真昼の月



 雨の日は空気が密度を増す。
 湿気が血管の中にまでしみ入り、体中にゆっくりと優しい毒が回る。
 雨のカーテンを透かして見えるのは、遠い過去の情景だ。
 何故だろう……昔のことばかりを思い出す。
 何の屈託もなく幸福だった頃のことを。
 黒髪の少年と庭先を駆け回った、あの眩い夏の日を。


 「なんだか寂しいものね、昼間に見る月は」
 読書に没頭していたはずのジョゼフィーヌが、ふと思いついたように言った。
 「姉上、今日は月など出ていませんよ。さっきから嫌な雨だ」
 そう言いながらオスカルは、窓の外へ目をやった。窓の外ではさきほどから煙るような雨が降り続いていた。久し振りにジャルジェ家に顔を見せた姉と二人きりの広い居間は、しっとりとした雨の音に包まれ気だるい沈黙に沈んでいた。母は湿気のせいで偏頭痛がすると言って、私室にひきこもっていた。父は宮廷に上がっていた。
 もの寂しい一日だった。押しつぶされそうな重い空の下、朝からどこかへ出かけたアンドレのことが思いやられる。僅かに雨足が強くなってきた。この様子だと、彼はきっとずぶ濡れになって帰ってくるだろう。傷に障らなければいいが。

 「オスカル、知っていて? 真昼に見る月は人の心の奥深くに隠された欲望を表すというの。日常の喧騒に紛れて気がつかない本当の自分の気持ち……」
 「今日はなんだか妙にしんみりしてますね。どうかされましたか、姉上?」
 「ふふ……何でもないわ。ちょうどこの本に、そんな話が出てきたのよ。誰にでもあるでしょう、そんなことが」

 いつもは快活な姉ジョゼフィーヌの瞳が、周囲に立ちこめる湿気のせいかこころなしか力なく潤んで見えた。謎をかけているような姉の口調に、オスカルはふだんと違う空気を感じた。だが、姉の話をじっくり聞くには、オスカルは疲れすぎていた。体の節々にたまった疲労が澱のように体の底に沈んで、ときどき深い穴の底に沈んでいきそうな感覚にとらわれる。けれども重い体とは裏腹に、頭の一点が冴えて、神経だけが妙に高ぶっていた。

 今夜もまた寝つけないか……。

 オスカルは小さな溜め息をついた。最近になってオスカルは、不眠に悩まされることが多くなった。昔から寝付きのよい方ではなかったが、最近はあまりにもいろいろなことがありすぎた。彼女の魂を根底から揺さぶり、深い物思いに沈みこませるようないろいろなできごとが。男として生きてきた自分の人生を、否応なく振り返らざるを得ないできごとが……。

 アンドレとゆっくり話がしたい―――気だるい意識の中、ふとオスカルはそんな衝動にかられた。彼と他愛もない昔話や冗談口を叩きあったら、少しは気持ちが落ち着くような気がする。
 そこまで考えてオスカルは、心の中にぽっかりとあいた空虚な穴は、アンドレの不在によってもたらされたものだと気がついた。せっかくの休日だというのに、彼は朝からせわしなくどこかへ出かけてしまった。もとよりゆっくり話をする時間もなかったが、いつもなら気軽の聞けるはずのアンドレの用向きを、オスカルはなぜか聞くことができなかった。アンドレも何も言わなかった。何かしら釈然としないかたまりを胸の内に抱えたまま、オスカルはアンドレの後ろ姿を見送った。そんなことがぼんやりと思い出され、オスカルは苦笑しながら、長椅子のクッションに深々と身を沈めた。
 『帰ってきたら、聞き出してやろう』

 けれどもいつもより早い日が落ち、あたりが暗くなり始めても、待ち詫びたアンドレはなかなか戻ってこなかった。

 ******************

 「オスカル、どうした。こんな暗い部屋で、明かりもつけないで」
 重い目を開けると、すぐ目の前にアンドレが立っていた。片手に燭台を持ち、静かにオスカルを見下ろす黒い瞳が、オスカルの青い瞳を捉える。くせのある黒髪が、まだ雨の雫をふくんだまましっとりと湿り気を帯びていた。蝋燭の明かりと、濡れて長く伸びた髪のせいだろうか。彫りの深い彼の顔立ちは、いつもより精悍さを増しているように感じられた。オスカルはなぜかその顔から目をそらすことができなかった。

