ある邂逅 T


 それはちょっとした冒険だったんだ。
 おばあちゃんが、いつも僕ら二人に言い聞かせる。お屋敷から少し離れたとこ
ろにある深い森。そこは恐ろしい魔物の住むところで、いたいけな子供をさらっ
ては大釜で煮て食べてしまうという。鬱蒼と茂る木々のために昼間でも薄暗く、
いったん足を踏み入れると大人でさえ生きて戻ってくるのは難しい。だから決し
て近づいちゃいけないんだと。

 ある日、遊び疲れた二人の間に沈黙の天使が通り過ぎた。その時、オスカルが
突然思いついたように言ったんだ。
 「アンドレ、明日はあの森に行ってみよう」
 事件はいつもこんなふうに、オスカルのちょっとした気まぐれから始まる。分
かっているはずなのに、キラキラと輝くオスカルの目を見ていると、僕はなぜだ
かすっかり嬉しくなってその気にさせられてしまう。

 僕らは朝食を食べるとすぐにお屋敷を抜け出した。おばあちゃんが言ったとお
り、その森は本当に薄暗くて、まだ昼前だと言うのにまるで夕闇の国に紛れこん
だみたいだ。何かの本に書いてあったのを思い出し、小枝を折って帰り道の目印
をつけながら歩く。まるで物語に出てくるナイトのよう。僕は勇敢なナイトで、
深い森に捕らわれたお姫様を魔法使いから救いだす。もちろんお姫様はオスカル
だ。だけどきっとオスカルはオスカルで、自分がナイトになったつもりでいるん
だ。だとしたら、オスカルの想像の中で僕は一体何の役なんだろう? ナイトの
忠実な従者、ナイトの無二の親友?

 歌を歌ったり、お喋りをしたり、僕らははりきって森の中を歩いた。でも歩い
ても歩いても目に入るのはさっきと同じ景色ばかり。恐ろしい魔物もいない代わ
りに、わくわくするような面白い場所もない。すっかり歩き疲れた僕たちは、来
た道を引き返すことにした。そろそろお腹も空いてきて、僕たちの正確な腹時計
がお昼が近いことを告げている。とびきり美味しいごちそうを思い浮かべて、僕
らの足は無意識のうちに早まっていた。なのにちゃんとつけてきたはずの目印が
、途中で見当たらなくなってしまった。気がついたとき、僕たちは薄暗い森の中
ですっかり迷子になっていた。

 僕たちは焦った。午餐までには帰らないと、こっそり屋敷を抜け出したことが
家の人にばれてしまう。午後からは家庭教師の先生もやってくる。屋敷がどっち
の方向かよく分からなかったけれど、僕たちはとにかく歩いた。そのときだった
。オスカルが木の根っこにつまずいて、派手に転んでしまったんだ。
 「オスカル、大丈夫?」
 僕はあわててそばに駆け寄った。オスカルは地面に座り込み、右手で左手を握
りしめたまま何も答えない。
 「どうしたの、見せて」
 オスカルが手をついたところに運悪く尖った石があって、オスカルの小さな手
の平に痛々しい傷口がばっくり口を開けていた。傷ついた手は泥だらけ。土の中
には悪い菌が潜んでいて、そいつが傷口から入ったら恐ろしい病気にかかってし
まうという。僕はこの間ジャンに教えてもらったことを思い出し、とっさに傷口
に唇を押し当てた。僕が怪我をしたときジャンがやってくれたように、血と一緒
に泥を吸い出し、何度も吐き出す。口の中に黴臭い泥の匂いと血の味が広がった

 「こうやって傷口をきれいにすると悪い菌が入らないんだ。この間ジャンが教
えてくれた」
 「うん……」
 オスカルは黙って僕のやることを見ていたが、その目には感嘆の色が浮かんで
いる。僕はちょっぴり得意だ。傷口の泥をきれいに落とし、襟飾りのリボンで傷
口を結んだ。
 「アンドレ、このリボン」
 オスカルが心配そうに言う。そう、この襟飾りはつい最近、おばあちゃんに作
ってもらったばかりのだ。考えまいとしても、おばあちゃんの怒った顔が目に浮
かぶ。でも、ええい、ままよ。本物のナイトはどんな犠牲だっていとわないもの
。おばあちゃんの雷なんてくそくらえだ。

