Un bouton 〜にきび〜(1)


その朝、オスカル・フランソワは鏡の前で小さな溜め息をついた。
 夕べからなんとなく鼻の頭がむず痒かった。読書に集中できず、いらいらして
引っ掻いたのが悪かったのだろうか。朝起きて鏡を見ると、白い顔のど真ん中、
一番目立つ鼻のてっぺんに、あろうことか真っ赤なにきびが一つ……。
 ベルサイユの貴婦人たちのように七面倒くさい手入れをしなくても、彼女の肌
はいつも輝くように美しかった。姉上たちが、やれ吹き出物ができたの、太陽に
当たってそばかすができたのと大騒ぎしているときも、彼女だけはそんな気苦労
とは無縁だったのに。ふだんから厚化粧をしている貴婦人たちなら、こんな吹き
出物も粉白粉で上手に隠してしまうのだろうが、オスカルはそんな術も知らない

 「しようがない、明日になったら治るだろう」
 そう考えてふたたび小さな溜め息をついたオスカルだが、身支度をして部屋を
出る頃にはもうにきびのことはすっかり忘れていた。

 出勤前の時間はあわただしく過ぎてゆく。今日一日やるべきことをざっと頭の
中で思い描き、快く気分が引き締まるひとときだ。すでに用意を整え玄関先で待
っていたアンドレと二人で馬車に乗り込み、ようやく一息ついたとき、アンドレ
がオスカルの顔を見てくすりと笑った。
 「なんだ。わたしの顔に何かついているか?」
 そう言った瞬間にオスカルはにきびのことを思い出して、思わず鼻の頭に手を
やった。そういえば、ばあやにも母上にも言われた。とくにばあやときたら、こ
の世の終わりが来たかのような馬鹿みたいな騒ぎようで……。
 「そのにきび、なんていうか知ってるか、オスカル?」
 アンドレが意外なことを聞く。
 「にきびに名前なんてあるのか」
 「“想われにきび”って言うんだ。額の真ん中にできるのが想いにきび、鼻の
上にできるのが想われにきび」
 「なんだ、それ」
 「だからさ、おまえに恋をしている男がどこかにいるということさ」
 「おまえ意外と少女趣味だな。そんな迷信じみたこと」
 「はは。でも案外、意外な男がおまえに恋をしているのかもしれないぞ」
 「馬鹿馬鹿しい。そんな物好きがいたらお目にかかりたいよ」

 アンドレの軽口を笑って受け流しながら、オスカルは心のなかで思う。自分に
恋をする男。果たしてそんな酔狂な男が自分の前に現れることなどあり得るのだ
ろうか。こんなにも、昼も夜もフェルゼンへの熱い想いに身を焦がしている自分
のことを、肝心の当人はこれっぽっちも女として見てくれていない。心から尊敬
できる友人、性別の違いを越えた……だけど、それがなんだというのだ。いつも
いつも優等生の仮面を被って、お目出度いことにフェルゼンとアントワネット様
の逢瀬の手引きまでして、そしてフェルゼンの前では物分かりのよい親友然とし
て振る舞うことには、もう心底疲れ果てた。なのにフェルゼンの前に出ると、相
変わらず分厚い殻を破れない自分がいる。わたしはきっと、自分で思っているよ
りずっと臆病なのだな。フェルゼンとの今のような関係に苦しみながら、それを
失うことを恐れているのだから。

 アンドレはアンドレで、心の中で深い溜め息をつく。意外な男だなどと、こん
なつまらぬ冗談にまぎらわしてしか自分の恋心を表に出せない今の立場をつくづ
く情けないと思う。物思いに沈んだオスカルが考え込んでいるのは、おそらくか
の麗しき北国の貴公子のこと。オスカルには気の毒だが、フェルゼンが見かけに
よらず堅物で、アントワネット様一筋だったのが自分にとっては幸いだった。い
や、きっとそんな男だからこそ、オスカルは彼に惚れぬいたんだな。まったく、
おまえも損な性分だな。絶対に叶うわけがないと分かっている相手に惚れるなど
。でもその点では俺も同じか。絶対に叶わぬ相手にこんなにも身を焦がして、い
いかげん頭がどうにかなってしまいそうだ。もしかしたら俺たちは、似たもの同
士なのかもしれないな。

