永遠の日に



 いつのことか。随分昔に、私の存在は生まれた。記憶になどない場所に、その記憶はある。光の交差と希望の飽和の中で私は手を引かれ、白く眩しい世界へと導かれた。あれはいつのことか。夢の中にいつの間にか埋もれ、私という中にありながら、最も近く、最も遠い存在となった記憶は、今、どこにあるのだろう。


 窓の外が白く光っていた。背中から足先にかけて寒気が走り、いつもより気温が低いことを、オスカルはベッドの中で感じた。日頃の激務により、体は睡眠を求め、指先はピクリとも動かなかった。うっすらと眩しさを感じながらも、今ひとつパチリと開かない眼に、ほんの少し憂鬱を感じながら、オスカルはまた瞼を下ろしていった。しかしふと、何かを思いだしたように体を上げると、ブルッと体を震わせ、窓に近付いていった。外を見た瞬間、世界の色が一つ残らず無くなってしまったのかと、オスカルは思った。世界は真っ白に光り、地面からは透明な空気が、冷気を含んで立ち上ってくるようだった。
 昨晩、よく冷えるなと感じてベッドに入ったのだ。やはり、夜中の内に雪が降ったのか。オスカルは肩を抱き、もう一度小さく体を震わした。雪を照らす朝日すらも寒気を帯びているような気がした。まだ朝早いのか、家の者達が動いている気配はない。雪の白い光のせいか、妙に心が落ち着かないオスカルは、もう一度眠る気にもなれず、適当に着替えを済ませ、本 でも読んでいようと考えた。暖炉の前に行くと、昨晩の火種が所々赤くなりながら、呼吸するように、ぷすぷすとくすぶっていた。何だか思い出すものがあるような気がして、オスカルはしばらくボ ーっとそれを眺めていたが、ハッとしたように目 を開くと、急いで着替えに向かった。
 着替えながら、どうも何か頭に引っ掛かって離れないものがあると、彼女は感じた。忘れ物を探すように記憶をたどってみるが、そこには行き着けそうで行き着けない。形のない、抽象的なものを忘れている。なんだったのか。考えても考えても、頭の中で円を描き、ぐるぐると回るだけで、何も見えてはこなかった。
 着替え終ると小さくため息をつき、本 を読もうとソファーに近付いた。しかし、昨日読んでいたはずの本 はそこになく、あるのはシンプルな装飾が施 された手鏡だけだった。オスカルはそれを手に取り、自分の顔を映した。青い眼はいつもよりさらに澄んでいるように見え、それを見つめていると胸の奥がスッと気持ちよくなった。ジッと鏡の中の自分と見つめ合っていたが、ふと鏡を下ろし、昨夜の語らいを思い出した。オスカルがソファーで本 を読んでいると、アンドレが静かに、寄り添うように座ってきたのだ。

