月の輝く夜に


 それは六月の美しい夜のことだった。蒼々と冴え渡った月が、まるで天上の清らかな世界から降り注ぐ神の慈愛のように、暗く不安な世の中を静かに照らし出していた。

 真夜中に突然アンドレを連れて現れたオスカルさまは、以前より少し痩せられたようだった。その顔色は優れず、色濃い疲労のあとが痛ましかった。鋭利な刃物のようにぴんと張り詰めた空気がオスカルさまの周囲に漂い、ただその青い瞳だけが強い意志の光を放ってきらきらと輝いていた。
 それでもアベイ牢獄の一件をベルナールにゆだねると、オスカルさまはようやく肩の荷を下ろしたようなほっとした表情を見せて席を立たれた。そのとき、オスカルさまの夏物の薄いマントがするりと椅子から滑り落ちた。それを拾い上げたアンドレが、流れるような自然な動作でオスカルさまの肩にふわりと着せかけると、労るように肩に手を置いた。オスカルさまはアンドレの方を振り向いて小さく微笑まれた。そんな何でもない光景までもが、今でも鮮明に記憶に残っている。

 帰り際、オスカルさまはわたしの肩に手を置くとおっしゃった。
 「では行くよ、ロザリー。元気で……」
 「オスカルさまこそ、あまりご無理をなさらないで。お酒はなるたけ控えてくださいね。お願いですから」
 懇願するように言うわたしの言葉に、オスカルさまの口元が小さく綻んだ。
 「ふふ、まるでばあやのような口を聞く」
 そう言いながら微笑んだオスカルさまの顔は、月の光を浴びて壮絶なまでに青白かった。そのときわたしはふと、このままオスカルさまが淡い光の中に溶けて消えてしまうのではないかという不安に襲われた。背の高い二人の後ろ姿が路地の角に消えたあとも、わたしはぼんやりとその場に立ち尽くしていた。心が妙にざわつき、言葉にならない不安が足元から這いのぼってくるような、そんな不吉な予感に身を苛まれながら。

 わたしの物思いを断ち切るように、部屋の中で何かが壊れる音が響いた。
 「ベルナール、どうしたの?」
 「いや、ちょっと。服にひっかけてカップを落としてしまった。いいよ、ここは俺が片づけるから」
 そのとき、わたしは椅子の上に所在なげに置きざりにされているオスカルさまの手袋に気がついた。オスカルさまの手にぴったりあわせて作られた、極上キッドの手袋。手にとると、人肌になじんだ皮は柔らかく、かすかにオスカルさまの香りがした。
 「ベルナール、わたし広場まで行ってくるわ」
 「どうしたんだ急に?」                            
 割れたカップの破片を拾い集めながら、顔だけこちらへ向けてベルナールが聞いた。
 「オスカルさまが、手袋をお忘れになったの。すぐ戻るから」
 「一人じゃ危ないよ、ロザリー。ちょっと待って、俺も行くから」
 「大丈夫よ。いつもの裏道を通っていくから」

 わたしは夫の返事を待たずに、風除けのついた燭台をつかんで急いで裏口を出た。さっき別れたばかりなのに、またオスカルさまに会える。そんな些細なことが、まるでオスカルさまに恋をしていた少女の頃のように嬉しくて、胸をときめかせながら早足で歩いた。オスカルさまとアンドレより先回りして広場に着くために、わたしは隣家の中庭を抜け、人一人がやっと通れるくらいの細い路地を通っていった。この路地は広場までの近道だけれど、近所の住人しか知らない秘密の抜け道だ。

 広場に着いたとき、一陣のいたずらな風が生暖かく吹き上がり、簡単な風除けしかついていない燭台の火はたちまちのうちにかき消された。そのとき、ちょうど広場に近づいてくる二つの人影が青白い月の光の中に浮かび上がった。わたしは路地の間から身を乗り出し二人に手を振ろうとして、ふと動きを止めた。ほとんど肩が触れ合わんばかりに寄り添ってゆっくりと歩いてくる二つの影は、わたしが見慣れていたオスカルさまとアンドレの距離とは明らかに違っていた。心臓がとくんと小さく鳴り、わたしはとっさに路地の暗がりに身をひそめた。