 ふだんに似合わず物思いに沈みこんだ二人を乗せて、馬車は朝の爽やかな空気
の中を軽やかに駆け抜けて行くのだった。


 磨き上げられた廊下を通って、司令官室に向かう。この扉をあけると、明るい
陽光が流れ込む大きな窓に背を向けて、あの人が座っている。その姿を思い描く
だけで心がざわめき、まるで初心な青年のように胸がときめく。それは彼が一日
で一番好きな時間だった。ジェローデルは扉の前で襟元を正すと、ノックをして
美しい上官の待つ部屋に入る。
 「おはよう。ジェローデル大尉」
 にこやかに自分を迎えるあの人の笑顔はいつもと変わらない……はずだった。
一瞬彼の目は美しい上官の鼻にくぎづけになる。にっこりと笑う彼女の鼻の上に
は、ひどく無粋な赤いにきびが……。ジェローデルの瞳には一瞬苦笑いとも困惑
ともつかない複雑な表情が浮かんだ。が、すぐに冷静な部下の顔に戻って、いつ
ものように朝の簡単な報告と打合せをおこなう。けれども、オスカルは見逃さな
かった。打合せをし終わって後ろを振り向く瞬間、ちらりと自分の顔を見た彼の
視線と、彼の上品な口許に浮かんだ小さな笑いを。すでに何人もの人間に指摘さ
れた後だったので、さすがの彼女もその小さな笑いが意味するところは理解でき
たのである。
   

 「まあ、オスカル……」
 その日の午後、アントワネットから呼び出しを受けて小トリアノンに出向いた
オスカルは、予想した通りのアントワネットの反応に出くわすことになった。
 「あなた、いけないわ。せっかくのきれいな肌が。夕べは夜更かしでもしたの
ではなくて? ちょっとこっちへいらっしゃいな」 
 相手に答える隙をあたえず矢継ぎ早に言葉を発すると、アントワネットはオス
カルの手を取り、衝立の向こうにひっぱって行った。その仕種は一国の女王と近
衛連隊長というよりは、まるで仲良しの若い令嬢同士のようだ。こんなところが
この方の素直でかわいいところなのだと微笑ましい気持ちになると同時に、その
素直な感情の発露にオスカルは一抹の不安を覚える。

 「わたくしもね、ほんのときたま小さな吹き出物ができて困るときがあるのよ
。だって輝くような白い肌は女の命ですもの。ほら」
 そう言いながら、アントワネットは小さなガラス細工の瓶に入った薬らしきも
のを取り出し、オスカルの鼻の頭に手ずからそっと塗りつけた。
 「吹き出物にはこのお薬がよく効くのよ」
 「恐れ入ります、陛下」
 「そんな他人行儀な口をきかないでちょうだい。こんな時くらい、あたりまえ
のお友達らしくふるまっても罰は当たらなくてよ、オスカル。それにあなたはこ
のごろちっとも小トリアノンに来ないのね」
 アントワネットの口調にはどこか寂しげな響きが感じられ、オスカルはつと胸
を突かれる思いがする。けれどもそんな気持ちを無理に押し殺して、オスカルは
言った。
 「アントワネット様。何度も申し上げておりますように、わたくしはベルサイ
ユ宮でアントワネット様のお戻りをお待ち申し上げておりますゆえ」
 「また、そのお話……? オスカル、あなたも相当な頑固者ね。そういうとこ
ろは、お父上のジャルジェ将軍ゆずりなのかしら」
 アントワネットが苦笑しながら言う。
 「オスカル。わたくしはあなたやポリニャック夫人や、その他わたしくが心か
ら信頼できる気持ちのよい方々をゆっくりお迎えするために小トリアノンに移っ
てきたのよ。ベルサイユ宮には必要な時に戻ればよいのですもの。いったん公務
を離れたら、あとは気の合う方々とゆっくりと人間らしい時間を過ごしたい……
それがそんなにいけないことかしら?」
 「恐れながら……女王としてのお立場を考えれば、賢明なお振る舞いではなか
ろうと存じます……」
 自分でもいやになるほど繰り返した言葉を、今日もオスカルは繰り返す。言っ
ている本人ですら口にタコができそうなくらいなのに、それを聞かされるアント
ワネットはさぞうっとおしいことだろうと、半ば同情を感じながら。
 「ああ、オスカル。あなたはいつでも本当に正直で真っ直ぐなのね……。それ
だから、きっとわたくしはあなたのことが好きなのよ。でもねオスカル、それだ
けでは割り切れないことも、世の中にはたくさんあるのよ。あなたにだってある
でしょう、そんな経験が?」
 「……はい……。恥ずかしながら……」
 ほらごらんなさいと言うように、アントワネットがにっこりと微笑む。こんな
時のいたずらっぽい彼女の表情は、同性のオスカルの目から見ても、とても魅力
的だ。