 「いつのまに……気がつかなかった。もう帰っていたのか」
 「声をかけてもおまえが返事をしなかったから。疲れているのだろう? 眠るのなら、ちゃんとベッドに行って眠れ。こんなところでうたた寝をしていると風邪をひく。さあ」
 静かだが断固としたもの言いだった。アンドレが促すようにオスカルの手をつかむ。雨に濡れたはずなのに、その手は不思議と熱っぽかった。手首にアンドレの熱を感じながら、オスカルは言った。
 「いいんだ。眠りたいわけじゃない。ただちょっと……」
 そう言いながらオスカルは、心の底まで見透かすようなアンドレの視線に耐えきれず思わず目を伏せた。つかまれた手首から、彼の体温が流れ込んでくる。その熱は、手首の血管を通してやがて心臓の中心にまで達するような不思議なざわめきをオスカルの中に呼び起こした。オスカルは思わず手を引込めようとした。だがアンドレの力強い手はそれを許さなかった。

「何があった?」
 「え?」
 アンドレの押さえつけたような声音に、オスカルは思わず顔を上げた。
 「フェルゼンに会ったのだろう? 何があった」
 アンドレの問い詰めるような眼差しは微動だにせず、じっとオスカルに注がれている。

 ああ、そうだフェルゼン……。フェルゼンに会って……別れを告げられた……わたしはひどく打ちのめされて……。だがそのとき感じたはずの心の痛みは、不思議と薄いベールを通して向こう側を見るように、遠くにかすんで見えた。

 「何も。何もない。わたしは……」
 「おまえはフェルゼンを愛しているのだろう?」
 アンドレの苦しげな声が、微かな痛みを伴ってオスカルの耳に響く。
 フェルゼンを愛している……?
 わたしはフェルゼンを愛しているのか……?
 とっさに答えることができずにいると、アンドレがオスカルの両腕をつかんで引き寄せた。
 「オスカル、ちゃんとおれの目を見て答えろ。彼を愛しているのだろう?」
 「ちがう! わたしは……」                          
 アンドレの燃えるような眼差しがすぐ間近に迫っていた。その眼差しに射すくめられるように、オスカルは言葉が続けられなくなる。
 「愛している」
 「アンドレ……」
 「おまえを愛している」

 低く囁かれた言葉が、甘い毒薬のように血管にしみ入る。アンドレの熱っぽい指先がオスカルの唇をなぞると、皮膚の表面に泡立つような震えが走った。その手は彼女の頬を包み込み、髪の中に差し入れられた。そのまま強い力で引き寄せられ、唇を塞がれる。オスカルは反射的に男の体を押しのけようとしたが、男の腕はびくともしなかった。
 アンドレのしっとりと熱を帯びた唇はオスカルの唇を柔らかく包み込み、どこか懐かしい感覚を呼び覚ます。記憶の奥深くに刻みつけられたその感覚に、オスカルは一瞬、抵抗することも忘れて身をゆだねた。その抱擁には不思議と違和感がなかった。むしろ、いつまでもそのぬくもりに包まれていたいと感じさせるような、優しい抱擁だった。

 だが次の瞬間、体がふわりと持ち上げられるのを感じ、寝台の上に乱暴に押し倒された。続いてゆっくりとアンドレが覆い被さってくる。
 「いやだ……アンドレ……!」
 アンドレはオスカルの抵抗を封じ込めるように、ふたたびその唇を塞ぐ。アンドレの貪欲な舌はオスカルの震える唇を割り、その五感に激しい戦慄を送り込んだ。それは先ほどの包み込むような口づけとはうってかわった、強引で荒々しい接吻だった。意志とはうらはらに、体がしびれたように麻痺して抵抗することができない。アンドレの厚い胸とぴったり密着した胸が、今にも破裂しそうに激しく脈打っている。息が苦しくなる。

 絹の裂ける音が薄暗い部屋に響きわたった。と同時に、耳をつんざくような轟音が張り詰めた空気を揺るがす。アンドレの上体がふわりと浮き上がり、傍らに投げ出された。一瞬何が起こったのか理解できなかった。気がつくと血塗れのアンドレが自分の横に横たわり、銃を手にしたジャルジェ将軍が無表情に見下ろしている。
 「アンドレ……?」
 恐る恐るアンドレの頬に伸ばしたオスカルの手が、生暖かい鮮血で赤く染まった。
 ―――これはいつか見た地獄の再現ではないか? 何度もうなされた夢の再来ではないか?
 「アンドレ……アンドレ!」
 心臓が切り裂かれるような痛みを感じながら、オスカルは声の限り叫んでいた。

 ***************


 「オスカル、オスカル」
 目を開けると、心配そうな姉の眼差しがすぐ近くにあった。一瞬オスカルは夢と現実の境目が理解できず、茫然としていた。

 ―――あれは……夢だったのか?
 
