ある邂逅 U


  「わたしは事情があって父の顔を知りません。乳飲み子のわたしを抱えて困り果てた母を、侍女として雇ってくださったのが先々代のジェルジェ伯爵でした。あなたの曾祖父さまですね。わたしは長らくジャルジェ家にご奉公させていただき、あなたのお父様の代には執事をさせていただくまでになりました。なんの不満もない幸福な人生でございました。ただ、子供に恵まれませんでした。同じくジャルジェ家にご奉公していた妻との間には、結婚して10年たっても子供ができませんでした。それが、わたしが40歳になったとき、神様のお恵みでわたしたち夫婦は一人息子を授かったのです。
 「思えばこれが恐ろしい不幸の始まりでした。けれども誰もが祝福する新しい命の芽生えが、後に恐ろしい悲劇を生むなど、誰が想像できたでしょう? わたしたち夫婦は幸福の絶頂にありました。そして、有体に言えば、ずいぶんと愚かな親ばかになりおおせました。息子はわたしたちにはもったいないくらい器量のよい美しい子でした。その息子の顔を眺めているうちに、わたしの中で次第に愚かな考えが頭をもたげるようになったのです。
 「実はわたしの体には、貴族の血が半分流れております。わたしの父は、母がかつて侍女として仕えていたお屋敷のご当主さまでした……」
 セシャールさんはそこで少し言葉を止めたが、オスカルは背筋をまっすぐに伸ばし、生真面目な顔で彼の話に聞き入っていた。

 「わたしは自分の出自を鼻にかけたことはただの一度もございませんでした。ところが、どこかしら血筋のよさを感じさせる息子の顔を見ているうちに、この子のうちにはまぎれもない貴族の血が流れているのだと……そのような考えにとりつかれるようになったのでございます。わたしたち夫婦は、現在の生活になんの不満もなかった。誠心誠意ジャルジェ家にお仕えし、お屋敷の使用人としての一生をまっとうするつもりでおりました。けれども、息子だけはもっと立派に育て上げてやりたかった。せめてどこに出しても恥ずかしくない教育をつけさせようと、わたしたち夫婦はこつこつ貯めた金で、息子をパリの学校へやりました。金持ちの子弟たちも多く集まる寄宿制の学校へ息子を入れたのでございます」

 「詳しくは申し上げません……ただ、その学校に通い、金持ちの子弟たちの派手な生活を目の当たりにし、悪い友人たちとパリの悪所に出入りするうちに、息子は怠けぐせと虚栄心だけを身につけた、手のつけようのないろくでなしになりおおせてしまったのでございます。わたしたち夫婦はまるで目隠しされたも同然の親ばかぶりで、息子のそんな堕落ぶりに長い間気がつかなかった。いえ、気づこうとしなかったのです。小遣いが足りないと言われてはなけなしの貯金を取り崩して金を与え、息子の虚栄心を満たすためだけに、身分不相応な立派な服を仕立ててやったりもしました。
 「けれども、どれだけ自分の心に嘘をつこうとしても、いつまでも真実から目をそらしていることはできません。しだいにエスカレートする息子の放埓ぶりの中で、わたしたちが一番心を痛めたことは、息子が自分の中に流れる貴族の血におごり、自分の両親も、自分と同じ身分の者たちも、ひどく見下すようになっていったことでした。一方で金持ちの友人たちの中ではずいぶんと肩身の狭い思いをしたのでしょう。地位や身分のある友人たちには媚びるような態度をとりながら、そういったものを持たない相手に対してはひどくぞんざいな振るまいをし、平気で乱暴や狼藉を働くようになりました」
 セシャールさんはオスカルを気遣ってそれ以上はっきりとは言わなかった。だけど僕はジャンから聞いて知っていた。セシャールさんの息子は器量のよさを武器にジャルジェ家の侍女を誘惑したり、侍女に乱暴したことも一度ならずあったという。侍女の恋人だった使用人と争いになって発覚し、ジェルジェ家に出入りできなくなってしまったんだ。

