『かげろう』 〜ダグー大佐のひとり言〜
今日中にこの報告書を仕上げなければ―――。
初夏のフランスは、まだまだ日が落ちない。
今日も一日中暑かった。
空はむせ返るような茶がかったピンク色をしている。
ひっそりとした兵舎。
今日一日の衛兵隊の訓練は終わった。
将校たちも隊員たちも、それぞれ家路についたはずである。
残っているのは、夜勤の者と残務をしている私と・・・
それともう一人・・・
隣の執務室から、また、コホンという乾いた咳が聞こえる。
私はその咳が聞こえるたび、もしや――?という不安にかられる。
その咳の主は、フランス衛兵隊B部隊部隊長――オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ准将
いつからだろう
最初は、風邪を引いたのだと思った。
だが・・・その乾いた力のない咳には聞き覚えがある。
私は1年前、妻を胸の病で亡くした―――。
貴族の多くがそうであるように、親同士の決めた結婚だった。
子どもは4人授かった。
跡継ぎである男子にも恵まれた。
妻は、貞淑で美しく、私に忠実だった。
仕事で遅く帰っても、何時までも寝ずに待っていた。
私のためになら、どんな犠牲も厭わなかった・・・。
しかし・・・私にとって、それがいつしか重荷になっていた。
街で女を買った。
幾晩も帰らなかった。
それでも・・・妻は私を信じていた。
幾晩も寝ずに待っていた。
そして・・・私は妻の体の異常に気づかなかった。
久しぶりに帰った夜、妻は・・・
血を吐いた―――。
急いで医者に診せたが・・・手遅れだった。
それからの妻の病状は、坂を転げ落ちるように悪くなっていった。
薬も療養も全く効かなかった。
私は妻の顔をまともに見ることが出来なかった。
すべて私が悪いのだ。
だが・・・妻は私を責めなかった。
それどころか、私に謝るのだ・・・。
いたらない妻でごめんなさい―――と。
私は、妻への深い愛情に気が付いた。
罪滅ぼしではなく、心からの思いで、看病をした。
辛ければ、一晩中背中をさすってやった。
寂しくないように、色んな話をしてやった。
妻の寝ている部屋には、花を飾った。
それを妻はとても喜んだ。
一日中飽きることなく、見つめていた。
・・・そして妻は、かげろうのように・・はかなく・・・逝ってしまった・・・。
報告書が仕上がった。
隊長はまだいるだろうか?
彼女は誰よりも早く出勤し、誰よりも遅くまで仕事をしている。
まるで、何かにとりつかれたように・・・。
この報告書を仕上げるのは明日でもいいのだが、出来るだけ早いほうがいいだろう。
明日の朝一番で提出すれば、それだけ彼女の一日の仕事が早く終わる。
そしたら、早く屋敷に帰って休むように言おう。
妻のように手遅れにならないように。
私は隊長の執務室のドアを叩いた。
返事はなかった。
ドアを開けた。
窓から入り込む夕日が、机と椅子の影だけを長く伸ばしている。
良かった・・・今日はもう帰ったらしい。
こんな時、私はいつものように自分に質問を投げかける。
彼女は幸せなのだろうか・・・?
女でありながら男のような生き方をして・・・。
でも、私は知っている。
いつ頃からだろうか・・・
彼女の視線が時折、ひとりの隊員に切なげに投げかけられていることを・・・。
私は祈らずにはいられない。
どうか彼女が真の幸福に目覚めるようにと・・・。
そしてその幸福が、かげろうのようにはかなく消えてしまうことがないようにと―――。
〜Fin〜