海の呼ぶ声
          
                  第二話


                  (1)

 それからというもの、オスカルは度々アンドレを訪ねるようになった。アンドレか
ら聞く話は、何もかも耳に新しかった。時々街でこっそりと買う本では得られない知
識が、アンドレの中にはあった。アンドレの話を聞く度に、オスカルは子供のように
胸を躍らせた。植物のこと以外にも、彼は多くのことを知っていた。歴史、芸術、文
学、数学、化学。世界の全てが彼の中にあるように思え、彼が知るものが世界の姿そ
の物に思えた。そしてまた、彼と話していく内に、彼がとても優しい心をもっている
ことも知った。人を内側から包み込むような暖かさをもち、そっと寄り添うような安
心感があった。幼い頃、ゆりかごの中で感じた母の手の温かさを思い出すようで、そ
の度に胸が癒されていった。
 一方アンドレはというと、日ごとにオスカルに惹かれていく自分を、暗黙の内に感
じていた。彼女が笑うたびに胸が疼き、彼女の目に出会うたびに喉が熱くなった。
時々頭がふわふわとし、彼女のいない時間がとてももどかしくなった。いつの間にか
窓を見つめ、そこから見える空を見て、オスカルの瞳の色を思った。
「もっと濃い青だ…。心が引き込まれそうな…。癒される空の青とは違う、もっと濃
くて…」
 独り言のように呟くと、カッと顔が燃えた。なぜこんなに彼女のことを考えるの
か。今まで一度も、女性のことをこんなに真剣に考えたことはないのに、今自分は、
こんなにも自分自身の心を持てあましている。いつも冷静でいられた自分は、どこか
遠くに行ってしまった。遠く風に連れ去られ、こちらに残った自分は、持てあまして
しまった情熱に身を痛め、どうしようもなく、ただ転がり回っている。なぜこんなこ
とになってしまったのか。これが恋なのか。こんなにも、人を人でなくならせてしま
うもの。これが恋なのか。
「恋…。今までそんなものしたこともない俺が…。海賊に…」
 短い笑いが部屋を駆けた。アンドレはシーツをたぐり寄せ、それに顔を埋めた。清
潔な香りが、神経を突いた。その香りが、オスカルの清らかな姿と重なったので、ア
ンドレはまた身を固くした。そして小さく息を吐き、彼女の顔を思い浮かべた。
「オスカル…。」
 呟くとまた、体は火のように熱くなった。そしてその火はアンドレを包み、激し
く、外と内を同時に焼くようにして、彼を壊していった。どこか遠く、夢の中に、彼
は誘われた。そしてその世界の全てが、甘い疼きと痛み、激しい動揺で満たされてい
た。その世界の断片にオスカルの姿を見たように思うと、世界は震えた。そしてま
た、現実に彼は呼び戻されるのだ。白いシーツと、染みのある天井。欠けたランプと
背中に伝わってくる船の揺れ。それが彼が今感じる、物体としての《現実》だった。