 二人の囁くような声が聞こえてきた。
 「アンドレ、ベルナールはうまくやってくれるだろうか」
 「ああ。いまは彼を信じて待つしかないだろう」
 「だがもし本当に暴動が発生したら……? わたしは彼に取り返しのつかない犠牲を払わせることになるかもしれない」
 オスカルさまの声はひどく気づかわしげで、つい先程までベルナールを相手に熱弁を奮っていた同じ人物だとは思えないほど沈みこんでいた。
 「ベルナールは自分が正しいと思うことしかやらない男だ。義理や人情でおまえの頼みを引き受けたわけじゃないよ」
 アンドレが落ち着いた声で、噛んで含めるようにゆっくりと言う。
 止めてあった質素な馬車のそばまで来ると、二人は立ち止まった。まるで二人を待ちかねていたとでもいうように、馬たちがぶるぶると荒い鼻息を吹き、静かに足を踏みならした。
 アンドレがオスカルさまの顔を覗き込むようにして言った。
 「オスカル、気持ちは分かるがあまり思いつめるな。おまえはできるだけのことをやった。アランたちを救い出すにはこれが最上の方法だ。……それともアントワネット様に直接助命嘆願をするか?」
 オスカルさまは一瞬口をつぐんだが、短い沈黙のあと低く抑えた声でおっしゃった。
 「もし他にどうしようもなければ……彼らの命にはかえられない。どんなことでもやるさ。だができるなら、これ以上王妃様に迷惑をかけたくない」
 「そうだな。オスカル、今はベルナールを信じて待とう。おまえがこれ以上思い悩んでも、どうしようもないことだよ」
 低く囁くようなアンドレの声は、まるで乾いた大地に水がしみこむように、聞くものの心に安堵と安らぎを感じさせた。何かあったとき、こんなふうにオスカルさまを宥め安心させるのはいつもアンドレの役目だった。わたしはふと、昔と変わらぬ二人の懐かしい姿を目にしたような気がして嬉しくなった。同時に、こんなふうに二人の会話を盗み聞いている自分に急に後ろめたさを感じ始めた。

 「ふふ……わたしは意気地無しだな。自分からベルナールに無理難題を押しつけておきながら、心のどこかでこんなにも迷って……」
 そう言いかけたオスカルさまの体が、突然不自然にがくんとくず折れた。わたしはとっさに声を上げそうになったが、それよりも先にアンドレの逞しい手が崩れようとするオスカルさまの体を支えていた。
 「オスカル!?」
 アンドレはオスカルさまの体をしっかりと抱きかかえ、片方の手をオスカルさまの頬に添えて顔を自分の方に向けさせた。
 「オスカル、大丈夫か?」
 「ん……」
 オスカルさまはすぐに意識を取り戻されたようだった。
 「オスカル?」
 「だいじょうぶ……なんでもない……」
 そう言いながら、オスカルさまはまだ力の入らないらしい腕をそっとアンドレの首に巻き付けた。わたしは衝撃で身動きすることもできなかった。それはわたしが今まで見たこともないような、たおやかで儚げなオスカルさまの姿だった。

 「こうしていれば、すぐに良くなる……ちょっとめまいがしただけだ」
 「疲れているのだろう? 今日は本当にいろいろなことがあったから……。おまえ、なんだか体が熱っぽいぞ。さあ早く馬車へ」
 片方の手でオスカルさまの腰をしっかりと抱き、もう一方の手でいたわるように背中を撫でながら、アンドレが気づかわしげに促した。けれどもオスカルさまは、まるで子供のようにかぶりを振っておっしゃった。
 「もう少しこうしていたい。アンドレ……」
 アンドレの耳元で囁くオスカルさまの声の、なんと甘やかで艶っぽい響きだったことだろう。長年オスカルさまのお側に仕えながら、わたしはオスカルさまのこんな声を一度も聞いたことがなかった。この二人は愛し合っている……その衝撃的な確信が電流のように脳裏を駆け抜け、わたしは体の震えを抑えることができなかった。アンドレが長年胸に秘めていた想いを、彼をよく知る人間にとっては胸が痛くなるほどの切なく激しい愛を、オスカルさまはついに受け入れられたのだ。
 
 オスカルさまは苦しげに、絞り出すようにおっしゃった。
 「わたしは本当はこわくて仕方がないのだ。わたしは意気地無しだろう、アンドレ? 意気地無しで……こんなにもちっぽけだ……」
 「おまえは意気地無しなんかじゃない」
 こんなオスカルさまをわたしは知らない。オスカルさまは誰よりも強くて凛々しかった。泣き虫だったわたしをいつも笑いながら慰めてくださった。けれど、その強く毅然とした態度の奥底に、迷いのないまっすぐな瞳の中に、時として崩れそうになる脆い心を隠しながら、大の男でさえ背負い切れないほどの重荷をたった一人で背負ってこられたのだ。そして誰かの暖かい腕を、愛情を、こんなにも激しく求めていらっしゃったのだ。一人の人間として、女性として、ありのままの弱さも不安もすべてを愛する人の前にさらけ出すオスカルさまの姿に、胸が締めつけられた。オスカルさまに恋していたわたしは、いったいオスカルさまの何を見ていたのだろう? 何をわかっていたというのだろう?

