Un bouton 〜にきび〜(2)


 「隊長、今日はお加減がすぐれないのでは? 顔色があまりよくありませんが」
 「え?」
 夕方近くになり司令官室に戻って一息ついたとき、オスカルはジェローデルから意外なことを言われた。彼女は思わずすぐそばにあった鏡を覗き込んた。すると例のいまいましいにきびがまっ先に目に飛び込んできて、うんざりした気分にさせられる。
 「叔母の家での晩餐のことですが……ご気分がすぐれないようでしたら、わたしの方からうまく断りを入れておきましょうか。内輪だけの晩餐のつもりでしょうから、差し支えはないと思いますが」
 そう言われて、オスカルはその日の夜、ヴェルヌイユ公爵夫人に晩餐の招待を受けていたことを思い出した。それにしてもこんなにきびを鼻の頭にはりつけたまま他家の晩餐に出かけてゆくのは、さすがに気分のいいものではない。そこまで考えて、オスカルはジェローデルのさきほどの言葉の意味を理解した。顔色がすぐれないなどというのは嘘だ。彼はオスカルを気づかって、彼女が晩餐を辞退しやすいように、わざとそんなふうに言ったのである。なるほど社交界での駆け引きに長けているだけのことはあるとオスカルは思う。
 彼の気づかいに甘えて、晩餐の誘いを断ってしまってもよかった。もともとそれほど気乗りのしない招待だったのだから。思い切って断ってしまおうかと考えたとき、オスカルの頭にふとこんな考えが浮かんだ。
 『わたしが本当の男だったら、こんなつまらぬことで彼に気を使わせることもないのだろうな』
 そう思った瞬間、彼女は妙なところで意地を発揮してしまった。
 「いや……気づかいはありがたいが、わたしなら大丈夫だ。公爵夫人もいろいろと準備をなさっていることだろうから、予定通り伺わせていただこう」
 言ってしまってからなんとなく間違った選択をしたような気がしたが、考えるのも面倒になって、投げ出してしまった。

 なるほど、彼女らしいあっさりとした態度だ……そう感じながらも、ジェローデルは少々複雑な気分だった。オスカルと晩餐の席を共にするのが楽しみでないといえば嘘になる。けれどもジェローデルには、それを素直に喜んでばかりもいられない事情があった。
ジェローデルの父方の叔母アデレーヌは、代々続く武官の家柄として名高いヴェルヌイユ公爵家に嫁いでいた。その公爵夫人からオスカルが晩餐の招待を受けるようになったのには、オスカルのあずかり知らぬ、こんな甥と叔母の会話があったのである。

 「ヴィクトール、あなたがいまだに身を固めようとしない理由がわかったわ」
 ある日の午後、叔母の屋敷に呼び出されてテラスでお茶を飲んでいたヴィクトールに向かって、アデレーヌは唐突に切り出した。
 「またそのお話ですか、叔母上。勘弁してください。結婚というくびきで自分を縛るには、まだ若すぎると考えているだけですよ」
 こういうことには異様に勘の鋭い叔母の一言にいやな予感を感じながら、ジェローデルは叔母の言葉を軽くかわす。
 「ジャルジェ大佐……あなたの上官はとても美人ね?」
 「……ええ」
 「わたくしの目を誤魔化せるとでも思って、ヴィクトール? 子供のころからあなたのことは何でもわかるのよ」
 「ええ……」
 これはどうやら逃れられそうにない……ジェローデルは心の中で諦めのため息をつく。

 実子のいないアデレーヌは、ジェローデル家の次男坊であるヴィルトールを子供の頃からとりわけ可愛がっていた。社交に長け、利口で、何にでもよく気のきく美しい叔母とヴィクトールはなぜかとても気があって、いまだによく行き来しているのである。
 「あの方なら美人で家柄もよくて、あなたにとって申し分のない相手だと思うわ」
 「ちょっとお待ち下さい、叔母上。わたしはそのようなことは……」
 「では、何なの? 好きな女性をものにしようと努力もせず、あなたはただ指をくわえて見ているつもり?」
 「彼女は……特別ですから。普通の貴婦人とはわけが違う」
 そう言いながら、自分の言葉にいかにも説得力がないのを、ジェローデルは感じる。そうだ、彼女が特別な育ち方をしたからといってそれが何だというのだろう?
 「そんなこと、やってみないとわからなくてよ。あなたらしくもない、ずいぶん気の弱いことね。まあ、わたくしに任せておきなさい。悪いようにはしないから」
 こんなとき、叔母に反抗しても無駄なことをジェローデルはよく理解していた。いざとなればその場で自分がなんとかフォローすればよいと考えて、ジェローデルはそれ以上この件については深く考えないことにした。それにしても、いつ叔母に見抜かれたのだろう? 自分はそれほど露骨に彼女への気持ちを顔に出していたのだろうか? 自分では充分すぎるほどポーカーフェイスのつもりでいるのだが。

