伝 言

 

 ベルサイユ宮殿の長い廊下にひときわ高い笑い声が響き渡り、天井に吸い込まれていった。そのざわめきは、まるで目に見えない壁の向こうから聞こえてくる金属音のように、ジェローデルの耳にざらついた不快な感覚を呼び起こす。彼はまるで異国から来たばかりの余所者が見慣れぬ光景を見るように、ゆっくりと周囲の貴族たちを見渡した。

 祖国フランスが今にも炎をあげて燃え上がろうとしている。こんな時に、相も変わらず飽食し満足しきった顔を並べて、下らぬ噂話に笑い興じている貴族たち。ただ自らの保身にのみ汲々とし、血眼になって権力にしがみつこうとする貴族たち。もはや権力も富も約束された将来も、すべてが嵐の前に吹き飛ばされようとしているこんな時に。あるいは早々に王室に見切りをつけ、手の平を返すように宮廷を去っていった貴族たち。
 ジェローデルの身内に憤りとも悲しみともつかぬ感情が沸き上がってくる。彼が愛した誇り高きフランス貴族の栄光が、内部から腐敗し、目の前で音を立てて崩れていく喪失感に、足元をすくわれそうだった。最近しばしば襲われるこのような感覚に、決定的に呑み込まれそうになったのはつい先程のことだった。

 その前兆は軍内部の事務的な報告の一つとして、近衛連隊長の彼の元へ届けられた。

 ―――フランス衛兵隊二個中隊、明日パリへ出動のこと。―――

 たかが二個中隊の出動命令だ。最初はそう高を括ろうとした。けれども彼の中でカチリと動いた不吉な予感は、彼が楽観的な予見に甘んじることを許さなかった。ジェローデルは即座に部下に命じて、その日の指揮官を調べさせた。そして、つい先程部下から報告を受けたのだった。ジャルジェ準将が兵士達を前に、自ら指揮を取りパリへ行く旨を告げたと。

 ―――なぜだ? たかが二個中隊の指揮になぜ部隊長自らがパリへ行く必要がある? 
 国王軍が各地から続々と集結し、市民や義勇軍と一触即発の危うい睨み合いを続けているパリへ。
 フランスはその体中から腐った膿を吹き出し、パリではもはやどんな事態が生じても不思議ではなかった。何かのきっかけでいったん火が付いたら、それはおそらくかつてないほどの巨大な炎となって、パリ中に燃え広がるだろう。長年軍務に携わってきた人間特有の嗅覚で、ジェローデルはその危険性を鋭く感じとっていた。そして、おそらくあの人も。それが分かっていながら、なぜ自らパリへ赴くような命知らずなことをするのだ? たかが二個中隊の指揮を取るために!

 「隊長、どうかなされましたか?」
 書類を持って入ってきた部下のいぶかしげな言葉に、ジェローデルははっとわれに返った。
 「顔色がお悪いようですが……」
 「いや。何でもない」
 そう言いながら、受け取った書類に目を落とす。しかし視線はむなしく文字の上をすべってゆくだけで、何一つ意味を理解することはできなかった。
 「明日の午後までに決裁を頂きたいのですが」
 「うむ」
 まだ近衛隊に入隊して間もない若い青年将校は、直立不動のまま上官の次の言葉を待った。が、ジェローデルは書類を手にしたまま放心したように黙り込んでいる。仕方なく敬礼して部屋を出ようとしたとき、唐突に呼び止められた。
 「キュレル少尉」
 「は」
 「悪いが、宮廷で所用をすませたあと、わたしはそのまま失礼する。ここには戻らない。あとはコラン大尉に任せておくから」
 「はあ」
 「彼をすぐにここに呼んでくれ」


 午後の遅い光が降り注ぐ中、ジェローデルは馬を走らせた。フランス衛兵隊では、明日の出動にそなえて早々に兵士たちを解散させたという。オスカルもおそらく屋敷に戻っている頃だろう。生暖かい風が頬を吹き抜ける。素晴らしい晴天だった。けれども今の彼にとって、周囲の美しい風景はなんの意味も持たなかった。じりじりと胸をこがす焦燥と、砂を噛んだようにざらついた不快な感覚。

