Un bouton 〜にきび〜(3)
「ここらあたりでいいだろう、オスカル」
爽やかな春の風が拭き抜けてゆく小高い丘の上で、オスカルとアンドレは馬の歩みを止めた。足元ではやわらかな若草が新鮮な香りを放ち、鮮やかな緑がなだらかな斜面を描きながら、はるかかなたまで続いている。
「ああ、ここは風が通って気持ちがいい。では、そろそろ昼食にするか」
ヴェルヌイユ家の晩餐に招かれた翌日、いつものごとくオスカルの突然の思いつきで、彼女とアンドレは久々の遠乗りに出たのだった。急なことだから食事の用意はごく簡単に、ただしオスカルの希望でワインだけはこっそり多めに忍ばせて。
「すぐ用意をするから待ってろ」
そう言って手際よく包みを解いていくアンドレの器用な手つきを、オスカルは見るともなくぼんやりと眺めていた。
「きのうの晩餐はどうだった? お目当ての古書は見つかったか?」
食事の支度をする手を休めずに、アンドレが言う。
「ああ、たくさんあった。さすがはヴェルヌイユ公爵家だ。それに公爵夫人は実にそつのない利口な婦人で……そういやあの二人、なんだか雰囲気が似ていたな」
「あの二人?」
「公爵夫人とジェローデルだ。なんとなく仲のよい親子みたいな感じだった」
「彼は公爵夫人のお気に入りというわけか」
「だが公爵は自分の甥を養子に迎えられたそうだ。夫人の方では、おそらくジェローデルを養子にしたかったんだろうが」
「ジェローデルが軍人になったのは、公爵夫人の意向があってのことなのかな」
「いや。子供の頃から軍人に憧れていたそうだ。見た目が軟派だから、とてもそんなふうには思えないが。でもジェローデルは意外と気さくで面白いやつだったぞ。あいつ、勤務中はなんだか取り澄ました気障な顔をしているがな。音楽や絵画のこともよく知っているし。……でも」
オスカルは子供の頃から変わらない無邪気な瞳でアンドレを見上げる。それはおそらく、彼女が幼なじみの自分の前でだけみせる表情だとアンドレは思う。
「やっぱりおまえと飲むのが一番いいな。人の屋敷で飲むのはなんとなく気疲れする。今日はこんなに天気もよいことだし、二人でゆっくり飲もう。ワインはたくさん持ってきたのだろう? 今日はなんだかとことん飲みたい気分なのだ。ワインが足りなければ、屋敷に戻ってから飲み直してもいい」
まるで玩具をねだる子供のようなオスカルの口調にアンドレは苦笑したが、「おまえと飲むのが一番いい」と言われて、やはり嬉しかった。
オスカルの心が誰にあるかはよく分かっている。そしてオスカルにとってジェローデルが優秀な部下以上でも以下でもないことも分かっている。けれどもジェローデルには自分が決して持つことのできない貴族という身分があり、もし彼がその気になりさえすれば、正々堂々とオスカルに求愛することもできるのだ。おそらくオスカルは問題にしないだろうが……。それでも、まったく気に掛からないと言えば嘘になる。彼は優秀な武官で、オスカルの信望も厚い。誰が見ても非の打ちどころのない人物なのだから。
そこまで考えてアンドレは、オスカルに近づく貴族の男のすべてに嫉妬を感じざるを得ない自分の立場をつくづく因果だと思う。もし彼女に正々堂々と愛を告げる資格が自分にあるのなら、決してジェローデルのように逡巡などしないものを。
その日のオスカルはいつもにもまして饒舌で、心の底から楽しそうに笑った。最近の彼女は何かに取りつかれたように、何かから逃れようとでもするように仕事に没頭して、まるで今にもぷつりと切れてしまいそうな、張り詰めた糸のような危うさを漂わせている。アンドレの前では以前と変わらぬ屈託のない様子を見せているが、それでも何かの折りにふっと深い物思いに沈み、黙りこんでしまうことがあった。そんなとき、彼はどうしてやることもできず、ただもどかしさと切なさに胸を詰まらせながら、黙ってその場をやり過ごすしかない。だからこんなふうに、ちょっとした冗談にも可笑しそうに笑いころげるオスカルを見ると、アンドレは嬉しかった。彼女が苦しい片思いのことも仕事のことも何もかもを忘れて、たまの休暇に少しでも幸福な時間を過ごすことができれば、彼もまたそれで幸福だった。
ワインが疲れた体にほどよく回り、オスカルはふわふわと空中を浮遊するような夢見心地の気分にとらわれはじめた。
『君はわたしの自慢なのだから』……そんなフェルゼンの言葉が、ときどき暖かい空気のかたまりのようにふわりと胸の中に沸き上がってくると、甘く、切ないような喜びで胸がいっぱいに満たされる。フェルゼンがわたしのことを女性として美しいと言い、わたしのことを自分の自慢であるとさえ言ってくれた。彼がオスカルをあからさまに女性扱いにしたのは、これが初めてだった。たったそれだけのことで、世界が急に優しい空気に包まれたような気分になるのはなぜだろう。人間とはなんて他愛のないものなのだろう。一緒に飲んでいるアンドレさえもが、いつにもまして幸福そうな穏やかな顔をしているように感じられるのはわたしの思いすごしだろうか?