 叔母とのこんな会話があって数週間後、宮廷で催された舞踏会で警備の役にあたっていたジェローデルは、オスカルと何やら話し込んでいるらしい叔母の姿を見て、慌てて二人の方へ近づいていった。
 「叔母上、お久しゅうございます」
 オスカルに軽く黙礼してから、何食わぬ顔をして叔母に話しかける。
 「あら、ヴィクトール。今日はお勤めなの? 御苦労さま……。いまね、ジャルジェ大佐と宅の蔵書についてお話ししていたところよ」
 「君の叔母上殿は実に博学でいらっしゃる。公爵家では、わたしが以前から読みたい読みたいと思っていて、いまだ手にとる機会がなかった文献をたくさんお持ちなのだ。……さすがはヴェルヌイユ公爵家だけあって、貴重な資料をたくさん揃えておられますな」
 オスカルは心底興味を感じているらしく、目を輝かせてアデレーヌに話し掛ける。
 なるほどその手できましたか……。ジェローデルは自分の立場も忘れて、叔母の策士ぶりに感心した。軍関係の蔵書になど、あなたはまるきり興味をお持ちじゃなかったでしょうに。

 ちらりと自分の方を見たヴィクトールの瞳に軽い非難の色が混ざっているのにも頓着せず、アデレーヌはにこやかに続けた。
 「この子は子供のころから、よく宅の図書室にこもって本を読みあさっておりましたの。ジェローデル家は軍人の家柄ではございませんのに、この子が軍人になったのにはそんなことが影響したのでしょうか」
 「なるほど。そんな話は初めて聞いたな、ジェローデル。わたしも子供の頃からよく、何時間も図書室にこもって軍記などを読みあさったものでした」
 懐かしそうに目を細めてオスカルが言う。
 「そうだわ。もしよろしければ、一度宅の蔵書をご覧にお越しになりませんか? 主人が病気で軍を退いてからというもの、せっかくの宝の山が眠ったままになっていますの。わたくしなどが気まぐれに紐解いてみても、本当の値打ちは理解できませんもの。内輪だけの気軽な晩餐にでも、ぜひご招待させて下さいませ。主人も喜びますわ」
 そしていかにも付け足しのように言う。
 「そうそう、あなたもね、ヴィクトール。ジャルジェ大佐をご案内して頂戴。ジャルジェ大佐も初めての家に一人でお越しになるより、あなたと一緒の方が気が楽でしょう」
 ジェローデルは予想した通りの結末に、なるようになれと半ばやけ気味に腹を括った。話がこうとんとん拍子に進んだのでは、横やりの入れようもないではないか。

 こんなわけでオスカルは、親しく付き合いのあるわけでもない公爵家のごく家族的な晩餐に、いきなり招待されることになったのである。内輪の晩餐となれば、わざわざ従者を連れて行くわけにもゆくまい。その場の雰囲気に乗せられてつい招待を受けてしまったものの、あとで考えるとなんとなく気が重かった。たしかに宝の山のような蔵書には興味津々だったのだが……。


 古書独特の古びた香りを胸一杯に吸い込みながら、オスカルは天井まで隙間なく並べられたヴェルヌイユ家の見事な蔵書を見渡した。
 「ああ懐かしいな、こんな本が……」
 オスカルが嬉しそうに次々と本を手にとるのを見て、ジェローデルもまた微笑みながら彼女が手にした本を覗き込む。