 『一体わたしは何をしているのだ?』
 彼は唇の端に冷笑を浮かべながら自問した。
 『彼女に会って、そして何を言うつもりだ? 命知らずな真似はおよしなさいとでも? 今のわたしは彼女にとってもはや何者でもない。今さら、のこのこ彼女に会いに行こうなどと……』

 彼女が近衛隊を去り、フランス衛兵隊へ転属になると知らされた時のことが思い浮かぶ。青天の霹靂だった。選りすぐりの兵士達ばかりを集めた、フランス王室がヨーロッパ中に誇る近衛隊。一体何が不満だったと言うのか。何を好き好んで、あらくれ兵士の集まるフランス衛兵隊へなど。
 彼がめずらしく色をなして美しい上官に詰め寄ったとき、彼女はちょっと意外そうな、驚いたような表情を見せたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべて答えた。そろそろ新しい世界が見たくなったのだ、と。
 彼が長年積み上げてきた実績も、彼女から得ていたはずの信頼も、すべてを否定されたような手酷い喪失感を味わった。胸の中心に大きな穴があいたような、経験したことのない空虚な日々。そしてその喪失感はいつの間にか、胸を焦がすような激しい恋情に変わった……。
                             
 ―――あなたは、いつもわたしの手から鮮やかにすり抜けて行ってしまう。決して追いつくことも、つかまえることもできなかった……わたしのこの手では。

 謀叛人の汚名も辞さず、彼女はジェローデルが率いる近衛隊を斥けた。あの日の彼女は、彼が一瞬自分の立場の危うさも忘れて陶酔するほどに、気高く美しかった。
 その場の勢いに気圧されたのでも、彼女に対する情に流されたのでもない。相応の処分は覚悟していた。けれども王妃様の特別のはからいで、彼女も彼も一切の処分を免れることができた。それでも、彼の心の中には消し去ることのできない大きな疑念が残った。自分の地位や名誉を賭けて、命さえをも賭けて、彼女は一体何を守ろうとしたというのだろう? 
 「武器も持たない平民議員に手をだすというのなら……」そう彼女は言った。
 彼女らしい義侠心からか正義感からか。ただそれだけのために、謀叛人の誹りも厳しい処罰も厭わなかったというのだろうか?

 謀叛人として捕らわれていた彼女の部下が、群衆の手によって救い出された。彼にはそれがただの偶然とは思えなかった。彼女自身と同じように軍部の命令に背いて投獄された部下を、彼女がただ手をこまねいて見ているとはとても思えなかったから。

 ―――あなたはいったい、何を見ているのです? いったい、どこへ向かって行こうとしているのです?

 ジェローデルの中で、ふたたびカチリと不吉な予感が動いた。
 彼女は自ら二個中隊を率いてパリに出動するという。何のためだ? いったい何のために? 
 フランス衛兵隊の二個中隊など、王室にとっては暴動が起こったときの捨て駒のひとつに過ぎない。兵士たちの命など、王室にとっては毛ほどの重さもない。衛兵隊の兵士たちのほとんどは、民衆と同じ平民の出身だという。もし暴動が発生したら、彼らは自分たちを捨て駒に使う王室ために民衆に銃口を向けるのだろうか? 彼女は兵士たちに、武力で民衆を鎮圧するように命ずるのだろうか? 武器をまともに扱ったこともなく、その大半はろくな武器も持っていない民衆に向かって。

 「できるはずがない……」
 ジェローデルは思わず声に出して呟いた。
 彼女にそんなことができるはずがない! では一体何のためにパリへ出動するのだ?

 彼の心臓は早鐘のように激しい動悸を打ち始め、背中や脇の下に冷たい汗が流れた。
 自ら楯となり、国王軍と民衆の間に立とうというのか? あの日、平民議員と近衛兵の間に立ちはだかり、自ら楯となってみせたように。そして暴動の発生を食い止めようとでもいうのか? ―――そんなことは不可能だ……!
 もし実際に暴動が生じたら、彼女はいったいどうするつもりでいるのだ? 