 僕たちは再び歩き出した。だけど二人の足取りは重かった。足が痛い。お腹が
空いた。喉が乾いた。きっと今ごろお屋敷では、美味しそうな料理が湯気をたて
て僕らを待っている。僕たちはすっかり疲れ果て、それでも一生懸命歩き続けた
。オスカルの手にふと目をやると、傷口をしばったリボンに血が滲んでいる。
 「手は痛む?」
 僕は恐る恐る聞いてみる。オスカルはだまってコクリとうなずいた。
 「すごく痛む?」
 オスカルが首を横に振る。オスカルはすっかり疲れ果て、力のない潤んだ目を
していたけれど、それでも唇をきっと一文字に結んだまま決して泣き言を言わな
かった。いつだってそうだ。オスカルはどんな時でも、決してめそめそ泣いたり
はしない。いつだったか旦那様にこっぴどく叱られたとき、綺麗な青い瞳に涙を
にじませながら、それでもじっと歯をくいしばって涙をこらえていた。

 本当は僕の方が泣きたかった。だけど僕は男の子でオスカルより年上なのに、
泣いたりしたらかっこ悪いじゃないか。
 いつもおばあちゃんが僕に言う。大人になったら、オスカル様を護衛するのが
おまえの役目。だから心も体ももっと強く、賢くならなくちゃいけないと。僕は
オスカルの手をしっかりと握り、まっすぐに顔を上げて歩く。おばあちゃんが言
うように、早く大きくなって強くなるんだ。僕の手の中でしっとりと汗ばんでい
る柔らかくて温かくて小さな手。その温もりが僕に勇気を与えてくれる。

 さわさわという微かな音がどこからともなく聞こえてきた。水の音だ。僕らは
顔を見合せ、音の聞こえる方向に向かって懸命に歩いた。水の音はだんだん大き
くなり、やがて木々の間に小さな小川が現れた。分厚く生い茂った枝がそこだけ
ぽっかりとひらけて、真っ青な青空が見える。小川の澄んだ水は木漏れ日を受け
て、まるで宝石のようにきらきらと輝いている。砂漠でオアシスを見つけた旅人
は、きっとこんな気持ちなんだろうな。
 オスカルの手をきれいに洗い、川の冷たい水で喉をうるおす。水滴がいっぱい
ついたままの口許を手の甲でぬぐって、オスカルがにっこりと笑う。僕もなんだ
かうれしくなる。きれいに洗ったリボンでオスカルの手をしばり直し、もう一度
元気を出して二人は歩き始めた。この川に沿って歩いて行けば、きっと森から抜
け出せる。

 川に沿ってしばらく行くと、川岸から少し高くなったところに小さな小屋が建
っているのが見えた。
 「オスカル、ごらんよ。あんなところに家がある」
 僕たちは顔を見合わせた。それは家というより雨風を防ぐためだけに作られた
ような、本当にみすぼらしくて小さな小屋だった。地面に近い木の壁の表面は苔
むして、この小屋が辿ってきた年月の長さを思わせる。
 「声をかけてみる?」
 「ん…。だけど、こんなところに誰かいるのかな」
 僕はそのとき、森の中に秘密のアジトを持ち、旅人を襲うという恐ろしい盗賊
の物語を思い出した。オスカルもきっと同じことを考えていたんだろう。きれい
な眉根を寄せてじっと考え込んでいる。
 「行こう、アンドレ」
 オスカルは意を決したように、ゆっくり小屋に近づいた。僕も遅れじとそれに
続く。壁に穴を開けただけの小さな窓から、二人でそっと中を覗きこんだ。
 
 「うわああ……!」
 薄暗い小屋の中で怪しく光る二つの目が、すぐ間近から僕たちを睨みつけてい
た。僕たちは尻もちをつかんばかりに驚いて、思わず後ろに飛びのいた。
 「誰だね?」
 だけど小屋の中から聞こえてきた声は、意外なほど穏やかだった。僕たちが呆
然として突っ立ていると、木の軋む音がして粗末な扉がゆっくりと開いた。中か
ら一人のおじいさんが、足を引き摺りながら現れた。
 腰のあたりまで伸びた真っ白な髪。胸まで伸びた長いひげ。まるでおとぎ話に
出てくる魔法使いのおじいさんみたいだ。顔には深い皺が刻まれ、目はひどく落
ちくぼんでいる。だれどその目には優しさと、なぜだか分からないけれど、深い
深い悲しみが宿っているように僕には見えたんだ。
 僕はなんだか安心した。この人はきっと悪い人なんかじゃない。