 オスカルはとっさに自分の手のひらを見た。鮮明に目に焼きついている生々しい血糊は……もちろんあとかたもない。

 ―――わたしは本を読みながら長椅子で眠り込んでしまって……そして……
 そこまで考えても、はっきりと記憶に残っている生々しい映像は、とても夢の中の出来事とは思えなかった。

 「うなされていたようだけれど、何か悪い夢でも見たの?」
 「え?」
 「しきりにアンドレの名前を呼んでいたようだけれど……」
 アンドレという名前を聞いたとたん、オスカルは心臓の血が逆流し、頬が熱くなるのを感じた。
 「わたしは……ほかに何か……」
 「いいえ。ただアンドレとだけ」
 オスカルは小さな息をつくと、無意識のうちに唇に手をやった。彼が夢の中でふれた唇が、いまだに熱を持って火照っているようだ。
 「オスカル……?」
 「いえ……大丈夫です。アンドレが……銃で撃たれる夢を見たのです」

 心配そうにオスカルの様子を伺っていたジョゼフィーヌの瞳の中に、たちまち同情の色が広がった。
 「そうだったの。きっとパリで襲われた時のことがまだ忘れられないのね……。あとで話を聞いたときは、本当に心臓が止まるかと思ったわよ」
 「姉上」
 「あなたが血塗れのアンドレを連れて帰ってきたとき、ばあやはもう孫の命はないものと覚悟を決めたそうよ。あの程度の怪我ですんだのは奇蹟的だったって……本当によかったわ。二人ともこうやって元通り元気になって」
 ジョゼフィーヌはオスカルの乱れた髪を優しくなでつけながら言った。
 「でも夢を見るのはいいことよ、オスカル。夢は心の底にたまった苦しみや悲しみを全部溶かしてくれるの。それから、自分でも気づかない本当の自分に出会わせてくれる……」
 「本当の自分?」
 「ええ、そうよ。あなたも夢の中で本当の自分に出会って……?」

 ******************


 「……ル。オスカル?」
 ぼんやりと考え込んでいたオスカルは、自分を呼ぶアンドレの声に振り返った。
 「どうした、さっきから声をかけているのに。何をぼんやりと考え込んでいる。入るぞ」
 入口に立っていたアンドレが、ふわりと暖かい空気を周囲にまといながら中に入って来た。部屋の中が急に明るくなったような気がした。
 「ああ……帰っていたのか」
 「冷えるな、この部屋は。なんだ、暖炉の火が消えかけているじゃないか」
 そう言われてオスカルは、指先がすっかり冷えきっていることに気がついた。彼の周囲に流れる柔らかい空気が、ひどく懐かしいものに感じられた。

 アンドレは暖炉の前に跪くと、慣れた手付きで暖炉の灰を掻き出し、新しい薪をつぎ足し始めた。その姿を目で追いながら、オスカルは言った。
 「ずいぶんと遅かったんだな。こんな雨の日に出かけるなんて……傷の方はもう大丈夫なのか?」
 「ああ。執事さんの用事と、ついでにおばあちゃんの頼まれものでね。少しばかり手間取った」
 「病み上がりの人間をこんな雨の日に遣いにやるなど、ジャルジェ家も人使いが荒い。他に人はいなかったのか」
 「仕方がないよ。執事さんは一昨日から腰の具合が悪くてね。動けないんだ。おれが寝込んでいる間、執事さんにもみんなにもずいぶんと迷惑をかけたから。少しは借りを返さないとな」
 「そうか……」
 アンドレに言われてはじめて、オスカルは執事のデュケムが腰痛でふせっていたことを思い出した。そんなことを気にとめる余裕すら、今の彼女にはなかったのだった。

 ―――部屋を見舞ってやって、老齢の執事に優しい言葉の一つもかけてやればよかったものを……

 急に黙りこんだ彼女の方に顔だけ振り向けて、アンドレが言った。
 「寒くはないか? 今日はこの季節にしては特別に冷えるから。いま暖かいショコラか紅茶を持ってきてやろう」
 「ショコラか紅茶か……」
 「いらないか?」
 「……いらない。それよりワインかブランデーが飲みたいな」
 少し上目遣いにアンドレを見ながら、悪戯を思いついた子供のような口調でオスカルが言う。
 「ふふ、そう言うだろうと思ったよ。最近のおまえは少し飲み過ぎだ」
 「おまえこの頃ばあやに似てきたな。そうやってときどき説教くさくなるところ」
 アンドレは黙って小さく笑うと、ふたたび暖炉の火に目をやった。