 ジェローデルの思考は、底無しの穴に落ち込むように突然ふつりと途切れた。彼女は決して民衆に銃口を向けないだろう……それだけは直観的に理解できた。だが、その先のことはもはや彼には想像することすらできない。もしかすると彼の本能が、その不吉な予想を無意識のうちに避けたのかもしれなかった。ただ、胸を圧迫するような重苦しい固まりが込み上げてきて、呼吸が苦しくなる。ジェローデルは深く息を吸い込んだ。

 ちょうどその時、ジャルジェ家の屋根が木々の向こうに浮かび上がった。その見慣れた風景は、重く沈み始めた彼の思考を一瞬別の世界へといざなった。熱い想いに胸をときめかせながら、この風景を目にした日々のことが思い出される。甘く苦しい思い出が鮮やかにしみついた風景は、ジェローデルの心に新たな痛みを与えた。
 あの頃からまだ一年も経っていないというのに、なんと多くのことが取り返しようもなく変わってしまったことだろう。一度は妻にと願った最愛の人が、明日は戦場と化すかもしれぬパリへ向かうという。しかも、彼にはとうてい理解しがたい理由で。これはどうすることもできない運命だったのだろうか? 自分の力では本当にどうすることもできなかったのだろうか? 自分はどこかで道を誤ったのではないだろうか……

 ジェローデルはジャルジェ家の広い敷地に馬を乗り入れると、すぐ側にあった木に馬を繋いだ。
 「まあ。ジェローデル様……!」
 おどろいた様子の声に振りかえると、見覚えのある顔の侍女が緊張した不安気な面持ちで立っている。軍服姿のジェローデルを見て、軍からの急な報せを持ってきたと勘違いしたらしい。そう思わせておく方が、彼にとっては都合がよかった。
 「オスカル嬢に至急お目にかかりたいのですが、どちらに?」
 「オスカル様でしたら、さきほどお庭の方へ。すぐにお呼びしてまいります。どうぞ中へ」
 「いや、けっこう。わたしが庭へ行った方が早い」

 案内を請わずとも、慣れ親しんだジェルジェ家の庭だった。ジェローデルの足は、無意識のうちに懐かしい薔薇園の方に向かう。だが彼女に会って、自分は一体何を言うつもりなのだろう。その答えはあいかわらず見つからないままだった。

 近道をして厨房の横を通り抜けようとしたとき、彼は木々の間に見覚えのある長身の後ろ姿を認めた。
 「アンドレ・グランディエ!」
 アンドレが足音に気づいて振り向いたのと、ジェローデルが声をかけたのはほとんど同時だった。
 「ジェローデル少佐……」

 夜の色をした黒い瞳が、驚きのために一瞬見開かれる。忘れもしないこの黒い瞳。いつも彼女のすぐ側にいて、彼女だけを見つめていた。この瞳を前にして、彼が生まれて初めて感じた理不尽なほどの嫉妬と対抗心。だがそれも今となっては、過ぎ去った過去の話だ……。

 「やあ……久し振りだね」
 「お久し振りです……少佐」
 ジェローデルの視線はアンドレ・グランディエが手にしている遅咲きの薔薇の花束の上に落ちた。それは妙に非現実的な光景だった。明日戦場に立つかもしれぬ男が、薔薇の花束を手にして悠然と立っている。これはまるで自分の愚かな狼狽ぶりを嘲笑う、悪い冗談のようではないか?

 「明日、オスカル嬢が二個中隊を率いてパリに出動すると聞いた」
 「近衛隊のあなたの元にまで、もうそんな情報が……?」
 アンドレの声音に、一瞬かすかな緊張が走る。
 「いや。わたしが個人的に調べさせた。気になったものだからね」
 「そうですか、それで……」
 アンドレはその話を聞いて、ジェローデルが突然やってきた理由を納得した様子だった。
 「衛兵隊には他に優秀な指揮官が一人もいないとでも……? たかが二個中隊の指揮に部隊長自らが赴くなど……非常識だ」
 「兵士たちはオスカルの指揮でなければ出動の命令に従いません」
 「だから? だから彼女は自らパリへ赴くと。軍の命令にも従わぬ不埒な連中の指揮を取るために……!」
 できるだけ抑えたつもりの口調が、次第に激してくる。

 アンドレは黙って彼を見た。その穏やかな瞳の中には、かつての恋敵に対する敵愾心も勝利者の奢りもかけらほどさえなく、ただ静かな憂いと同情に似た何かが感じられるだけだった。それがかえってジェローデルの苛立ちに油を注いだ。相手の落ちつき払った態度を前にして、瞬間、ジェローデルは抑えようもなく噴出する怒りの発作にとらわれた。

