懺 悔 窓から蒼みをおびた月明かりが差し込んでいる。夜中にふと目を覚ましたとき、なぜかわたしは自分がたった一人で広い曠野を彷徨っているような、凍り付くような孤独感に襲われた。すべてが寝静まったこんな真夜中に目を覚ましているのは、罪人か不幸な人間だけだと、誰かが言っていたのを思い出す。 隣で静かな寝息を立てる恋人に目を向ける。ついさっきまで、わたしはこの世で誰よりも愛しい男の腕に抱かれ、安らかな幸福の中でまどろんでいたというのに。 突然わたしの脳裏にひとつの鮮やかな映像がよみがえる。そうだ、夢を見たんだ……。不吉な、たとえようもなく悲しい夢を。彼が、アンドレが、わたしのもとを去ってゆく。彼がわたしに向けた、ぞっとするような暗い目。ただ絶望という名の深淵だけを見つめているような目だった。わたしは急に不安になり、眠っているアンドレの顔にそっと手をのばした。頬にかかるやわらかな漆黒の髪。穏やかに閉じられた左目のかすかな引き攣れの跡……彼がわたしのために、こともなげにこの犠牲を受け入れたときのことを思い出すと、今でも心臓が血を流しそうになる。やんわりと閉じられた形のよい唇……わたしの好きな……。わたしの手は丹念に、それらの一つ一つを辿っていく。そこにいるのが現実の彼であることを確かめるように。 「眠れないのか?」 目を閉じたまま、低くささやくような声でアンドレが言った。 「起こしてしまったな。すまない」 また、わたしのわがままにおまえをつきあわせてしまった。本当はおまえの声が聞きたかったんだ。 彼は何も言わずにわたしの体を抱き寄せた。その温もりに安堵を感じながら、わたしは言う。 「夢を見た」 「どんな夢?」 「おまえが、わたしのもとから去ってゆく夢だ」 「ふふ……それはけしからん男だ。俺があとで殴っておいてやる」 彼が冗談めかして、少しおどけた口調で言う。けれどもその時のわたしは、なぜかいつものように軽口を返す気になれなかった。自分の想いを彼に告げてから、ずっと重石のように胸につかえていたことがあった。けれども昼間のしらじらと明るい光の中では、心の奥深くに巣くったさまざまな思いは、明確な形をとることなく蒸気のように空気の中に霧散してしまう。 「最近よくこんな夢をみる。……報いかな、これは」 「報い?」 「長い間……おまえを苦しめたから」 日常のすべてを溶かしてしまう闇の中で、わたしは自分の気持ちに素直に向き合おうと、考えを一点に集中させながら言葉を紡ぎ出す。 「おまえの存在を、まるで空気のようにあたりまえのものとして受け取ってきた……おまえがそばにいるのが当然だと考えて、おまえの気持ちを考えてみようともしなかった。おまえがどんな思いでわたしのそばにいたのか……今なら少しはわかると思う」 彼はわたしの話を聞きながら黙ってわたしの髪を玩んでいたが、落ち着いた、しかしはっきりとした口調で言った。 「そんなことをおまえが負い目に感じる必要はない。俺が勝手におまえを愛したんだ。理由なんてないさ。ただ、そうせずにはいられなかった」 彼はいつも、本当にこともなげに、自分自身の気持ちをまるで無に等しいもののように扱って何ひとつ見返りを求めない。わたしのために左眼を失ったときも、わたしが自分からは何ひとつ彼に与えようとせず、ただ無条件の優しさや心の拠り所を彼に求めるばかりだったときも。フェルゼンを愛したとき、わたしは何の見返りも求めず純粋に彼を愛しているつもりで、でも決してアンドレのような愛し方はできなかった。 「おまえは強いな。わたしだったら、きっと耐えられない。苦しくて、頭がどうにかなってしまう」 「俺はそんな立派な男じゃない。心の中はいつもどろどろとした葛藤だらけさ。自分がどうしようもなくいやになることがある」 「珍しいな、おまえの口からそんな言葉を聞くなんて」 彼はそれには答えず、相変わらず指先でわたしの髪を玩んでいたが、やがて無理に感情を抑えたような低い声で言った。 「オスカル、いつかおまえに言わなければならないと思っていたんだが」 「なに?」 彼の瞳に一瞬の躊躇が走り、わたしの肩を抱く手に力がこもった。 「俺はおまえを自分の手にかけようとしたことがある」 「……知っている」 彼がわずかに目を見開き、じっとわたしの目を覗き込んだ。 「そうか……。知っていておまえは平気だったのか? 俺を軽蔑しただろう」 「軽蔑? そんなことは考えたこともなかった……。覚えているか、アンドレ? むかし、一度だけおまえが一週間ほどこの屋敷を離れたことがあった。