 「まだ二十五になるやならずやでいっぱしの小悪党になった息子は、何かと言ってはわたしたちから金をせびりました。それだけならまだよかったのです。わたしたちの愚かな偏愛に対して、神様が下された罰であると、妻もわたしも内心ひそかに感じておりました。けれどもわたしたちから引き出せる金など高が知れております。次第にはした金では満足できなくなった息子は、やがてお屋敷の金品に目をつけるようになったのでございます。
 「まとまった金を手に入れて、どこかでいっぱしの暮しをたてようと目論んだのでしょう。不祥事を起こしてお屋敷に出入りできなくなったことを逆恨みして、息子はだんなさまのお留守にお屋敷に盗みに入るという悪党どもの計画に加わったのでございます。屋敷の内部事情を知っているということで、重宝されたのでしょう……愚かなことでございます。
 「盗みは途中で発覚し、息子は捕らえられました。悪党どもともみ合いになり、気の毒なジュノーは命を落としました。けれどもまんまと逃げおおせた仲間もおり、その連中はお屋敷の貴重な宝石類を持って逃亡したまま、いまだにつかまっておりません。オスカルさまがお生まれになって2週間後の出来事でございました。あなたやお姉さま方、そして産後の肥立ちが悪くまだ床に伏しておられた奥さまに何の危害も及ばなかったことだけが、不幸中の幸いでした。だんなさまはそのとき遠方にご出張中で、すぐには戻って来ることができなかったのです」

 「わたしたちは……わたしと妻のアンナは、自分たちの愚かなうぬぼれに天罰が下ったのだと、覚悟を決めました。わたしは何も言いませんでしたが、妻はわたしの決意がわかっていたのだと思います。わたしの手をとり、だまって頷きました。
 わたしは自分たちの愚かしさが生み出した罪に、自分の手でかたをつけねばならないと思いました。自分たちの息子のために、誰の手も汚すことはしたくなかった……。わたしは地下室に捕らわれていた息子の元へ行き、懺悔をするように言いました。息子は最初、冷笑して取り合いませんでした。こんなことになっても、誰かがうまくとりなして助けてくれるに違いないと、そんな甘いことを考えていたのです。わたしが本気だということを見て取ると、息子は次第に青ざめ命乞いを始めました。命乞いをするわが息子を自分の手にかける……わたしは何度手にしたナイフの切っ先を、息子ではなく自分の喉に突き当てようと考えたことでしょう……。そして、ついにわたしはこの手で、自分の息子の息の根を止めたのです……」
 セシャールさんの声はいくぶん震え、かすれて途切れかちだった。オスカルは真っ青な顔をして、目に涙を浮かべながらセシャールさんの話を聞いていた。

 「妻はその夜、神さまの教えに背いて自ら命を絶ちました。奥さまは産褥の身を押して妻の亡骸を見舞ってくださり、哀れな妻の髪を撫でながら涙を流しておっしゃいました。
 「かわいそうなアンヌ……どれほど苦しんだことでしょう」と」
 涙さえ枯れきったようなセシャールさんの落ち窪んだ瞳から、透明な涙がひと筋ふた筋と零れ落ちた。オスカルもまた、流れ落ちる涙を袖口でぬぐっていた。
 「わたしはだんなさまのお帰りを待ち、法の正しいさばきによって妻の元へ召されることを望みました。けれどもだんなさまはおっしゃいました。オスカルさま、あなたというかけがえのない尊い命を授かった同じときに、これ以上ジャルジェ家から死者を出したくはない。子殺しという罪を消すことはできないが、死して罪を償うのではなく与えられた生をまっとうすることで罪を償うこともできるはずだ、と。誰にも恥じることのなかったおまえのこれまでの生き方を、神様もきっとごらんになっているはずだ……と」
 「本来ならまっとうに葬ることなど許されない妻の亡骸を、だんなさまと奥様は正しきキリスト教徒として丁寧に葬ってくださいました。そのすぐ側に、罪深い息子の亡骸を内々に葬ることも許してくださいました。残りの人生を、ただ犯した罪の懺悔にのみ捧げたいと望んだわたくしの言葉を聞き入れてくださり、こうしてお屋敷近くの森に住み続けることを許していただいています。ここからなら、妻と息子の墓に参ることもできます……今はすっかり足が悪くなって、めったに彼らに会いにいくこともできなくなりましたが」
 オスカルも僕もセシャールさんの話にひどく心を揺さぶられ、流れ出る涙を止めることが出来なかった。沈黙が訪れた。どんな言葉も、この場にはふさわしくないように思えた。