 天空に雲が走り、流れるような影が二人の上を通りすぎた。けれどもそのあとは、月がいっそうの輝きを増したようだった。それともその輝きは、二人の内面から発せられた魂の輝きだったのだろうか。
 「わたしを支えていてくれ。わたしはおまえがいないと何もできない」
 オスカルさまの背中を撫でていたアンドレの手の動きが止まった。アンドレはこみ上げる愛おしさをどうあらわしていいか分からないというように、腕いっぱいにオスカルさまを抱き締めると、その金髪に顔を埋めた。
 「俺はいつでもおまえのそばにいるよ」
 「ん……」
 「ずっと、おまえと一緒だ。今までも、これからも」
 「本当に? アンドレ」
 「ああ。たとえおまえが嫌だといっても、死ぬまでおまえを離さない。だから覚悟をしておけ」
 オスカルさまは少しはにかむように微笑まれた。こぼれ出るようなその微笑みの、なんと幸福で誇らしげな輝きに満ちていたことだろう。わたしはこんなふうにあでやかに輝くオスカルさまを知らなかった。オスカルさまのことを何ひとつ知らなかった……! 
 内面からほとばしるようなオスカルさまの命の輝きに圧倒され、胸が詰まった。そしてその姿は、たちまち涙のベールの向こうにかすんで見えなくなった。
 言葉が途切れ、沈黙が訪れる。あとは美しい恋人たちが互いの唇を求める甘い吐息がもれるばかり。

 いつのまにかわたしに追いついていたベルナールが、そっとわたしの肩に手をかけた。輝くような月の光の中で、いつまでも飽きることなく口づけを繰り返す美しい恋人たちを残して、わたしたちは足音を立てないようにそっとその場を立ち去った。

 わたしは涙を止めることができなかった。
 「どうして泣くんだ、ロザリー? あんなに美しい恋人たちを、俺は生まれて初めて見たよ。とてもお似合いじゃないか」
 「違うの、ベルナール。違うの……わたし、嬉しいのよ。とても嬉しくて……」
 わたしは胸の中に渦巻いている熱い思いを、それ以上説明することができなかった。
 「ふふ……押しも押されぬ大貴族の令嬢と平民の従僕の恋か。彼女らしいよ。実に彼女らしい。さすがはオスカル・フランソワだ、いい男を選んだじゃないか。アンドレ・グランディエはたいした男だぜ。あのパレ・ロワイヤルからたった一人で人質を連れ出しやがった……。なあ、そう思わないか?」
 「もうすぐ地位も身分も関係なくなる時代がくる。あの二人も恋人として正々堂々と世間に名乗りをあげることができる時代になるんだ。結婚だってできる。その時まで、俺たちはがんばらなくちゃいけないんだ。そうだろう、ロザリー? あの二人の未来のためにも」
 ベルナールは少年のように目を輝かせ、いつもより饒舌に話し続けた。彼もまた二人の姿に感銘を受け、ひどく興奮しているようだった。わたしは何も答えることができず、夫の言葉にただただうなずくばかりだった。オスカルさまの姿が、いつまでも目に焼きついて離れなかった。

 けれども最後に、少しばかり沈んだ声でベルナールは言った。
 「あの二人の幸福が長く続けばいいのに……な。彼女、今日はずいぶんと顔色が悪かったと思わないか? フランスと心中するだなんて、縁起でもないことを言いやがって……」
 夫の不吉な一言が、冷たい風のようにわたしの心の中を吹き抜けた。そしてその予感通り、その日が二人の元気な姿を目にした最後の日となった。

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 二人が永遠に帰らぬ人となり、いくつもの季節がめぐった。そして多くの、本当に多くの出来事が、嵐のようにフランス全土に吹き荒れた。人々に希望と未来をもたらすはずだった革命は、混迷をきわめていた。多くの尊い命が失われ、ギラギラと不吉な光を放つ断頭台は、国王陛下や王妃様の血を吸いつくしてもなお、新たなる犠牲者を求めその醜悪な姿を人々の前に晒し続けていた。
 わたしたちの愛するフランスは、オスカルさまとアンドレが命を賭して愛したフランスは、一体どこへ向かっていくというのだろう?

 ベルナールも苦しんでいた。誰を信じ、何を信じていいか分からない暗黒の時代の中で、ときに絶望の淵に沈みそうになりながら、死にもの狂いでもがいていた。夫は決して弱音を吐かなかったけれど、夫の心の内はわたしにはよく分かった。そしてそんなとき、夫は思い出したようにオスカルさまの話をする。あの日のオスカルさまの決断が、どれほどの勇気と希望を人々にもたらしたかということを。

 けれどもある日夫がぽつりと言った。
 「だけど、不思議なのだよロザリー。アンドレ・グランディエを失ったときのあの人は、指揮官の顔でも軍人の顔でもなかった。恋人の死を嘆く一人の女の顔だった。おれはあのとき、あの人がどうにかなってしまうんじゃないかとさえ思ったよ。だけど人間というのは不思議だ。恋人を失ったばかりの彼女が、あのバスティーユ攻撃を見事に指揮してみせたのだからね。人間というのは、一体どこまで強くなれるものなんだろう」

 人の世の残酷さに打ちひしがれそうになるとき、心が絶望に沈みこみそうになるとき、わたしはいつもオスカルさまとアンドレのことを思い出す。すると一条の光が冷えきった胸に射し込み、小さな炎がわたしの中に燃え上がる。あのときのオスカルさまの輝くような微笑みが、共に生き共に逝った二人の美しい姿が、わたしに何度でも語りかけ、教えてくれる。
 どんな暗闇の世にあっても永遠に変わらない思いがあると。そしてそれゆえに人生はこんなにも美しいと。

FIN