 『きみはなぜそんなに平静でいられるのだ? どんなことをしてでも彼女を守るのがきみの役目ではないのか! みすみす愛する人を危険な戦場へ行かせるなど、それできみは平気なのか?』

 ジェローデルのその思いは一瞬の炎となって彼の瞳の中に燃え上がったが、彼の自尊心がかろうじてその暴発を抑え込んだ。けれども無理に感情を押し殺した彼の声は、妙な具合にかすれて乾いていた。
 「きみは……納得ずくだと言うのだね? わたしには分からない……わたしなら、彼女を縛りつけてでも行かせたくないと思うがね……。もっともわたしにそんな権利はないが……」
 自嘲的な冷笑がジェローデルの口許に浮かぶ。

 「誰にもオスカルの自由を束縛することはできません。たとえ旦那様や奥様でも。オスカルはいったんこうと決めたら、誰の言うことも聞かない……。あなたも御存知のはずです。わたしとて、できることなら……」
 だがその先の言葉をどこかに置き忘れたように、アンドレはふと口をつぐんだ。その瞳の中に、言い尽くせぬ苦痛の色が走るのをジェローデルは見たような気がした。

 ―――そうだ……。わたしが恋こがれたのも、そんな彼女ではなかったか?

 彼女が父将軍の厳命に逆らって、舞踏会をぶち壊しにしたときのことが思い浮かぶ。結婚話を反故にするために、彼女は自らの家名に泥を塗るような真似を平然とやってのけた。ベルサイユに威光をとどろかせるジャルジェ将軍でさえ、彼女の意志を曲げることはできなかった。あのときも、近衛を去り衛兵隊に転属になったときも、彼女はいつも自分の意志で人生を選び取ってきたのではなかったか?

 自分の怒りはアンドレ・グランディエに向けられたものではなく、自分自身の心の中にある葛藤に過ぎないのだとジェローデルが気づくのに時間はかからなかった。彼女を引き止める手段も、たったひとこと彼女に言うべき言葉さえ、何一つ持たない自分に対する苛立ちであると。

 「ふ……愚かなことだな……」
 「え?」
 「人間は冷静さを失うと、目の前にあるごくあたりまえのことさえ見えなくなるらしい」
 やや自嘲的なジェローデルの口調は、すでにふだんの落ち着きを取り戻していた。
 「きみの言うとおりだ。彼女の意志を曲げることは誰にもできない……」

 ジェローデルはなにごとかを考え込むようにふと黙り込んだ。だが再び口を開いたとき、彼の口調から自嘲的な響きはあとかたもなく消えていた。
 「彼女は美しかった……。ベルサイユの並み居る貴族たちの中で、彼女は誰よりも美しく輝いていたよ。彼女の輝きに、わたしはただ憧れた」
 ジェローデルの瞳は一瞬、遠い過去の華やかな日々を懐かしむように柔らかな光を宿した。
 「今ならよく分かる。なぜあれほどまでに彼女が輝いていたか。いつでも誰の前でも、あの人は決して臆することなく、自分の信じるものに忠実に振る舞った。並み居る男たちの誰もが真似できなかったほどに鮮やかに……ときには自分の命をかけてさえ。そうだね?」
 「ええ、そうです」
 アンドレの脳裏にもまた、強い意志の力を感じさせるオスカルの瞳と鮮やかな金髪が思い浮かんだ。そして彼女が命を賭けて、先国王に自分の助命を嘆願してくれた遠い日のことが。

 「きみも一緒に行くのだろう? 彼女がどこまでも彼女らしい生き方を貫くために、きみは黙って彼女の意志に従うと」
 「ええ……でも」
 「でも?」
 「それは少し違うかもしれません」
 「ならば、なぜだ? きみも知っているはずだ。今回の出動は、もはや冗談ごとではすまされない」
 アンドレは少しの間言葉を探している様子だったが、やがてジェローデルの方をまっすぐに見ながら言った。
 「おそらく……それがわたし自身の信じる生き方でもあるからです」

 彼自身が信じる生き方―――? それは当たり前の答えでありながら、ジェローデルが考えてもみなかった返答だった。そして、彼にはどうしても言うことのできない一言だった。どれほど彼女の身を案じ……どれほど彼女を愛していようとも。