 「森の近くに妻の姪が住んでおり、生きていくのに困らないだけの食べ物を届けてくれます。せめてどなたかのお役に立てるようにと、毎日森で集めた薬草で薬を煎じております。あとは神の思し召しによって、天からのお迎えが来るのを待つのみでございます」
 「あなたに……神のご加護があることを心からお祈りします」
 オスカルが涙にかすれた声で、かろうじてこれだけ言った。
 「わたしは神のご加護に値しない人間です……いいえ、けれども神さまはきっとどんな人間の上にも、わたしの哀れな妻や愚かな息子の上にも、ご慈悲をたれてくださるのでしょう。
 「オスカルさま、あなたの誕生がジェルジェ家にどれほどの喜びをもたらしたか、あなたのご両親がどんなにご立派でお優しい方々か、それをお伝えすることができたのも、きっと神のご慈悲だったのでしょう」
 セシャールさんの表情には、拭い去ることのできない苦悩が浮かんでいた。けれどもセシャールさんの言葉は静かで、そのまなざしは透明だった。

 「道に迷われたのでしたね? お屋敷ではきっと今ごろずいぶんと心配されていることでしょう。本当はお屋敷が見える場所までお送りすればいいのですが、この足ではそれもかないません。いまから帰り道をお教えしますから、日が暮れる前に急いでお帰りなさい。そして、もう二度とここにいらしてはなりません。
 「さあ、アンドレ。君の仕事だよ。オスカルさまをしっかりお屋敷までお連れしなさい。君は素直で優しい子だ……いつまでもその気持ちを失わないでな」
 セシャールさんはそう言って、最後に僕の手をぎゅっと握った。その手は骨ばってがさがさにひからびていたけれど、とても温かだった。
 僕たちはこうして気の毒な老人に別れを告げた。

 僕たちはセシャールさんに教えられた道を黙りこくって歩いた。二人とも言いたいことはたくさんあったけれど、言葉にならなかった。
 おばあちゃんはいつも僕に言う。お嬢さまが僕のことをどんなに友人扱いしても、だんなさまが使用人としては破格の待遇を与えてくださっても、決してうぬぼれちゃいけないんだと。うぬぼれは人間を滅ぼす最大の悪徳のひとつで、それを避けるためには自分に任された仕事を、自分に必要なことを、一生懸命行うことが大切なんだと。口うるさいくらいにそう繰り返すおばあちゃんの言葉の意味が、なんだか少しわかったような気がした。
 オスカルが重い口を開いた。
 「ねえ、アンドレ」
 「なに?」
 「人間は、良き存在にも悪しき存在にもなれるんだって、父上がよくおっしゃるんだ」
 「うん」
 「人間は誰でも心の中に良い芽と悪い芽を持っていて、どっちの芽を育てるかはその人次第なんだって。……セシャールさんの息子は、どうして悪い芽ばかりを育ててしまったのだろう」
 「きっと自分に一番必要なこととか、自分がやるべきことがわからなかったんじゃないかな。自分にないものばかりを夢見てさ……」
 「そうだね」
 そう言いながら、僕はちょっぴり心配になった。僕の中にある良い芽ってなんだろう。僕の中にある悪い芽ってなんだろう。僕がいつか大人になったとき、僕はちゃんと自分の中の良い芽を育てられるのかな。
 「ねえ、アンドレ」
 「ん?」
 「誰にも内緒だぞ。僕は最近になってときどき思うようになったんだ。父上も母上も僕のことを大切にしてくださる。だけど僕は本当の男の子じゃない。僕が本当の男の子だったら、父上も母上も今よりもっともっと幸せだったんじゃないかって」
 「それは違うよ……!」
 理由はわからない。でもとっさにそう思ったんだ。
 「うん。僕が生まれたことを、二人ともとても喜んでいたってセシャールさんが教えてくれた」
 オスカルの瞳の中には穏やかで幸福そうな光が輝いていた。

 そのときだった。 
 「オスカル、ごらんよ……!」
 鬱蒼とした森が嘘のように突然に開けて、一面に花が咲き乱れる野原が広がっていた。ゆるやかな斜面のはるか向こうには、見慣れた屋敷の屋根が見える。僕らはようやく森から抜け出せたんだ。
 「すごいや」
 オスカルがつぶやく。春の光の中、生まれたばかりの鮮やかな色をした若草は、葉先を渡るそよ風を受けてざわざわと揺らめいてる。すみれ、ひなぎく、れんげ草。名前を知らない色とりどりのたくさんの花。