『男のおまえの目から見て、わたしは女として魅力的に見えるだろうか?』
酔った勢いでふとそんなことをアンドレに聞いてみたい衝動にオスカルはかられたが、苦笑して自分の言葉を呑み込んだ。なんだか最近のわたしは自分ながら調子っぱずれだ。それもこれも、柄にもなく恋などしてしまったせいだろうか。男として育った自分が男に恋をするなど、考えても見なかった。おまえは気づいているのだろう、アンドレ? そして呆れているのだろう? それでもおまえはわたしを昔と変わらず黙って受け入れてくれる。おまえも、誰かに焦がれるほど恋したことがあるのか? そういえばそんな話、おまえの口から一度も聞いたことがなかったな。
「アンドレ、おまえは……」
そこまで言いかけて、オスカルはふと口をつぐむ。
「ん? なんだオスカル」
「おまえは……恋をしたことがあるのか?」
アンドレは一瞬言葉に詰まったが、絞り出すような声で言った。
「ああ、あるよ……」
アンドレの瞳の奥に、かすかな炎がひらめく。
「ふうん。おまえが好きになる女だったら……きっと素直で気立てのよい娘なのだろうな」
そう言いながら、オスカルはなぜか胸の奥がちくりと痛むのを感じた。
誰もが恋をして恋を成就して、生涯を共にする伴侶を見つけて、そしていつかアンドレも……。そこまで考えると、彼女の心臓はふたたびしくしくと痛み始めた。
そうして、いつかわたしだけがひとり取り残されるのだろうか。男でもなく、女でもなく。誰かを愛することさえ許されず、一人で生きる運命をこの身に背負って。いままで自分の生き方を寂しいなどと思ったことはなかったが……。
「まさか。とんでもないはねっかえりで、気が強くて……。でも、俺にとっては最高にかわいい女性なんだ。片思いだけどな。たぶんずっと……」
彼女に自分の気持ちを気づかれてはいけないという自制心と、彼女に自分の気持ちを知って欲しいという矛盾した二つの思いを胸に抱きながら、アンドレは一語一語を噛み締めるようにゆっくりと言う。
「そうか。そんな相手がいるんだな、おまえにも」
ぽつりと言ったオスカルのどこか寂しげな様子に、アンドレははっと胸を突かれる思いかした。いっそこの場で彼女に自分の思いを打ち明けてしまったらどうだ? 彼女はどんな顔をするだろう。驚くだろうか、それとも、笑って取り合わないだろうか? アンドレは一瞬、彼女の腕を捕らえて引き寄せ、自分の想いのすべてをぶちまけてしまいたい激しい衝動にかられたが、かろうじて耐えた。彼女に自分の想いをぶちまけて、そして一体どうしようというのだ、自分は?