 「僕たち、森の中で道に迷ってしまったんです。もしご存知なら…」
 だけど、おじいさんは僕の話なんて聞いちゃいなかった。おじいさんの目はオ
スカルに釘付けになっていた。
 「失礼ですが、あなたは?」
 「わたしはオスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ。彼は友人のアンドレ・グ
ランディエです」
 オスカルがおじいさんの目をまっすぐに見ながら、よく通る声で答える。おじ
いさんはそれを聞いたとたん、感に堪えないような声で言った。
 「おお、あなたがオスカルさま。お噂はかねがね伺っております」
 僕たちは再び顔を見合わせた。こんな森の中で、まるで世捨て人みたいに暮し
ているおじいさんがオスカルのことを知っているだなんて。それに、おじいさん
の口のきき方は、そこいらの商人や農民の出という感じじゃなかった。とても丁
寧で、僕がジェルジェ家に来て初めて教えられたようなきれいな言葉遣いだった
んだ。

 おじいさんの目がふとオスカルの手に止まった。
 「お怪我をされたのですか?」
 「ええ、さっき森の中で転びました。でもたいしたことはありません」
 「森の中で? それはいけない。手をこちらへ……いい薬草がありますから、
消毒をしておきましょう。さ、こちらへ」
 おじいさんは僕の方を見ながら優しく言った。
 「君はオスカルさまのお付きの人かな? オスカルさまはご友人とおっしゃっ
たが」
 「はい。僕はオスカル……オスカルさまの乳母の孫で、オスカルさまの護衛の
者です」
 オスカルは僕たちの方をちらりと見たけれど、何も言わなかった。オスカルは
誰かに僕を紹介するとき、いつも決まって自分の友人だと言う。僕が「さま」付
けで呼ぶこともとてもいやがるのだけど、この不思議なおじいさんには、なぜか
それを当然のことと思わせるような雰囲気があった。
 「おやおや、それは頼もしいことだね。では少し手伝ってくれるかな? ごら
んの通りわたしは足が悪いものでね」

 薄暗い小屋の中には、わらを敷きつめた粗末な寝床と、小さな木の椅子とテー
ブルと、何かの薬が入った器をならべた棚があるだけだった。テーブルの上には
ふちの欠けたコップとパンの切れ端がころがっている。暖炉も何もないこの小さ
な小屋の中で、おじいさんはどうやって冬を過ごすんだろう。
 おじいさんはオスカルの手当てをしながら、懐かしそうにオスカルに尋ねた。
 「レニエさまと奥さまはお元気でいらっしゃいますか?」
 「あなたはわたしの両親をご存知なのですか?」 
 オスカルが目を輝かせてうれしそうに聞く。
 「あなたがお生まれになるより前、少しの間ジャルジェ家にお世話になったこ
とがあります。ただの下働きですよ。短い間でしたが、レニエさまも奥様もそれ
はお優しい方でした。お二人に受けたご恩はいまでも忘れられません」
 おじいさんはジェルジェ家のことをいろいろとオスカルに尋ね、オスカルはそ
れにはきはきと答えていた。僕はおじいさんの話を聞きながら、その横顔をじっ
と見ていた。ただの下働きだって? だけど、おじいさんの上品で礼儀正しい態
度は、とてもただの下男だなんて思えない。
 そのとき、突然頭のなかでチカリと光るものがあって、僕は背中に悪寒が走る
のを感じた。その予感が確信じみたものになるにつれ、脇の下に冷や汗が流れ始
めた。しばらく前、屋敷の古参の使用人たちの間で話題になった人物がいた。夕
食後、僕が椅子に座ってうとうとしていたときだった。みんなは僕が眠りこんで
いると思っていたんだ。