「で、どうだい調子は?」
 その午後はアランがアンドレの部屋を訪ねてきた。アランについてもだいぶ分かっ
てきた。荒っぽいが根は優しく、誰よりも皆のことを考えていること。オスカルと同
じで、なんにでも興味を持つこと。実は意外といい男であることなどだった。
「おかげさまでだいぶ良くなってきたよ。」
「そいつは良かった。」
 アランはアンドレのベッドの側に椅子を引き寄せ、どっかりと座った。その拍子
に、船が少し揺れたような気がした。アランはアンドレをじっと見つめ、その表情が
だいぶ柔らかくなったことに気付いた。最初の頃の、緊張と恐怖が入り交じったよう
な笑顔は消え、今は安堵と親しみがにじみ出た、温かい笑顔になっていた。その表情
を見て、アランは安心したように小さく笑った。そしてふと、その表情に今まで見え
なかった柔らかさが見えた。それは明らかに、今までの彼になかったものだった。そ
の無かったものが彼の中に根を張り、そっと彼の心を包み、それにより温かくなった
感情が、ふとした瞬間に表に出てきているようだった。アランはその表情を、不快な
ものとは思わなかった。ただ何か少し、不安な気持ちが胸をよぎり、緩やかに彼の心
を騒がせた。
 アランは首を横にし、目を伏せ、口の中で笑った。そしてアンドレを見つめ直し、
さっきの表情がないことを確認し、安心したように笑顔を見せた。
「今日はな。俺の部下達がお前に会いたいって来てんだ。どうだ。退屈しのぎに、
会ってやってくれないか。」
「ああ。もちろんだ。嬉しいよ。」
 それを聞いてアランはニッと笑うと、ドアの所まで歩いていき、それを開けた。す
ると、あっ、と言う声と共に、二、三にんが部屋に倒れ込んできた。呆気にとられて
アンドレとアランがそれを見つめていると、一番下に敷かれていた体の小さい男が、
もそもそと這い出してきた。
「いってぇ!だから言ったじゃないか!やめようって!」
「なんだよジャン!お前だって覗こうとしてただろ!」
「そうだぞ!だいたいピエールだって…」
「てめえら!」
 倒れていた三人はビクッと体を強ばらせ、顔を動かさずに、ゆっくりと上目遣いに
アランを見た。アランは腰に手を当て、眉間にしわを寄せながら、唇をギュッと結ん
でいた。その目の恐ろしい光り方に、三人は縮こまった。
「覗こうなんざ趣味が悪いぜ!悪いなアンドレ、こいつらは行儀が悪くてな。」
「行儀が悪いのはアランだって一緒じゃないか!」
「そ、そうだそうだ!」
「いつも食事の時ひじついて食べるって、オスカルに怒られて…」
「うるせぇ!」
 またまた三人は小さくなった。行儀が悪いと言われ、顔を赤くしたアランを見て、
アンドレは思わず吹き出してしまった。その声がアラン達にも届き、自然と笑いが広
がっていった。外にいた者も部屋に入り、アンドレを見ながらニッコリと微笑んだ。
「アンドレ、紹介するぜ。左からジャン、ジュール、ピエール、ラサール、フランソ
ワ。これが俺の部下だ。」
「部下って、そりゃ無いよ!」
「そうだよ!確かに俺たちのグループのリーダーはアランだけど、部下はないで
しょ。」
「差別反対。」
「うるせえな!俺より弱いんだから文句言うんじゃねえ!」
 またしゅんとなる一同に、アンドレは声を立てて笑った。その様子を見て、海賊達
は一瞬目をパチクリさせたが、互いに顔を見合わせ、ぷっと吹きだした。部屋には明
るく、温かい人のぬくもりが広がり、短い間に、アンドレと彼らを親しくさせた。ア
ランやオスカルと同じで他の海賊もみな優しいことに、アンドレは安心した。海の上
で、互いを本当の家族のように思い合っている彼らは、同じ船の上にいるアンドレの
ことも、自分たちと同じように見てくれた。そして彼らもまた、アンドレの気さくさ
と、人間としての魅力にすっかり惹かれてしまった。楽しい時間は穏やかに過ぎてい
き、窓から差し込む昼の光のように、みなの心は温かかった。人と人とが関わり合い
になるとき、そっと心がつなぐ手を、彼らはしっかりと握りしめあった。
 時間は過ぎ、気がついたときは、少し強めだった昼の光が、鈍い夕暮れの光に変
わっていた。水平線の向こうに沈んでいく、焼け石のような夕日は、ゆっくりと人々
に影の時間を教え、その緩やかな光でみなの顔を赤く染めた。ぬるそうな色で光るそ
れに手を伸ばすと、あの白かった昼の太陽よりも、熱く感じられた。皮がじわりと焼
かれていくようで、額にうっすら汗がにじんだ。そしてその少しゾッとする夕日の方
には、陸はこれっぽっちも見えなかった。見えるのは、その光によって濃いオレンジ
に染められた海だけだった。
「じゃ、そろそろおいとまするか。」
 海賊達は床から腰を上げ、ドアの方に向かっていった。
「じゃあなアンドレ、また来るよ。」
「ああ、いつでも暇なときに来てくれ。」
 みんな口々に別れのあいさつを告げ、笑顔で退出していった。そして最後に、アラ
ンがドアに手を掛けた。しかし彼は出ていこうとせず、手でドアを静止させたまま、
じっとアンドレを見た。その視線を不思議に思い、アンドレは一瞬口を開こうとした
が、すぐにやめた。アランのその探るような目がやけに真剣で、声を掛けるのは何と
なく気が引けた。
 互いに見つめ合い、しばらくしてから、アランの方から口を開いた。
「お前…」
「え?」
「お前、もしかしてオスカルのこと…」
 それを聞いた瞬間、アンドレの体温はいっきに上昇した。体中がカッと熱くなり、
相手を見ていられなくなり、顔を伏せてしまった。アランの探るような目線を感じ、
ほんの少し目を動かし、アランの足を見た。口ごもりながら、やっと喉の所に来た言
葉を出した。
「それが何か?」
 そのアンドレの様子にアランは表情を変えず、ただジッと彼を見つめていた。そし
てふっと肩の力を抜き、目を伏せた。
「なんでもない。忘れてくれ。」
 そう言うと、小さくドアをきしませ、静かに部屋を出ていった。部屋に残ったアン
ドレは枕に顔を埋め、頭の中でオスカルの名前をめぐらせていた。その姿が脳裏に浮
かぶたびに体は火のように熱くなり、胸から喉にかけて、締め付けられるような甘い
痛みが走った。
「オスカル…」
 そう呟くと、自分の息が顔にかえってきた。いつもの自分の息より熱く感じ、それ
が余計に胸を痛くした。
「分からない…こんな気持ち、初めてだ…俺にはまだ、分からない…」
 目からは涙がこぼれた。なぜ泣いているのか、自分にも分からなかった。ただ苦し
く、ただもどかしく、満たされない何かに自分自身が飲み込まれていた。しかしこん
な激情の中で、胸の真ん中はポッカリとした空洞になり、その穴を風が吹き抜けて
いった。その風には温度が無く、ただ激しく自分を揺さぶっては、気まぐれに止み、
それによりまた胸を苦しくさせた。
「オスカル…」
 自分のことが何もかも見えなくなっていく中で、確かに彼の中に存在しているの
は、この言葉しかなかった。