 アントワネットが言うように、今のオスカルには、アントワネットの気持ちも
、アントワネットが言わんとするところもよく理解できるのだった。昔は見えな
かったいろいろなものが見えるようになった。たしかに自分は変わった。おそら
く、人を愛するということを知ってから。それでもやはり、アントワネットを取
り巻く下らない貴族連中が彼女に迎合するようなことしか言わないかぎり、どれ
ほど疎まれようと真実を述べるのが自分の義務だと思うのである。
 ふとフェルゼンのことを思い出す。フェルゼンはどう考えているのだろう。彼
だってこんな状況を良いとは思っていないはずだ。立場が立場だから、表だった
行動は取りにくいのだろうが……。それとも人は恋をすると盲目になるという諺
通り、彼もまたアントワネット様にはついつい甘くなってしまうのだろうか。
 「フェルゼンは今日はもうこちらに参りましたか?」
 「フェルゼンは、ここへは来ません」
 何気ないオスカルの質問に答えたアントワネットのいつになく沈んだ口調が、
小トリアノンを辞したあとも、オスカルの耳についてはなれなかった。


 今日のアントワネット様はどことなく沈みがちで寂しそうだった。たいした用
もないのにわざわざ自分を呼びつけたのも、そのためなのだろうか。もしかして
、フェルゼンとの間に何かあったのだろうか……? 
 物思いにふけりながらベルサイユ宮の広い廊下を歩いていたオスカルは、自分
の方を見てなにやらひそひそ話をしているらしい貴婦人の一団にふと気がついた
。どうせまた、わたしの赤鼻を笑っているのだろうな。今日はこれで何度目だろ
う。なんだって誰も彼もがこんなにきびのひとつやふたつで大騒ぎをするのだろ
う……。こんなことでは、フェルゼンにも何を言われるか分からない。願わくば
今日一日、フェルゼンにだけは会いたくないな……。無意識のうちにそんなこと
を考えて、オスカルは自分で自分の感情の動きに驚いた。
 自分の容姿など、今までたいして気に掛けたことはなかった。それどころかも
っと若い頃は、容姿の美しさを大袈裟に褒められるとかえって不愉快になったも
のだった。自分は女だから、中身よりもまず容姿を問題にされるのだ。男だった
ら外見の美しさなど問題にならない。実力だけで堂々と世の中を渡ってゆくもの
を。そう考えて、人知れず悔しい思いをしたこともあった。それなのに今の自分
ときたら、フェルゼンにこんな顔を見られたくないなどと、まるで初心な令嬢の
ようなことを考えている。オスカルは首を左右に振ってつまらない考えを頭の中
から追い出しにかかった。まったく自分としたことが、こんなにきびの一つや二
つで動揺するなどどうかしている。

