『砂糖菓子』

  


「アラン、ちょっと手を出し給え。」
直立姿勢で憮然と自分の机の前に立つアランをちらりと見て持っていたペン
を走らせながらオスカルは言った。アランは一瞬何を命じられたのか困惑し
た様子ながらおずおずと右手を差し出した。それは大きく骨張った手だった。
オスカルはペンを置き、袖机の上に乗せてあった小箱から小さなものをつま
み上げアランの固く肉の盛り上がった手のひらに乗せ、また書類に目を落と
しペンを走らせた。オスカルの走らせるペンの音だけが殺風景な部屋に続い
た。

「なんですか?これは。」
それはほんの指の先ほどのもので丸く淡いピンク色をしていて、アランのご
つごつとした大きな手のひらにはどう見ても不似合いだった。

オスカルはアランを見るのも億劫なのか書類から目を離さず、
「ボンボンだ。」
とひとこと。
「えっ?」
「ボンボン。砂糖菓子だ。それでも食べて悪いがもう少し待ってくれ。もう
少しで仕上がるから。そうしたらこの書類を本部に提出してくれ。」

アランは呆然としてその手に乗る砂糖菓子を見つめた。それは触れたら崩れ
てしまうのではないかと思うほど華奢で、その花びらのような薄ピンクの色
はやさしい上品な色合いだった。
「嫌いか?」
アランがいつまでもそれを眺めているのを察したのかオスカルは、やはり目
を上げずに言った。
「いいえ。」

嫌いもなにもアランはボンボンというものをまだ食べたことがなかった。
子供のころ確かに砂糖菓子を食べたことはあったが、それはこんな色も形も
していなかった。それにこのごろはもう日常の食事さえ用意できないほど食
べ物が手に入りにくくなってしまい菓子どころではなかった。

「じゃあ、食べたらどうだ。」
アランは口に入れてしまうのがためらわれたが、オスカルの言葉に促され急
いで口の中に入れた。口の中に砂糖菓子の甘さとほのかな香料の香りが広が
った。



まったく。とアランは舌打ちしながら長い廊下を急いだ。俺は年下とはいえ
九つや十の子供じゃないんだぞ。菓子を貰って喜ぶ年に思うのか。そもそも
だ、我らが隊長はボンボンを頬張って書類にサインをしているのか。どこの
部隊にそんな上官がいるだろうか。ここは粉おしろいが舞うサロンじゃない
んだぞ。れっきとしたフランスの軍隊だ。それに何よりもこのフランス全体
が貧困であえいでいるというのにやはり大貴族達はあんな贅沢なものを食べ
ているのか。大貴族とはいい気なものだ。あいつは舌の上でボンボンをころ
がしながらフランスの貧困についての報告書を読んでいるのだ。

あいつは、あいつはボンボンを食べながら。荒々しく足音を立てながら急ぐ
アランの脳裏に先程の執務室で報告書に目を通しているオスカルの姿が浮か
んだ。あいつはボンボンを舌でころがしながら。しかしそれはアランの意に
反してあいにくあまり楽しげな隊長の姿ではなかった。

薄暗くほこりくさい部屋。そもそもオスカルの部屋は、王室に仕える近衛な
らば控えの間も王に近いだけあって行き届いたしつらえをした部屋だろうが、
ここは同じ王宮とはいえ王からは遠く片隅に押しやられた場所だ。
兵舎は煌びやかなベルサイユ宮とはおよそ似合わぬ荒くれどものたまり場な
のだ。無論あの豪華な重い衣装を纏った貴婦人達が通ることもない。優雅な
扇のそよぎもない。王宮の吹き溜まりとはよく言ったものだ。

そんな一角の陽当たりも悪いあの部屋で何だってあんな美人のあいつが窮屈
な軍服に身を包み、気が滅入るような面白くもない報告書に目を通しながら
ボンボンなんか食べているのだ。あいつは。あのほこり臭い部屋でぽつんと
一人でボンボンを食べながら。女の姿であったなら多くの侍女に囲まれかし
づかれ同じ貴族の娘達と優雅にボンボンを食べる身分だろうに。そう思うと
アランは自分が怒りのためにこう何度も舌打ちしているのか何なのか分から
なくなってきた。まあ、たかが砂糖菓子ひとつのことだが。



「オスカル。」
アランと入れ違いに入ってきたアンドレは、まだ、執務を続けていたオスカ
ルの書類に目を落としながら言った。
「今、アランとすれ違ったがどうかしたか?」
オスカルはペンを走らせる手を休めることなく、
「アランには本部に書類を持っていってもらったが。」
「あいつ、何か妙な顔していたぜ。何かあったのか?」

妙な顔といっても別に何もなかった。自分は書類を読みサインするのに忙し
かったので、彼ととりわけ話をしたわけでもない。彼が私を上官としてあま
り気に入っていないことは知っているが、特別彼が機嫌を損ねるような事を
した覚えもない。