 懐かしいようなぬくもりを感じ、顔を上げると、目 の前には深い、黒い瞳が待っていた。
「今夜はえらく冷えるな。」
「ん。ああ。せっかくの休暇なのに、風邪をひいては困るな。」
 短い言葉を交わすと、オスカルはまた本 に目 を落とした。それを見るとアンドレは、黙って彼女の横顔を見つめた。青い瞳が文字をおって動くたびに、彼の心臓は飛び上がりそうなほど速く動いた。見つめられて落ち着かないのか、オスカルもちらりとアンドレの方を見た。すると眼と眼がバチリと合い、互いに互いの瞳に捕らえられ、視線をはずせなくなった。オスカルは頬が赤く染まるのが分かったので恥ずかしくなり、それにより、ますます頬が熱くなっていった。アンドレは口元に笑みを浮かべながらも、恋人に対する限りない愛情が、どうすることもできずに胸の中で身をよじっているのを感じた。彼のたった一つ残った瞳は、狂おしいほどの愛おしさによって、ほんの少しゆがんでいた。オスカルはその瞳の熱に耐えきれず、顔を下に向けた。アンドレ
はそれを見て、ゆっくりと片手でオスカルの頬に触れた。一瞬、彼女の肌が痙攣したように震えた。しかしその後は黙ったままで、恋人のその温かく、大きな掌を感じているだけだった。アンドレは掌から伝わってくる、穏やかで温かい彼女の体温を、胸の中で何度も噛みしめるように、愛しさと重ねて刻み込んでいった。そしてゆっくりと手を上下させ、頬をなでると、オスカルは不安げな瞳をアンドレに向けた。アンドレはその瞳に笑顔を返し、ゆっくりとまた頬をなでた。それを見たオスカルは、自分の手で頬にある彼の手を包み、赤く頬を染めたまま、美しい瞳を細めて、優しく微笑んだ。時間は静かに二人の間をすり抜けていった。互いに何も言わず、ただ穏やかな愛情の中で、互いの愛と命の深さを感じながら、生まれてきたことに感謝していた。何も話さなくとも分かる。今二人の魂は静かに寄り添いながら、わずかな時の瞬きの間にも永遠を見つけ、言葉無く誓いを立てているのだ。こんなふうに、これから何度、言葉のない誓いを立てられるのだろうか。互いの魂のぬくもりを感じながら、何度愛を語れるのだろうか。命つきるときまで、傍らで、そっと寄り添いながら、愛し合っていたい。二人の心に、そんな思いが浮かんだとき、二人の頬は静かに近付き、優しく触れ合い、互いの唇を重ねるのだった。春の日のように優しく、暖炉の火のように包み込む温かさの中で、二人は至福を感じるのだった。唇を外すと、二人は微笑みながらゆっくりと見つめ合い、恥ずかしそうにしながらも、この上なく幸せなのだということを伝え合った。
「オスカル。」
 唐突に彼が自分の名前を呼んだので、オスカルは体をビクッと震わせた。アンドレはそんな彼女の髪を一房手に取り、そっと口づけ、微笑みながら恋人の肩を抱いた。そして懐から、シンプルな手鏡を取り出すと、自分と彼女の前に持ってきた。オスカルが不思議そうに彼を見つめると、彼は微笑んだまま、彼女を見つめていた。
「どうしたんだ?手鏡なんか出して。」
 オスカルが聞くと、アンドレは思わずクッと吹き出した。いきなり恋人に笑われ、何か変なことでも言ったのかとオスカルは不安になり、彼の服の袖を引っ張った。
「なんだ。いきなり笑うな。私は変なことでも言ったのか?手鏡なんか出して、私の顔に何かついているのか?」
 アンドレはムキになった彼女を見て、笑いをこらえきれず、ははは。と声をあげて笑ってしまった。オスカルは急に不安が恥ずかしさに変わり、顔を赤くしながら、なんだ!!と叫んだ。アンドレは途切れ途切れに謝りながら、目 に涙までためて笑い続けていた。やっと落ち着いたのか、まだ息を荒くしながらも、オスカルと向き合い、手鏡を自分と彼女の間に置いた。