 嘗めるような炎が、乾ききった薪にまとわりつき、ぱちぱちと音を立てて勢い良く燃え上がった。炎がアンドレの顔をぱっと赤く照らし出し、その男らしい顔立ちにくっきりとした陰影を浮き立たせる。オスカルは無意識のうちに、ギリシア彫刻のような男の横顔に見入っていた。それは長年親しんだものでありながら、まるで見知らぬ男の顔を見ているような不思議な感覚をオスカルの中に呼び起こした。

 その顔がおもむろにオスカルの方に振り向けられ、視線がまともにぶつかる。オスカルは微かな動揺を感じ、とっさに目をそらした。アンドレが立ち上がり、ゆっくりと自分の方に近づいてくるのが気配で分かった。男の息づかいを間近に感じた瞬間、オスカルは胸が詰まるような息苦しさを覚えた。
 「アンドレ……」
 沈黙に耐えられず彼女が口を開きかけたとき、アンドレは小脇に抱えた包みの中から古風なワインのボトルを取り出し、静かにテーブルの上に置いた。

 「これは……?」
 「通りがかりにちょっと珍しいワインをみつけたんでね。おまえが気に入るんじゃないかと、つい買ってしまった。ふたりの全快祝い……とでもしておこうか」
 見上げる黒い瞳には、昔から変わらぬ優しい微笑みが浮かんでいる。その笑顔につられて、オスカルの瞳にも子供のような単純な喜びが輝いた。
 「まったくおまえときたら。バッカスの誘惑の前には、魂も売り渡しかねない様子だな」

 冷気と薄闇の中に沈んでいた部屋は人間らしい暖かさを取り戻しつつあった。命の液体が冷えきった身体に流し込まれ、青白いオスカルの頬に少しずつ血の気が蘇る。いくら一人で杯を重ねても、疲れ切った身体は思うように温まってくれなかった。今宵は手指の先にまで……魂の奥底にまで、ワインが心地好くしみわたる。
 アンドレと二人でワインを飲むのは久し振りだった。あの日の夜以来、アンドレがワインを持ってオスカルの部屋を訪れることは一度もなかった。あの日の夜、床に飛び散ったガラスの破片と真紅のワイン。おそらく二人の命を永遠に奪うはずの……。
 だが今彼女の目の前にゆったりと座っている男の姿からは、その激しさの片鱗も感じられない。

 ―――彼は……決して感情をあからさまに外にあらわすことをしない。それは長年の習慣か、持って生まれた気質のせいか。いままでにたった二度だけ、彼が止めようもなく崩れ落ちたときを除いては。彼は自分を道連れにして、激しく燃え盛る炎に身を投じようとした。ワイングラスを激しく床に叩きつけた夜。そして痛いほどの愛を、容赦なく自分にぶつけてきた夜。激しい愛の告白と、そして口づけ……

 心臓がドクンと鳴り、血管がざわざわと波立ちはじめる。思わず視線を落とした先に、グラスに添えられたアンドレの手が見えた。その手は凪いだ海のように穏やかな表情で、繊細な細工をほどこしたグラスのふちを軽くなぞっている。

 ―――あれは、夢の中でわたしの唇に触れた指……。

 ふと脳裏に浮かんだ予期せぬ想念に、オスカルはひとり頬を赤らめた。グラスに残ったワインを一息に飲み干すと、何かから逃れるように席を立ち窓辺に近づいた。窓を開け放ち、火照った頬を夜の冷気に晒す。いつのまにか雨があがっていた。

 「アンドレ、雨がやんでいるぞ。雲の隙間から星も見える。この様子だと、明日は晴れるな」
 「それはありがたい。……ああ、今日は満月だったんだな」
 アンドレはオスカルから少し離れて立ち、空を見上げながら言った。上空の風が雲を吹き飛ばし、懸命に輝きを取り戻そうとする月が、流れる雲の合間からおぼろげな姿を現しては、雲の影に隠れた。

 ―――まるで今のわたしの心のようだ……

 ふとそんな考えが頭をよぎった。手を伸ばせば触れるほどの距離に、彼と二人きりでいることが苦しかった。得体の知れぬ感情の波に足を掬われそうになり、オスカルはなすすべもなく立ち竦んでいた。その息苦しさの中には密やかな蜜の味が……極上の美酒の陶酔が潜んでいるはずだった。けれども今の彼女にはそのことに気づくだけの余裕はなかった。

 雲の合間からふたたび姿を現した月が、おぼろげな光を投げ掛ける。壊れもののように危うい均衡を保つ彼女の心を、優しく包み込むように……

FIN