(2)

 夕食の後、アランは浮かない顔で椅子に座っていた。椅子の背にもたれ、目は部屋
の隅を見つめていたが、さらにその向こうを見通すような目つきだった。物音がした
ように思い顔を後ろに向けると、オスカルが立っていた。
「何をしている?」
「別に。」
 素っ気なく答え、そのままじっとオスカルの顔を見つめた。白い肌に男物の服は
痛々しく、黄金の髪と青い瞳は、その高貴な香りが場に不似合いだった。
「なんだ?私の顔に何かついているか?」
「別に。」
 前をむき直し、首に手をかけた。頭の中では、さっきのアンドレの部屋でのことが
ぐるぐると回っていた。それが気を妙にさせ、何となく態度を素っ気なくさせた。オ
スカルはその様子に、不信感を募らせながらも、あえて何も訊かないことにした。
「船医から、アンドレがだいぶ回復したと聞いた。」
「へぇ。」
「立ち上がるくらいなら大丈夫だそうだ。」
「良かったじゃねえか。」
「ああ。これから伝えてくる。」
 そう言うと、オスカルの気配はドアの方に移り、静かに部屋から消えた。部屋に残
されたアランは、またジッと、部屋の隅を見つめた。
 あのアンドレの見せた表情は何なのだろう。話をしているときもそうだ。オスカル
の話題になると、一瞬体を強ばらせた。何となく気持ちが落ち着かないという風で、
目には動揺に似た何かがよぎっていた。そして自分がオスカルのことを言ったときの
あの態度は、どう考えても少しおかしい。いきなりそんなことを言われて、驚いただ
けだろうか。それともやはり、オスカルを特別視しているからだろうか。やはり、今
は深く考えるべきではない。どちらにせよ、まだ確信がないことだ。それなのに、が
むしゃらに探ろうとしても、何も見えてはこない。だったら今は静かに、全てを見
守っていればいい。行動をするのは、何かことが起きてからでいい。
 アランはため息をつき、机の上にあった酒に手を伸ばした。手にしたときに、瓶の
重さしか感じられなかったので、少し気分が悪くなった。瓶を置いて目を閉じると、
灰色がかった闇が自分を包んできた。