 アデレーヌはつい先程、待ち兼ねたようにオスカルを図書室に案内すると、召使から急な呼び出しを受けて名残惜しげに部屋を辞したのである。わが叔母ながら、こういった間合いの取り方は絶妙だとジェローデルは思う。これではオスカルでなくとも、この招待の目的がオスカルと自分に二人きりで話をさせることだとは気がつかないだろう。もっとも恋の手練手管にはまるきり疎いらしい彼女は、そうでなくても何も気づかないだろうが。つまり自分は異性としてまったく意識されていないということだな……ジェローデルは心の中で苦笑する。
 「タキトゥスはわたしも夢中になって読みました。けれど当時のわたしには彼のラテン語はひどく難解で。早く続きが読みたいものだから、ラテン語教師の目を盗んでこっそり仏訳版を手に入れて読んだものです。あとで見つかって、さんざん厭味を言われましたがね」
 「はは、わたしもラテン語の教師にはひどい目に合わされたものだ。どうしてラテン語の教師というのは、ああも仏頂面の朴念仁ばかりなのだろう」
 「あはは、仏頂面の朴念仁はいい。彼らは過去の亡霊に取りつかれた生きる屍みたいなものですからね。……こちらの本はお読みになりましたか?」

 やはり叔母には感謝すべきなのだろうな……すっかり寛いで、どことなく楽しげな様子のオスカルを見て、ジェローデルは思う。今日の彼女はいつもと雰囲気が違う。普段の軍服ではなく、男装とはいえ軍服より柔らかいラインの上着とキュロットを身につけているせいだろうか。それとも……そう考えて、ふとジェローデルは、いつも彼女の側に控えている黒髪の従者が、今日は彼女のそばにいないからだと思いいたる。
 「今日はアンドレ・グランディエを連れてこなくてよろしかったのですか?」
 「わたしたちはまるで二人でやっと一人前のように思われているらしいな」
 オスカルが苦笑する。
 「そんなわけではありませんが……。あなたのそばにいつも彼が控えているのが、あまりにも自然な光景になってしまっているものですから」
 「ふふ。彼とは子供の頃からずっと一緒だったから」
 「身寄りをなくした彼を、ジャルジェ将軍が引き取られたのだと聞いています」
 「ああ。わたしはこんなふうに特殊な育てられ方をしたものだから、当時友人と呼べる相手が誰もいなかった。彼はわたしの遊び相手兼護衛として引き取られたのだ。たしか、わたしが7つの時だったかな」

 自分が知らない幼いころのオスカル。おそらく天使のように可愛かったことだろうとジェローデルは思う。そしてそんなにも長い年月をあのアンドレ・グランディエは彼女のすぐそばで過ごしてきたのかと思うと、ジェローデルは胸の奥にかすかな嫉妬が湧くのを覚えた。
 「実にうらやましいことですね」
 「何が?」
 「そのような……信頼に足る人間が幼いころからずっとそばにいることが」
 『あなたのそばにいられることが』本当はそう言いたかった。だが今はまだそれを言うべきときではない。まだ機は熟していない……。 
 「そうだな。彼には感謝している。彼がいなければ、わたしは果たして一人でここまでやってこられたかどうか」
 「あなたなら、一人でも充分やってこられたと思いますよ。ただ……」
 「ただ?」
 「あなた方には、主従や男女の違いを越えた特別な絆があるように思います。部外者が誰も入り込むことのできないような。見ていて、ときどき嫉妬さえ感じますよ」
 ジェローデルは自分の言葉が重い響きを与えすぎないように、慎重に言葉を選びながら言う。
 「ふふ、そんなものかな」
 「ええ。虚栄と権謀術数が渦巻くこのベルサイユで、心からの信頼や友情は本当に得難いものですから。わたしは幼いころから、他人を信用しないように、自分の実力だけを頼りに生きていくようにと言われ続けてきました」
 「君のクールシニカルな個性はそんなところから来ているのかな。だが、わたしは君のことも充分信頼に足る男だと思って頼りにしている」
 「ありがとうございます」

 これでよい……。今はこれだけで充分だ。彼女が自分のことを信頼し、頼りにしてくれているという言葉だけで。今度こそ、ほんとうにアデレーヌ叔母には感謝せねばなるまいな……。ジェローデルは心の中に、温かく甘やかな波がゆっくりと広がってゆくのを感じていた。

(続く)