「悪い悪い。お前があんまりキョトンとしているから。俺だけ手鏡の意味が分かってるのが、何だかおかしくなったんだ。笑い出すと、ますますお前がムキになって、笑いが止まらなくなったんだ。」
 そう言うと、彼はまた彼女の肩を抱き、自分と彼女の姿を手鏡に映した。鏡には、まだキョトンとした彼女の顔と、優しげに微笑んでいる彼の顔が映っていた。
「昔、お婆ちゃんから聞いたことがあったんだ。イブの夜に、恋人と一緒に手鏡に映って愛を誓って、それをプレゼントすれば、ずっと一緒にいられるって。」
 アンドレはそっと唇を彼女の額に寄せた。ほんの少しその唇が震えているのを、オスカルは感じた。そして自分の皮膚からにじむように伝わってくる彼のぬくもりに、胸を溶かされるようだった。唇が離れると、オスカルは彼の手を握り、青い目 と黒い目 を絡み合わせた。ゆっくりと二人で視線を鏡に映し、幸せそうなその姿を見ながら、頬を寄せた。アンドレは目 を細め、ほんの少しかすれた声で言った。
「愛してる。」
 オスカルも、頬に感じるぬくもりを大切に胸に刻みながら、小さく息を吐き、言葉を発した。
「私も…愛してる。」
 アンドレは彼女の頬に熱い息を吐いた。オスカルの鼻を、ミントの香りがツンと衝いた。「愛してる。ずっとず
っと…この命がつきるまでずっと…オスカル…愛してる。」
「私も…ずっと…お前のもの…。愛してる…」
 互いの唇が触れ合うと、もう世界は見えなくなった。時が過ぎていく足音も、夜が深まっていく静けさも、風と触れ合い木々があげる声も、寒さに身を固くしながらも、熱い胎動を止めない大地の響きも、二人にはもう聞こえなかった。二人の世界は二人の魂の中で回り回り、二人の時は二人の世界で築かれた。夢のように遠い世界を垣間見ては、互いのぬくもりを感じ、現実を感じては、また幻想の世界を垣間見た。時が二人にだけ流れ、周りの物はすべて時を紡ぐのを止めてしまったのかとさえ思った。世界がゆっくりとその姿を形作り始めると、二人も互いに唇を離し、その世界に同化していった。
 微笑みながら互いを見つめ、空気さえ熱くしてしまいそうに赤くなった互いの頬を、掌で包んだ。アンドレは片手をオスカルの頬から外すと、自分の頬にあてられた彼女の手を握り、鏡をその手に置いた。
「俺からの、少し早い誕生日プレゼント…。受け取ってくれるか?」
 オスカルは恥ずかしそうに顔を下に向けながらも、顔いっぱいに微笑みを浮かべ、その鏡を自分の胸にギュッと押し当てた。目 元をほんの少し潤ませ、伏し目 がちになりながら、オスカルはかすれた声で、ありがとう。と言った。
 アンドレはそれを見て、照れくさそうに彼女の髪をなで、ゆっくりと立ち上がった。オスカルは彼の姿を目 で追い、その目 に、もう行くのかと少し不満を込めた。アンドレは苦笑いをして、もう一度彼女の髪をなでた。
「明日は早く起きなきゃならないからな。今夜はもう寝るよ。その代わり…」 アンドレはオスカルが読みかけて置いていた本 を取り上げると、それを手でパンと叩いた。
「これをお前だと思って、抱いて寝るよ。お前のぬくもりが無いと寂しい」
 カッと赤くなった彼女の頬を見て、アンドレも照れくさそうにし、もう一度彼女の額に唇をあてると、そのまま黙って部屋を出ていった。後に残されたオスカルは、もう一度鏡を手に取り、そこに映る自分の顔を見つめた。しばらく見つめていると、何だかおかしくなってきて、ふっと含み笑いをし、顔をそらした。そして小さくなった暖炉の火を見て、体を小さく震わせ、鏡をソファーに置くと、そのまま床についたのだった。