たしかおまえが世話になった近所のご婦人が病気になって」 「ああ、隣に住んでいたマリーおばさんだろう。おふくろと俺を本当の娘と孫のようにかわいがってくれた。だけど、それがどうしたんだオスカル?」 「ばあやから、突然アンドレが里帰りをすることになったと聞かされた。3、4日で帰ってくるからと。おまえを実の孫のようにかわいがっていた人が重病でおまえに会いたがっていると言われて、わたしは何も言えなかった。でも実際におまえがいなくなってしまうと、毎日が本当に退屈で、寂くて。なのに約束の日が過ぎても、おまえはなかなか帰ってこなかった」 「そうだったな。おばさんの具合が思ったより悪くて、結局最期をみとったんだ」 「わたしはなぜだか、おまえが二度と戻ってこないような気がしたのだ。おまえがわたしを見捨てて故郷に帰ったのではないかと思うと、くやしくて悲しくて涙が出てきた」 「そんなに心配してくれていたのか? だけど俺がお屋敷に戻ったとき、おまえときたらひどい仏頂面だったぞ」 「あんまり心配したので、うれしいやら腹がたつやら……どんな顔をしていいか分からなかった」 「はは……らしいな。おまえらしいよ」 穏やかな光を宿した彼の瞳はかすかな笑いを含んだまま、遠い過去を懐かしむように虚空に向けられる。その瞳の動きを追いながら、わたしは言った。 「おまえがあのワインを運んできた夜、なぜかあの頃のことを思い出したのだ。そうしたら急に、おまえがわたしのもとから去って、もう二度と戻ってこないのではないかと不安になった……」 虚空に向けられた彼の瞳が、ふたたび物問いたげにわたしの方に向けられる。あの夜の出来事が、まるで昨日のことのように鮮やかに浮かび上がる―。 ********************* 点々と床にちらばった赤い液体が、蝋燭の光に怪しく輝いている。そしてその中に一片のガラスの破片が。ばらばらに散らばったパズルのかけらが少しずつ形をなしてゆくように、彼のすべての言動がひとつの恐ろしい結末を象徴しながら次々とわたしの脳裏に浮かんでは消えた。長年そばにいたわたしでさえ、一度も見たことがなかったような思い詰めた暗い眼差し。グラスを叩き落としたときの彼の激しい動揺……青ざめた唇。あのワインに一体何が入っていたというのだ? その答えはとっくに分かっているのに、わたしはそれをはっきりと認めるのがこわくて、不抜けのようにしばらくその場に佇んでいた。おまえが、このわたしを手にかけようとしたというのか? こんなにも長い年月をわたしのそばで、本当の兄弟のように共に生きてきたおまえが。わたしのことを、死ぬほど愛していると言ったお前が……。悲しみとも驚愕とも憤りともつかないさまざまな感情が、なんの現実味もなくただ意識の表面をうわすべりしていく。 その夜、なかなか寝つけなかったわたしは、浅く短い眠りの中で夢を見た。まだ幼ないアンドレが、夢の中で悲しげに微笑んでいる。 「オスカルごめんよ、ぼくはもうお屋敷に帰れなくなっちゃんたんだ……」 「どうして? すぐに帰ってくるって約束したじゃないか」 「ごめん。先に行って待っているから」 「行くって、どこに?」 「母さんがぼくを呼んでいるんだ。だから」 「だって、おまえの母上はもう……アンドレ、待て」 アンドレは後ろを振りかえろうともせず、霧の中に消えていく。 「アンドレの嘘つき! 約束したじゃないか、ずっとここにいるって。待てよ!……」 涙が溢れて、アンドレの姿が見えなくなる……。 眼を覚ましたとき、自分がどこにいるのか一瞬理解できなかった。しびれた手足にしだいに現実感覚が戻ってきて、さっきの悲しい出来事がただの夢に過ぎないことが分かると、わたしは安堵のため息をついた。けれども次の瞬間……。突然、あるひとつの恐ろしい啓示が閃光のように脳裏にひらめき、わたしは心臓を素手で掴まれたような激しい衝撃を感じた。 ―もし本当に、彼がわたしのもとから去ってしまったら……? 彼はきっと自分のワインにも毒を入れていたはずだ。わたしを手にかけることができず、彼が一人だけで逝ってしまったら! そう考えた瞬間、わたしは部屋から飛び出していた。真夜中のしんと静まり返った屋敷の中を、息を詰めるようにして彼の部屋に向かう。けれども足音を忍ばせて彼の部屋の前まで辿り着いたとき、わたしはなぜか中にいるはずの彼に声をかけることができなかった。彼の声が聞きたかった。朗らかで屈託のない、優しい彼の声が。