 「きみがうらやましいよ……いや、きみたちと言うべきかな」
 短い沈黙のあと、ジェローデルが言った。
 「近衛隊で彼女とともに働いていたころ……そう、あのころならわたしは彼女の多くを理解できた。フランスのために、王室の栄光と未来のために、わたしは自分のすべてを捧げるつもりでいた。おそらくオスカル嬢も同じ気持ちだったはずだ。
 「だがあのときから……彼女が近衛隊を去ったときから、わたしたちの運命の歯車は確実にくい違っていった。今のわたしにはもう彼女の考えを理解することができない。あの人が見ているものが、わたしには見えない……」
 ジェローデルの表情にかすかな苦痛の色が走る。
 「彼女とわたしの生きる道はもうこんなにも離れてしまった。……たぶん、それがわたしたちに定められた運命だったのだろう」

 最後の一言を自分自身に言い聞かせるように呟くと、ジェローデルはアンドレの方に向き直って言った。
 「つまらぬ話を聞かせたね」
 「いいえ、少佐。……お気持ちは分かります」
 「どうか彼女に伝えてください。命だけは大切にするようにと。きみも……」
 そのとき、遠くの方からもどかしそうに彼を呼ぶ声が聞こえた。
 「アンドレ! どこにいるアンドレ」
 「いまそっちに行く」
 声のする方向に顔だけ向けてアンドレが答える。
 懐かしいオスカルの声が、ジェローデルの心の奥底まで滲み入るようだった。けれども彼女が限りない情愛と全幅の信頼を込めて呼ぶのは自分ではない別の男の名前だった。愛する人の甘やかな声音は、懐かしさとともに深い寂寥の念をジェローデルの心に呼び起こす。もはやここは自分のいるべき場所ではない……。

 「では、わたしはこれで失礼するよ」
 「オスカルにはお会いになりませんか?」
 彼女に会いたかった。だが同時に、会うべきではないという声が心のどこかで響き、ジェローデルはその声に従った。
 「いや……やめておこう。わたしの出る幕ではないだろう」
 アンドレは少しの間ジェローデルの真意を確かめるように彼と向き合っていたが、彼の決意が変わらないのを見て取ると言った。
 「では……あなたもどうか御無事で、少佐。あの日、近衛隊を退けたあと、オスカルはずっとあなたのお立場を案じていました」
 ジェローデルの瞳の中に小さな光が灯り、その光がかすかな波紋になって広がった。
 「そうか……。ありがとう」
 口の中で小さくそう言うと、陽炎のようにとらえどころのない微笑みを残して、ジェローデルはくるりと背を向けた。




 『今ならまだ間に合う。どんな無様な真似をしてでも、地面に跪いて懇願してでも、彼女を止めるべきではないのか? 一体何のために馬を走らせてここまで来たのだ? 彼女と正面から向き合って、話をして、そして彼女を思い止まらせるためではなかったのか……』
 一瞬ジェローデルの足が凍り付いたように動かなくなる。目を閉じて、息を深く吸い込んだ。
 『ちがう……もはやおまえの出る幕ではない。ここはおまえの来るべき場所ではない……。彼女は自分で自分の人生を選び取ったのだから。たとえ彼女がどんな道を選びとろうと、そこからどんな結果が生じようと、それが彼女の望む生き方なのだから……』

 一歩足を進めるたびに、きりきりと切り裂かれるように胸が痛んだ。とっくに諦めたはずの恋だった。諦めねばならないと自分に言い聞かせてきた。けれども、彼女とこんなにも遠く隔たってしまった今でさえ、心臓が裂かれるような痛みをどうすることもできなかった。
 今度こそ、この屋敷を訪れるのはこれで最後になるだろう……。それは確信めいた予感だった。ジェローデルは馬に飛び乗ると、最後にもう一度だけ懐かしいジェルジェ家の館に目をやった。そして何ものかを振り切るように、いつまでも暮れゆかぬ夏のまばゆい光の中へ馬を走らせた。

