが戴いたこの指輪は?」
     オスカルは初めてアンドレの指に目を移し、声を立てて笑った。
     「それは、花婿の指輪。」
     そんな…。とアンドレは思った。この自分に。驚くアンドレをオスカルはおかしそうにくすくす
     と笑い続けた。
     そして、アンドレの首に手を回し彼にその身を預けながら耳元でささやいた。
     「私の夫。おまえの妻。」
     二人はながい間そのまま抱き合っていた。

 
     W

      遠くで馬のひずめの音が聞こえる。2騎、3騎。
     「衛兵隊のお迎えだ。オスカル、出掛ける用意をした方がよさそうだ。まだ軍服も着ていな
     いんだから。
     俺は外に出るから着替えたらどうだ。」
     「別にここにいてもかまわない。」
     オスカルはちょっとうつむいて言った。
     「はは、それはご遠慮いたいます。ご主人様。こんな時におまえの着替えなど見たら、
     衛兵隊の今日の出発は相当遅くなることを覚悟しなくてはならないに事態になる。
     俺は馬の用意をしてくる。それとも、
     ひとりで着替えはできないと?」
     アンドレはそう言ってオスカルの唇に唇を重ねその身を離した。ふんとすねた横顔の髪を
     そっとひとなでしてアンドレは部屋を出た。

      厩舎に急ぎながらアンドレは改めてこみ上げてくるものを抑えきれなかった。私の夫、
     おまえの妻。
     ジャルジェ将軍夫妻の暖かいはなむけは、アンドレにはひれ伏しても余りあるものだった。
     例え公ではないにしてもこうして自分のような身分のものにオスカルを託してくれた夫妻に
     感謝の涙が溢れてきた。また両親を持たないアンドレにとって肉親の暖かさをも知らされ
     た指輪だった。
      厩舎から戻り馬の用意も出来ているのにオスカルはなかなか降りて来なかった。
     迎えにはアランが来ていた。日は高くなる。アンドレがオスカルの部屋に迎えに行くと
     オスカルはすっかり仕度も整い軍服姿で椅子に腰掛けていた。
     「どうした?アランが待っているぞ。」
     悠長に構えているオスカルに声をかけると
     「おまえを待っていたのだ。」
     「おまえとこの部屋を出たい。」
     オスカルはそう言って、アンドレの胸に身を寄せた。
     「ひとりでこの部屋を出れば、私の育った懐かしい部屋、でも孤独の部屋。
     だけどおまえと出れば、おまえと過ごした二人の愛の部屋。」
     その一言でアンドレはオスカルの覚悟を知ってしまった。オスカルはもうこの部屋に
     戻らないつもりだ。
     アンドレは改めてオスカルを強く抱きしめた。軍服の下の知ってしまったオスカルの華奢な
     身体がいたわしかった。ながいキスをかわし、アンドレはオスカルの手を取った。
     オスカルはアンドレに促されながら自分の部屋を出た。ちらっと振り向いた部屋には
     朝の光が静かに差し込み甘いばらの香りが漂っていた。

     「たとえなにがおころうとも
     父上は私を卑怯者にはお育てにはならなかったと
     お信じくださってよろしゅうございます。」

      出動の挨拶の言葉をアンドレは将軍の部屋の入り口に控えて聞いていた。
     「アンドレ、行くぞ。」
     オスカルはそう言い切ると背筋を伸ばし大扉に向かって大股に歩き始めた。アンドレは
     1歩遅れて後ろに従った。それは、いつもの朝の光景だった。拳を固く握ったジャルジェ
     将軍と僅かに唇を震わせて佇む夫人、そして館に働く使用人達の切ない視線をのぞけば。
     途中オスカルは壁に高く掲げられた自らの肖像画にちらりと見たもののそのまままた
     真っ直ぐ前に視線を戻しあごを引いた。その姿は凛々しく力強く今朝ほどの
     あの頼りなげな儚い姿は影すらもなかった。
      数歩行ったのち、オスカルは少し歩みをゆるめ、顔を僅かばかりアンドレの方に傾げた。
     アンドレが急いで歩みより、
     「どうした?」
     と声をかけると、
     「アンドレ、私の顔は寝不足か。張れているか。目の下に隈ができている?」
     「なーに。心配することはない。きれいだよ、オスカル。今日のお前はとびっきりの美人
     だぜ。」
     アンドレは周囲にもれないように小声で言った。そしてさらに小声で
     「ベルサイユ一の華のかんばせだ。」
     とささやいた。
     「アンドレ、ばかなことを。」
     オスカルは白い頬をさっと薄桃色に染め、ふふふと微笑み館の玄関に降り立った。
     
      1789年7月13日晴れ。
     その朝ジャルジェ邸まで隊長を迎えに出たアラン・ド・ソワソンは館の扉から
     一歩踏み出したオスカルの表情に息を呑んだ。それは、今まで衛兵隊班長として垣間見て
     きた隊長の美しいが引き締まった表情とは全く異なっていた。豊かな金髪が輝き、その
     表情は華やいでいて、柔らかく穏やかな笑みがこぼれていた。そして匂い立つように
     この上なく美しかった。しかしながら、それはほんの一瞬のことですぐにいつもの固い
     隊長の表情に戻った。オスカルの斜め後ろにはやはりいつものようにアンドレが無表情
     に立っていた。「あれは見間違えだったのだろうか」アランはそうも思った
     のだが、その時のオスカルの花のような美しい表情をアランは終生忘れることはできな
     かった。


     FIN