長年一緒に暮らしながら、今まで彼とこんな話をしたことはなかった。わたしはきっと、持って生まれた自分の自然な性と向き合うことを恐れていたのだ。でも本当にそれだけだろうか? 子供の頃からいつでもアンドレがすぐ側にいて、自分のことを一番に考えてくれる生活をあたりまえだと思ってきた。だから……自分が知らないアンドレの男としての別の顔を見るのがこわかったのではないのか?
彼が結婚もせず家庭も持たず、ずっと自分の側にいてくれたことで、わたしはどれほど孤独を癒されてきたことだろう。今さらながら、オスカルは思う。そう、おまえがいなければ、きっとわたしはどうしようもなく孤独だった……。
二人とも大人になって、恋をして。わたしと同じように、おまえも片思いなんだな。だけど、おまえがいつか愛する女性と思いを通じ合うことがあったなら、わたしは親友として、乳兄弟として、まっさきに、誰によりもおまえの幸福を喜んでやらなければならない。おまえが長い間、いつもわたしの幸福を第一に考えてくれたように。そう、いつかそんな時がきたら……。
さっきまでの幸福な気分はどこかに消えてしまい、胸の中にじわじわと広がりつつあった淋しさがぎゅっと濃縮されて、ふと涙に変わってしまいそうな自分の気分の変化に驚いて、オスカルはとっさに彼の名前を呼んだ。
「アンドレ」
「え?」
彼女の深い声音に、アンドレの心臓は思わず高鳴る。
「なんだか眠くなった。膝を貸してくれないか」
「あ? ああ」
「久し振りに……子供のころのように。たまにはいいだろう?」
視線をわずかに逸らしながら、少しはにかんだようにつけ加える。
「はは。では子供のころのように、おれが歌でも歌ってやろうか?」
「ふふ……。それもいいかもな……」
だけど今はもう少しだけおまえに甘えさせてくれるか。今はまだいいだろう、少しくらいなら? わたしが聞き分けのない子供のように甘えられるのは、この世でおまえ一人だけなのだから。
一体どういうつもりだ、オスカル? おまえのそんな目付きが、仕種が、おれの心にどんな火をつけるかおまえは知っているのか? もうどんなことになったっておれは責任を取れないぞ。おれはもう自分の自制心に自信がなくなった。いや、自信なんてとっくの昔からないのだが……。
自分の膝の上に見事な金髪を惜しげもなく散らし、すぐに寝入ってしまった彼女を見下ろしながら、アンドレは酒場で気を失った彼女の唇に自分の燃えるような唇を押しつけた日のことを思い出した。今だって、いっそあのときのように彼女の唇を奪ってしまえば……。薔薇色の唇はまるで彼を誘うかのように僅かに開かれ、規則正しい寝息が漏れている。
けれども彼女の柔らかな唇にそっと触れた手を、彼はそのまま静かに下ろした。熱い思いに胸を焦がしながら、彼はオスカルの束の間の眠りを妨げないように微動だにせず座っていた。頬をやさしく撫でる風が、さわさわと木々の梢をざわめかす音に聞き入りながら……。
翌々日も早朝から抜けるような青空が広がっていた。今日一日の幸福を約束するような、誰もが理由もなくうきうきと幸福な気分にさせられるような、そんな美しい朝の訪れにもかかわらず、薔薇の香が漂う豪奢な部屋で、鏡に向かって憂鬱そうに溜め息をつく男が一人いた。
「なんてことだ……」
磨き上げられた鏡に写った端正な顔の、とくに彼が気に入っている美しい額のど真ん中に、ぶかっこうな大きなにきびが一つ……。
「まったく、これではまるで十代やそこいらの血気さかんな青二才のようではないか。こんな年になって、にきびなど」
それはジェローデルの美意識をひどく傷つけたが、美しい上官が同じようにぶかっこうなにきびを鼻の頭に作っていたことを思い出すと、ふと小さな笑いを洩らした。
「伝染性かな、これは?」
慰めにもならぬ冗談を自分に言って、彼は仕方なしに無様なにきびを額に貼りつけたまま出仕した。
ジェローデルは男なだけあって、周囲の人間も彼のにきびをさほど気に留めなかった。屋敷を出てからはジェローデル自身もにきびのことをすっかり忘れていたのだが、意外な人物が彼ににきびのことを思い出させたのだった。