 そうだ。今日は私の誕生日だ。なぜ忘れていたのだろう。私の生命が生まれた日、そしてまた、知らないどこかで同じように生命が生まれ、これから先長い時の中で多くの魂が生まれていく日。時の巡りは生命の巡りだ。私も今、その時の巡りの中にあるのだ。私はその中で、何を知ったのだろう。喜び、悲しみ、怒 り、時には苦しみ、時には憎み、そしてかけがえのない愛を知った。
 その時、窓に向けていた目 に、アンドレの姿が飛び込んできた。オスカルはサッと体をドアの方に向け、走り出した。扉を開けると、まだ屋敷の中はシンとして、空気も冴え冴えとしていた。ひたすらに走り、一階に降りると、ちょうど庭の方に通じる廊下の窓から、彼の姿が見えた。オスカルはその窓を上に持ち上げると、ほんの少しかすれた声で、アンドレ!と彼の名を呼んだ。一瞬どこから声がしたのか分からなかったアンドレは、目 をきょろきょろと動かし、辺りを見回した。彼女がもう一度彼の名前を呼ぶと、黒い瞳はまっすぐに自分の方を向いた。そして驚きのような、ためらいのような色が一瞬顔に浮かんだかと思うと、次の瞬間には、もう優しい、愛しげな表情になっていた。
「オスカル。どうしたんだ。早いな。」
「なんだ。お前こそ。」
「俺は別に。ただ、なんとなく、さ。今日は、ホワイトクリスマスだな。」
 アンドレは足踏みし、足下の雪を堅くした。辺り一面、目 の痛くなるような白さに、オスカルは一瞬めまいを覚えた。しかしその白い世界と同化しながらも、けっして存在を飲み込まれていない黒い瞳と黒い髪に、オスカルは安堵した。そしてまた、忘れかけていたような懐かしい感情と共に、新鮮で新しい愛のときめきが、胸に響いた。彼女はうつむきながら、もう一度小さく彼の名前を呼んだ。アンドレはそれに気がつき、窓の方に数歩近付いた。そして、窓から1メートルほどの所で止まり、彼女を見つめた。
「オスカル。」
 自分の名前を呼ばれ、サッと顔を上げると、アンドレは目 を細め、唇の横を小さく上げながら、こちらに両手を差し出していた。彼のその愛情のにじんだ表情に胸が痛くなり、呼吸が止まりかけた。小さく震える唇から、白い息が煙草の煙のように、かすかに広がっていった。
「誕生日。おめでとう。」
 オスカルはまぶたが熱くなるのを感じた。そして窓枠にサッと足をかけ、力強く蹴った。冷たいけれど、けっして不快でないその空気の感触を肌に刻みながら、まっすぐに、青い瞳は黒い瞳のもとに降りていく。互いの温もりを求めて、互いの命の鼓動を求めて、近く寄り添おうと、ゆっくり距離が縮まっていく。そしてオスカルの指が、彼の髪にわずかに触れたかと思うと、次の時には、もう彼女は彼の腕の中にいた。軽い反動によって、彼の体が後ろに傾いた。足に力を入れて、体をまっすぐに保つと、満面の笑みを顔に浮かべながら、腕の力を強くした。オスカルは、一瞬苦しそうに顔をゆがめたが、口元は笑っていた。苦しい表情さえ、それは大きすぎる幸せによる表情に思えた。彼女の鼻に、彼の髪の香りが広がった。互いのぬくもりが、ゆっくりと染み渡っていく。アンドレの冷えた体が、オスカルの体温と、自分の胸の鼓動によって温められていく。
 白い世界では時が止まっていて、二人以外何も、動く物がいないように思えた。どこか、遠い世界があるのかもしれない。どこか、世界の知らない場所が、あるのかもしれない。そこは、意外と近くで、それでいて見つ
けられない場所かもしれない。そしてまた、そこに今二人はいるのかもしれない。
 温かい。と、彼女は小さく呟いた。アンドレは彼女の髪を優しくなで、うん。と小さく返事をした。そして、同じぐらい小さな声で、「お前が生まれてきて、よかった。」
と言った。オスカルはその声が、かすかに震えているのに気がつき、喉が痛くなった。彼の肩に顔を埋めながら、そのぬくもりにぽつぽつと涙を落とした。生まれてきたことに感謝し、生きていたことに感謝し、彼に出会ったことに感謝し、彼に愛されたこと、彼を愛したことに感謝した。白い静かな世界は、その沈黙を守りな
がら、もう少し、恋人達のそのかけがえのない時を見守っていくようだった。

 ずっとここにあった。遠い日の記憶。私がこの世に生まれてきた時の記憶は、愛に包まれ、ぬくもりに包まれ、優しく胸の奥に刻まれていた。ここにあったのだ。私の生の記録、今まで何度と無く繰り返してきた朝の日の光。私はこれからも見失わない。このぬくもりが側にいるかぎり、愛が側にあるかぎり、けっして生きることから、目 をそらしはしない。この日の温かさもまた、私は胸に刻み込んでいく。

FIN

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み〜やんさん、赤ちゃん、本 当におめでとうございます!!(^▽^)/  BY・リノ