 「そういえばこの間ね、ニコルが森を通りかかったときにセシャールさんを見
かけたと言っていたわ」
 「セシャールさんだって!?」
 「しっ。大きな声を出さないで。アンドレが起きちゃうわよ」
 「セシャールさんはまだあのあたりに……」
 「ええ、ずいぶん歳をとっていたけれど、確かにセシャールさんだろうって」
 「それで、ニコルは声をかけなかったの?」
 「ええ。遠くからちらりと見かけたらしいんだけど、なんだか浮世離れした雰
囲気で、声をかけられなかったって」
 「あのときは大変だったねえ……たしか、オスカルさまがお生まれになった直
後で。いい人だったのに、本当にお気の毒だった」
 「アンヌもな。気立てのいい女だったのになあ…。かわいそうに」
 「だけど、だんなさまも奥さまもいいことをなさったよ。なにせアンヌは神さ
まの教えに背いて……」
 そのとき、黙って僕の髪をなでていたおばあちゃんが、重くなりすぎたその場
の雰囲気を立ち切るように言った。
 「さあさあ、みんな。いつまでも無駄口を叩いてないで、片付けをしなくちゃ



 誰もが大っぴらに口にするのをはばかる名前。その名前がひどく気になって、
あとでこっそりジャンに尋ねた。ジャンはしばらく迷っていたけれど、誰にも言
うなと念を押しながら、ジャルジェ家で起きたある恐ろしい事件のことを話して
くれた。このおじいさんは、もしかすると……。

 そのとき、おじいさんが僕の方を見て言った。
 「で、君はばあやさんのお孫さんなんだね? マロン・グラッセさんはお元気
かな? ばあやさんにはとても親切にしてもらったよ」
 「おばあちゃんは元気です。……あの、あなたは、もしかして……もしかして
……セシャールさん?」
 穏やかだったおじいさんの表情が、一瞬にして凍りついたように険しくなった
。それを見た瞬間、僕は冷たい水を頭から浴びせ掛けられたような気がした。決
して聞いてはいけない一言を、僕は聞いてしまったんだ。自分の軽率さを悔やん
だけれど、いまさらどうすることもできない。オスカルは目をぱちくりさせなが
ら、僕ら二人の顔を見くらべている。
 「君はわたしのことを知っているのかね?」
 「少しだけ……。お屋敷の召使たちが話しているのを聞きました」
 そう答えるのが精一杯で、僕は泣きそうになりながら思わず顔を伏せた。 
 「わたしの犯した愚かしい罪のことも?」
 僕は頷いた。
 「ごめんなさい。僕……余計なことを聞いてしまって……」
 だれにでも触れられたくない過去や心の傷がある。他人を思いやる心を持たな
きゃいけないと、いつもおばあちゃんに言われていたのに。
 「オスカルさまはこのことを?」 
 僕はだまって首を横に振った。
 「顔を上げなさい、アンドレ。気にすることはないよ……。どうやら君は気持
ちの優しい子らしいね。それはとても大切なことだ」

 「あの」
 声をかけるのを躊躇していたらしいオスカルが、遠慮がちに言った。
 「わたしが生まれる前にうちの執事をしていたのがセシャールさんだったと聞
いたことがあります。わたしの知らないことが何かあったのですか。わたしはジ
ャルジェ家の後継ぎです。ジャルジェ家に関することなら、どんなことでも……
昔のことでも、知っておきたい。聞かせていただけませんか、もしあなたさえご
迷惑でなければ……」
 そう言ったオスカルの顔はどこか大人びていて、オスカルが真面目な気持ちで
言っているのがわかった。

 セシャールさんはしばらく黙ったまま二人の顔を見くらべていたが、やがて穏
やかに言った。
 「わかりました。二人とも歳のわりにとても利発でしっかりしていらっしゃる
。お話ししても大丈夫でしょう。わたし自身の話などお聞かせするに値しない愚
かでつまらぬ出来事ですが、あなたのお父様とお母様のお話を聞いていただきた
いと思います。わたしがお二方に受けたご恩をあなたにも知っていただきたい。
わたしももう生い先長くはありません。ここであなたに出会ったのも、きっと神
様の思し召しだったのでしょう」
 そう前置きすると、セシャールさんは話しはじめた。