「そのにきび、なんと言うか知っているか、ジェローデル?」
朝の報告と打合せを済ませたあと、オスカルがいたずらっぽく笑いながら言った。
「え?」
オスカルの意外な問い掛けに、ジェローデルは怪訝そうな顔をした。
「“想いにきび”と言うらしいぞ」
「は? 想いにきび……ですか」
「ここにできるのが想いにきび、ここにできるのが想われにきび」
そう言いながらオスカルは、アンドレに教えられた通りに自分の額と鼻を順番に指差してみせる。
「つまり、君は誰かに恋をしているということらしい。図星かな、ジェローデル大尉?」
ふだんに似合わぬオスカルの軽口に、ジェローデルの口許が思わず緩んだ。こんな他愛のない冗談口を叩くということは、少しは自分に気を許してくれているということなのだろうか。氷の花と言われるいつもクールな彼女が、いたずらっぽい目をして冗談口をたたく姿は、なんだかとても新鮮でかわいらしい。ジェローデルは思わず本音を洩らした。
「だとしたら、それはあなたですよ」
「?」
「だってあなたはつい先日、鼻の上に“想われにきび”を作ってらしたじゃありませんか」
「ああ、なるほど。はは、それも意外な組み合せで面白いかもしれないな」
屈託なく笑うオスカルを見つめながら、ジェローデルは思う。まったくあなたという人は、男の気持ちなどからきし分かっていない。こんなにもあなたに恋焦がれている男が二人も(……というのは、本当は認めたくないのだが)すぐ側にいるというのに、そんなことにもまったく気づいていないのだから。
『彼女はこんな他愛のない冗談口を、あのアンドレ・グランディエとはいつも言い合っているのだろうな……』
ふとそんな考えが浮かぶと、幸福な気分に酔い痴れていたジェローデルの心はチクリと痛んだ。
まあよい。彼は彼女にとってかけがえのない幼なじみなのだから。しかし当のアンドレ・グランディエにとっては、それもけっこう辛い立場なのだろう。彼が彼女にとってどれほど親密な男であるにせよ、彼は彼女に求愛する権利を一生得ることができないのだから。アンドレ・グランディエには彼女に愛を乞うだけの身分がなく、自分には彼女の心に入り込むほんのわずかな隙間さえない。
いつになく華やいだ雰囲気のオスカルを見つめながら、ジェローデルは思う。ほんとうに、この人にはかなわない。もう後戻りができないほどに深くとらわれてしまいそうだ。でも、今のうちに引き返した方が賢明じゃないか、ヴィクトール? この恋はあまりにも歩が悪すぎる。勝算のない賭けなど、いままで一度もしたことがなかったじゃないか……。
そんな甘やかな葛藤を心の中で繰り返しながらも、ジェローデルは美しい上官との間に流れるひとときの穏やかな空気を、こころゆくまで楽しむのだった。
アンドレはちょうどその頃、オスカルに頼まれた資料をまとめて、司令官室に向かっていた。窓の外へ目をやると、青々とした若葉が午前の澄んだ日の光を受けて、きらきらと輝いている。その光景は、一昨日オスカルと遠乗りに出かけた小さな丘の上の風景を思い出させた。若葉の美しさに心ひかれて、アンドレはふと立ち止まった。自分の膝の上で寝入ってしまったオスカルの芳しい息づかいや、膝に乗せられた彼女の頭の心地好い重みが知らず知らずのうちに思い出される。
そのとき背後から誰かの足音が聞こえ、ふと我にかえったアンドレは、ぼんやり窓の外を眺めている自分の様子に自分で苦笑しながらふたたび早足で歩きだした。端正な口許に浮かんだ小さな微笑みに、ひとときの儚い幸福の名残をとどめながら。
それは、やがて彼らを押し流し飲み込んでしまう嵐のかけらほどの前触れさえなく、それぞれが若い日々を精一杯に生きていた美しい時代であった。今はほんの少しだけ幸福な、けれども心の奥底には溢れるほどに切ない思いを抱えた三人の恋する若者たちを優しく包み込むように、春の明るい陽光がベルサイユに静かに降り注いでいた。
FIN
|