    ***********************

 カサカサと木の葉が揺れる音がして、木々の間からオスカルの鮮やかな金髪が現れた。
 「アンドレ。さっきから向こうで待っていたのに、こんなところで何をしているのだ。母上に差し上げる薔薇を……」
 「オスカル」
 彼はまるで眩しいものでも見るように目を細めて彼女の方を見やった。次の瞬間、いきなり彼女の腕をつかむと、何も言わずに彼女の体を抱き寄せた。手にしていた薔薇が地面に散らばる。
 「薔薇が……」
 彼の思いがけない抱擁に絡めとられ、オスカルは一瞬軽い眩暈を覚えた。

 ジェローデルでなくとも、一体誰が愛する人を戦場へ行かせたいなどと思うだろう。こうやって抱きしめることで、彼女を永遠に自分の腕の中にとどめておけたら……。フランスの未来も自己の信念も真実も関係ない。この世のすべての争いから逃れ、愛する人を自分の腕の中だけにつなぎ止めておくことができたら……! そんなエゴイスティックな心の声に一度も耳を傾けることなく、平然と戦場へ向かうことのできる人間が果たしているだろうか。

 「おまえ……明日は絶対に無茶をするな」
 「わかっている。そんな目でパリへ行くなど、おまえの方こそ無茶苦茶だ」
 「おまえを一人で行かせられるわけがないだろう? おまえを失うようなことがあったら、おれは……」
 「ん……」
 おもむろに目を伏せた彼女の頬に、絹糸のような長い睫毛が陰を落とした。二人はただ明日のお互いの身だけを案じて、そうすることで永久に相手をつなぎ止めようとでもするかのように強く抱き合った。そうして押し黙ったまま、どのくらいの時間抱き合っていただろう。       

 遠くで召使たちの呼び合う声が聞こえ、二人は現実に引き戻された。
 「薔薇が……かわいそうなことをしてしまった」
 アンドレの言葉に、二人は同時にかがんで地面に散らばった薔薇を拾い始めた。
 「さっきジェローデルが来た」
 「ジェローデルが?」
 オスカルが手をとめ、訝しげにアンドレの顔を覗き込む。
 「一体なぜ今ごろ……」
 「おまえが明日パリへ行くことを知って、馬を飛ばして来たんだ。おまえのことが気がかりで、明日の指揮官を調べさせたらしい。引き止めるつもりだったのだろう」
 「それで、彼はなんと?」
 「何も……。ただ、命だけは大切にするようにおまえに伝えてくれと」
 「そう……か」

 ジェローデルとともに近衛隊で過ごした日々が、ふとオスカルの脳裏に蘇る。あの頃は自分の歩むべき道に露ほどの疑問も感じず、現在と同じような未来が、誇り高きフランス王室の栄光が永遠に続くものだと信じて疑わなかった。
 あの時からどれほど遠くに来てしまったのだろう。そしてこの先自分たちはいったいどこに向かって行くというのだろう。

 「彼にもずいぶんと迷惑をかけたな」
 オスカルがぽつりと言った。
 だが次にジェローデルに会うときは、もはや部下でも婚約者でも同志でもなく、敵対する側に立つものとして彼と対峙しなければならないかもしれない。そんな予感が彼女の心に暗い陰を落とす。彼だけではない、父上も王妃様もフェルゼンも。近しかった人間同士が、なぜ争い合わねばならないのだろう。すべてが平和で美しかった時代は、もう二度とフランスには訪れないのだろうか?

 夢中で走っていたあの若き日々も、かけがえのない美しい時代であったのだとオスカルは今さらながら思い知る。この世に生を受けてからすべての出来事が、かけがえのない輝きに彩られた幸福な人生だった。けれども明日を境に、自分は過去のすべてのしがらみと訣別するだろう……。ただひとり、自分のすべてをかけて愛する男をのぞいては。
 過去への愛惜を消し去ることはできないが、それは二度と取り戻せないもの……。
 だから、何があろうと決して後ろを振り向きたくはなかった。自分に残された命がある限り、愛する男と自分の信じるもののために……まだ見ぬ未来のために。

 「そろそろ戻らないと、奥様が待っていらっしゃる」
 「そうだな……」
 二人はどちらからともなく手を取り合い、互いの温もりを求めるように身を寄せ合った。まるでおとぎ話のように不思議な色合いをした夏の空は、輝かしいオレンジ色の残光とともに、ようやくその長い一日を閉じようとしていた。

FIN