 僕らはセシャールさんの胸を締め付けるような悲しい物語も、疲れも空腹も足の痛みも忘れて、しばらく惚けたようにこの広々とした野原に座っていた。春の日はおしげもなく僕らにふりかかる。オスカルの髪が、日の光を受けてきらきらと輝く。まるで地上に舞い降りた天使のようだ。僕らの足元では、たんぽぽが太陽の光を集めて輝いている。そう、僕はこの花がとても好きなんだ。小さくて、かわいくて、そしてとても強い花なんだと母さんが教えてくれた。光の中で金色に輝くこの花は、なんとなくオスカルに似ている。

 「ねえ、知ってるかい。この花の根っこはお茶のかわりになるんだ」
 「お茶?」
 「そう。昔旅人がたんぽぽの根っこを煎じて、お茶の代わりにしたんだって」
 「ふうん。アンドレはいろんなことを知ってるんだな。僕は本で読むだけで、外の世界のことは何にも知らない」
 ちょっぴり寂しそうにオスカルが言う。
 「僕だって人から教わったことしか知らないよ。僕の母さんは花や木が大好きで、いろんなことを教えてくれた。僕の家はとても小さかったけど、母さんが庭にいろんな植物を植えていたんだ」
 「アンドレの母上も? 私の母上も庭が大好きだ」
 「でも、奥様のお庭とは比べ物にならないよ。だって僕の家はうんと小さいんだから」

 オスカルがきれいな眉を寄せて、考えを巡らすように黙り込む。オスカルの考えてることが、僕には手にとるように分かる。きっと頭の中で、僕の母さんの小さな庭を思い浮かべているんだ。だけどオスカルが想像するよりも、僕の家はずっと小さい。あんなに小さな家も庭も、オスカルはいままで見たことがないから分からないんだ。僕がジャルジェ家のような立派なお屋敷を想像すらできなかったのとおんなじだ。そう思うとなんだか可笑しくなる。

 風が出てきた。さっきまでぽかぽか火照っていた体の汗が冷えて、首筋から寒気が忍び込む。気がつくと、空の端が菫色に染まっている。午餐はとっくの昔に終わって、きっと今ごろ家庭教師のフィリップ先生が、いらだたしげに指でテーブルを叩きながら僕らの帰りを待っていることだろう。僕たちは立ち上がり、お屋敷を目指してゆっくりと歩き始めた。
 オスカルが思い出したようにクスリと笑う。
 「どうしたの」
 「ムッシュウ・フィリップが、今ごろ癇癪を起こして部屋の中を歩き回ってるよ。ムッシュウが怒った時の歩き方って、なんだかぎくしゃくしてまるで洋服をきたバッタみたいだ」
 ムッシュウの姿を思い出し、僕は思わず吹き出した。人のあだ名を考えることに関しては、オスカルは天才的なんだ。だけど二人とも本当は、内心ちょっぴり憂鬱だった。だってこんな時間にのこのこ屋敷に戻ったら、こっぴどく叱られることは目に見えている。
 「ねえ、アンドレ」
 「なに」
 「また、二人でこの野原に来よう」
 「うん。今度はもう道に迷ったりしないよ」
 「だけど、誰にも内緒だぞ。ここは僕たちだけの秘密の場所なんだから」
 オスカルが悪戯っぽい目をくりくりさせながら言う。ああ、この目。オスカルのこんな目が僕は本当に好きなんだ。大人たちに大目玉を食らったってかまうものか。

 オスカルの瞳に再びかすかな影が落ちた。
 「セシャールさんに会ったことは、誰にも言わない方がいいね」
 「うん。僕もそう思う」
 「これから夜のお祈りをするとき、セシャールさんにもご加護がありますようにって、毎日神さまにお願いする」
 「僕もそうするよ」

 つないだ手を大きく振りながら、僕たちは元気よく歩いた。遠くに見えるお屋敷の屋根が真っ赤な空に包まれて、夕闇がもう間近に迫っていることを告げていた。
       


FIN