「妙な顔ってどんな顔だ。」
「それが何というか、複雑な顔だったよ。」
「ふーん。別に何もなかったはずだが。」
オスカルは書き上げた書類を手にしたまま、まだ目を離さなかった。

「そうか。それならいいが。」
「随分待たせてしまって気の毒だったからボンボンを食べさせた。」
アンドレはちょうど近くにあった古椅子に腰掛けようとしていたところだっ
たが、オスカルのその言葉におろしかけた腰を上げてしまった。
「ボンボンを?」
「そう。ボンボン。」
オスカルの返事は上の空だった。

アンドレはこみ上げてくる笑いを抑え難く声をたてて笑い出してしまった。
そうか、ボンボンをね。あの男がどんな顔をしてそれを受け取ったのかと思
うと笑わずにはいられなかった。子供じゃあるまいし。それに彼はひねくれ
もので無愛想だし、オスカルの前では男として大見得を切っている男で、お
よそボンボンなどという可愛らしいものとは無縁の男だ。おまけに彼は自分
の知る限りでは大した酒飲みだ。オスカルにボンボンをもらってさぞかし困
惑したことだろう。

「なにがおかしい。」
あまりアンドレが笑うのでさすがにオスカルも呆れて書類を机の上に置いて
アンドレを見た。
「そうか、ボンボンが悪かったのか。こんな時代にボンボンなぞを食べてい
るのは不謹慎とまたアランの機嫌を損ねてしまったのか。パリの市民達は食
べるものにも事欠いている時代だ。無神経だったか。」
オスカルはアランの心情を考えると普段あまり彼の気持ちを逆撫でることは
あえてすまいとは思っていた。といってもとりたてて彼の機嫌をとろうとも
思ってはいなかったが。

「ああ、それもあるかもしれないが。それだけならあいつの事だ、怒り狂っ
ているはずだが。奴の顔は不機嫌ってわけでもなかったぜ。」
笑いをなんとか飲み込んでも目尻の笑いは隠せなかった。
「じゃあ、何だ?」
気の短い隊長殿は少々むきになって問うた。

「何って。アランがボンボンをねえ。それで彼はそれを食べたのかい?」
「そりゃ、食べただろうよ。別に口に入れるところまで眺めていたわけじゃ
ないが。でも何だって言うんだ。おまえだってボンボンくらい食べるじゃな
いか。そうだ。おまえもひとつどうだ。私が疲れた顔をしているからと今朝
母上が下さったのだ。手を出せ。」
そう言ってオスカルはアランにしたようにアンドレの手のひらにその白い細
い指でボンボンを一つ乗せた。

手のひらに乗ったその小さく丸い砂糖菓子を見てアンドレはまたアランの困
惑を思った。その小さな淡いピンクのボンボンの華奢な形、無垢な色合いは
そのままオスカルの秘めた人となりの一端を伝えているように思えたからだ。
オスカルがいつも軍服とともに封じ込めて表に表わすことのない姿を。



陽が西に傾き、風がふと止んだ。
2、3人の部下と共に王宮の前庭の巡視に出たアランは、門の手前の低い石
垣に寄りかかりぼんやりと門の外を眺めていた。いや眺めているように部下
達には見えただけのことだった。アランはあの昼間のオスカルから貰ったボ
ンボンのことを考えていた。

あの口の中に広がった香りと甘さをあれから何度思い出してしまったことか。
あの砂糖菓子はあまりにも華奢で、上品な色合い、いやみの無い香料、よく
吟味され押さえた甘い味だった。それを白い細い指で自分の手のひらにのせ
てくれた隊長。日頃隊長として厳しい態度、険しい表情ばかり見慣れていた
ので、突然出されたボンボンに俺は戸惑ってしまった。それはあの殺風景な
部屋、無言の隊長、直立姿勢の自分にはそぐわずあまりにも可憐だったから。

贅沢なことよと思いながらも、自分が心底からは怒れないでいるのは何故だ
ろう。もしかしたらあの砂糖菓子こそがまさしく隊長の見えなかった姿では
ないだろうか。俺の知らない隊長はあの砂糖菓子のように華奢で清楚な姿を
しているのではないだろうか。自分はどうしてあれをあんなに慌てて食べて
しまったのだろう。まったく。

つい今しがたそのボンボンの主はアンドレを従えこの門を通って行ったのだ。
「あとを頼むぞ。」
その主は敬礼する自分に馬上からそう言い残し、手綱を引き馬を促した。
行く手に向きをかえた時に揺れた溢れんばかりの金髪がさわさわと舞うよう
に乱れ、夕日を受けいっそう輝いて見えた。俺は敬礼しながらその見慣れて
いたはずの姿に目を奪われていた。そして他の隊員達が直立姿勢を崩したあ
とも俺はしばらくその後ろ姿を見続けてしまった。
「アラン。」
「もう帰ったよ。隊長は。」
だれかがそう声をかけるまで。


FIN