 けれども感情は理性よりもはるかに素直で正直なもの。とりわけ恋という名の
魔物にとりつかれた人間にとっては。つまらぬ雑念を頭から追い出し、凛々しい
連隊長の顔に戻ったオスカルだったが、こちらに近づいてくるフェルゼンの姿を
認めたとたん、考えるより前に反射的に柱の後ろに一歩退いてしまった。しかし
完全に身を隠してしまうのも躊躇われ、かといって自分から彼に声をかける勇気
もなく、結局柱に半分身を隠した中途半端な状態でフェルゼンに見つかってしま
った。フェルゼンは半分柱の陰に埋もれた彼女に気づくと、いつものように朗ら
かに彼女の方に近づいてきて言った。
 「オスカルどうした、そんなすみの方に突っ立って」
 そう言った瞬間、彼の視線が自分の鼻に向けられるのをオスカルは感じた。
 「オスカル、どうしたのだその鼻は……」
 フェルゼンが一瞬言葉につまる。フェルゼンとて、妙齢の女性に面と向かって
にきびを指摘するほどの野暮天ではない。ただ、オスカルのことは普段から誰よ
りも気のおけない親友と見なしていたので、思わず正直なところを口に出してし
まったのだった。だが、言ったとたんに彼は後悔した。オスカルの顔に、普段見
せないような困惑の表情が浮かんだのを見たからだった。そんな彼女の様子がな
んとなくいじらしく感じられて、彼は優しい微笑みを浮かべながら言った。
 「オスカル、夕べは飲み過ぎたんじゃないのか? 気をつけないと、せっかく
の透けるように美しい肌が台無しだ。君はこんなに美しいのに」
 「美しい?」
 「ああ、そうだよ。ベルサイユのどんな貴婦人よりも美しい。君はわたしの自
慢なのだから、少しは気をつけてくれたまえ。美しき親友殿」

 そう言ってにっこりと彼女に微笑みかける。いつもならオスカルが嫌がると思
ってあえて口に出さないことを(けれども、心のうちではいつも感じている正直
な気持ちを)、フェルゼンは初めて口にした。そうして改めて思う。オスカルは
誰よりも美しい……そう、あの方と並んで少しもひけをとらないほどに。彼女は
こんなにも美しく魅力的な女性だというのに、天はどれほど過酷な運命を彼女に
与えていることだろう。本来ならば誰よりも美しく装い、社交界の華と褒めそや
され、男たちからの求愛もひきを切らぬであろうものを。そんなふうに考えると
、目の前の彼女がなんとなくひと回り小さくなったように思え、その細い体にま
とった凛々しい軍服さえもが急に痛ましく感じられる。

 自分をじっと見つめるフェルゼンの熱っぽい眼差しに、オスカルは胸の高まり
を抑えることができなかった。それを悟られないように、あわてて別な方向に話
題を持っていく。
 「フェルゼン、アントワネット様のところへはまだ?」
 「ああ……。行っていない」
 フェルゼンはつと回りを見渡して、近くに人がいないことを確認すると、低い
声で言った。
 「あまり目立つ行動は控えようと決めたのだ。しばらくは小トリアノンにも上
がらないつもりでいる。君にもずいぶん心配をかけたが……」
 「アントワネット様は、そのことをご承知なのか?」
 なるほどそういうことだったのかと、オスカルはさきほどのアントワネットの
寂しげな様子を思い出しながら言う。
 「ああ、二人で話し合って決めたのだ。今は多少辛くとも、永遠にあの方に会
えなくなるよりはいいだろう? 第一、これ以上あの方を窮地に立たせるような
ことはしたくない」

 そう言った彼の瞳からは、さきほどの温かな光は消え、暗く鋭い陰が落ちてい
た。オスカルの一言でフェルゼンの思いはほろ苦い現実へと引き戻され、どれほ
ど恋こがれても互いに相見ることさえかなわぬ最愛の女性の姿が思い浮かんだ。
たしかにオスカルの運命は過酷だが……過酷という点では、あの方の運命も変わ
りないのかもしれない。女性として最高の栄誉を与えられ、富も尊敬も一身に集
めていながら、それらのものは決してあの方の心を満たすことはできない。本当
は情にもろく、素朴で素直な女性だというのに、いつも堅苦しい女王の仮面を被
って、正直な感情を表に出すことさえ許されない。ポリニャック夫人があの方に
取り入ることが出来たのも、あの方のそんな寂しさをうまく利用できたからだ。
それが分かっていながら、自分はあの方のすぐそばにいてあの方を守って差し上
げることさえできない……。
 「フェルゼン?」
 「あ? ああ、すまない。少し考えごとをしてしまった」
 そういって彼はふたたび微笑んだが、その微笑みからはどこか寂しげな陰が感
じられた。何も聞かなくても、フェルゼンの心がどこにあるのか、オスカルには
分かりすぎるほど分かっていた。それでも自分に注がれていた彼の優しいまなざ
しがふと遠くに逸れ、自分を通り越して遙かかなたへと向けられるのを目の当た
りにして、オスカルは言いようのない寂寥と失望を感じずにはいられなかった。

(続く)