そして胸を掻きむしるこの不安をはらしたかった……。扉にそっと耳を押し当ててみるが、静まり返った部屋の中からは何の物音も聞こえない。 混乱した頭を落ち着かせようと、裏口の閂を外して裏庭にでた。晩秋の刺すような冷気が頬を打つ。痛いほどに冴え渡った夜空の高みに、まるでわたしの弱さや愚かしさを嘲笑うかのような青白い月が凍り付いている。 ふと屋敷の方に眼を向けると、黒々とした木々の茂みの向こうに、かすかな光が揺れるのが見えた。心臓がどくんと高鳴る。あれはたしか、アンドレの部屋の窓があるあたりだ。今にも消え入りそうな弱い光に吸い寄せられるように、わたしはおぼつかない足取りで彼の部屋の窓下へ向かった。そしてカーテンの隙間からわずかに漏れる淡い光の中に、彼の姿を見た。何の飾り気もない簡素な部屋の中、小さなテーブルの前に腰を掛け、長い身体を折るようにして何ごとかを一心に祈っている彼の姿を……。 とたんに、とめようもなく涙が溢れ出る。そうだ……彼がわたしを残してどこかへ行ってしまうなんてあり得ない……。たとえあのワインに何が入っていたとしても、わたしを手にかけるなど、彼には絶対にできない。その確信が暖かい波のように心に押し寄せる。自分の心がようやくあるべきところに戻ってきたという安心を感じると同時に、わたしは身を裂くような絶望とともにワインに毒を盛ったであろう彼の苦しみを思いやった。彼はどんな思いでわたしを手にかけようとしたのか。二人でともに生きてきた長い年月も愛情も自分の命さえも……すべてを犠牲にするつもりで。震える手でワインに毒を流し込む彼の姿が眼の前に浮かぶ。そしてわたしは彼の心の痛みを思って泣いた……。 ************************ 「あの夜、夜中におまえの部屋へ行ったのだ。でも声をかけることができなかった」 「夜中に俺の部屋へ?」 「窓からおまえの姿が見えた。そのときに思った。おまえにはわたしを手にかけることなどできない。そんなこと、おまえが一番よく分かっていたはずだ、最初から……」 「きっと俺はひどく自惚れていたんだ。おまえを世界中の誰よりも愛していると……どんな罪も購えると思っていた。そんな権利など誰にもありはしないにのに。自分勝手で愚かな男さ」 「違う。わたしがおまえを追い詰めて……苦しめたから、だから……」 さらに言葉を繋げようとしたわたしの唇を、彼が指先でそっと塞ぐ。 |
「苦しみなんかじゃない。おまえはおれに最高の人生を与えてくれた。今も昔もだ。それがわからないか、オスカル?」 彼は半身を起こし、覆い被さるようにしてじっとわたしの眼を覗き込んだ。彼の瞳の中には幸福と憂いが……限りなく深い情愛と慈しみが静かに揺れている。きっとわたしは今にも泣き出しそうな情けない顔をしていたのだろう、私を見つめる彼の口許がふっと緩んだ。 「そんな顔をするな。おれたちはまるで二人で懺悔をしあっているようだな。こんな陰気くさいことでは、二人とも先が長くないぞ。ん?」 その声音には微かな笑いが含まれている。わかっているのに、彼のちょっとした冗談までもが、なぜか今夜はわたしの胸に突き刺さる。 「おまえがいなくなったら……わたしは一人では生きていけない」 いままで何度も心の中で繰り返したその言葉を口にしたとたん、こらえていた涙がこぼれ落ちた。 彼はただ一つの瞳でだまってわたしを見下ろし、ときどき大きな手でわたしの涙をぬぐった。子供の頃から変わらない暖かで優しい手だ。そして瞼や頬や唇に落とされる、触れるような軽い口づけ。苦いはずの涙が、流れ落ちるに従ってわたしの心の重荷をゆっくりと溶かしていく。こうやって、わたしはどれほどおまえに癒されてきたのだろう。わたしは一体おまえに何をしてやれるというのだろう……。 やがて涙の発作がおさまると、軽く触れていただけの彼の唇が首筋へ、そして胸元へとゆっくりすべってゆき、わたしはもう何も考えられなくなる。唇を塞がれきつく抱きしめられると、痺れるような感覚が体を駆け抜けた。彼が耳元で愛の言葉をささやく。彼の愛撫が次第に熱を帯び、怒濤のように荒れ狂う情熱の奔流が、過去も未来も……後悔も不安もすべてを押し流してゆく。 嵐のような感覚に身をゆだねながら、わずかにつなぎ止められた意識をかき集め、わたしは心の中でつぶやいた。 アンドレ、知らなかった……人肌の温もりがこんなにも懐かしく愛しいものだなんて。知らなかった……愛とはこんなにも切なくて……甘いものなんだな……。 FIN |