海の呼ぶ声
          
                  第三話



「今日は少し歩いてもよいそうだ。」
 アンドレが立ち上がれるようになって何日かが過ぎた日の夜。オスカルは部屋に
入ってそう言った。その嬉しそうな表情に、アンドレもニッコリと微笑んだ。
「どうだ。外に出てみないか。月がきれいだぞ。」
「ああ。そうしようか。」
 ベッドから立ち上がる際、少しだけオスカルに肩を貸してもらう。オスカルに触れ
た瞬間、血は沸騰し、呼吸は止まってしまう。心臓さえもその動きを止めてしまうの
だが、その動揺を抑え、アンドレは表情を崩さずにオスカルの手を握る。立ち上が
り、脈が正常になってきたので、足をゆっくり前に出してみた。オスカルが先に立
ち、アンドレの手を引く。その手の先だけは、まだ小さく震えていた。一歩一歩、足
の裏の感覚を確かめながら進んだ。これが《歩く》ということなのだと、確認しなが
ら進む。以前は、そんなことまるっきり分からなかった。歩くということは、《行
動》という一塊りの物の一部で、それ自体が単独で存在していることになど、気付い
てはいなかった。全ての物が一つ一つとして存在し、例え一部だと言われる物でも
《一つ》であることに変わりがないのだと、ここにきて気付いた。
 ドアを開け、外の空気を吸う。その瞬間、何とも言えない感動が胸に押し寄せてき
た。長い間、どこかに閉じこめられていたような気がする。そして今、全ては羽を広
げ、大きく空を仰いだ。見えない鳥たちが次々と空へ飛び立ち、自分の隣を、幾つも
の風が通りすぎていった。一つの風はアンドレに当たって散り、部屋へと流れ込ん
だ。自分の今までいた世界で感じていた風を、自分は別の場所で感じた。それが、無
性に嬉しかった。空では星がまっすぐな光をこちらに投げかけ、月は全てをてらして
いた。円を描きながら光は世界中を飛び、今この時、何人もの人々の胸に届いてい
る。それだけのことで、世界の全ては美しく輝けた。そしてそれが、たまらなく幸せ
なことに、アンドレは思えた。
 オスカルの手は、そっとアンドレの手から放れた。その自然な動きに、アンドレは
黙って従っていた。自分一人で立ち、自分一人で歩いて、手すりの所まで行った。自
分自身が思った以上に重く感じられ、一人だと意識するだけで、全身が強ばった。手
すりに手を掛け、安心したように息をついた。空を見上げると、月が本当に美しく
光っていた。
「きれいだな…」
 隣でオスカルが呟いた。アンドレはオスカルを見つめ、もう一度月を見た。
「ああ。」
 月の黄金の光は、オスカルにも届いていた。けれどその光は、彼女の美しさを引き
立てる照明でしかなかった。ブロンドの髪は、何にもまして輝き、全てのひかりは、
そこから生まれているように思えた。
 お前の方がきれいだ…。
 心の中で呟くと、胸が苦しくなった。
「夜の空は、真っ暗ではない。濃い青、藍色の青だ。」
「ああ。」
 夜の深みが、どんなにお前に手を伸ばしても、お前はさらわれはしない。お前のそ
の、類のない瞳の青は、他のどんな物もうち砕いてしまう。夜は、衣擦れの音を立て
て、静かに月の元へ帰っていく。
「海は優しい。全ての母だ。いつか朽ちるときが来たら、私はこの海へ帰る。人類が
この海から来たのなら、人類の生家は海だ。そして私は、この海で生まれ育った。な
らば私は、自分の家である海へ帰る。」
「ああ。」
 例え肉体が朽ちても、魂は朽ちない。お前はきっと、この海で精霊達に導かれ、永
遠の母となるのだ。誰よりも優しく、心癒される存在。それが母だ。お前は、全ての
母になれる。こんなにも、美しい心をもっているのだから。
 アンドレは黙ってオスカルを見つめ続けた。いつの間にか頬には涙が伝い。黒い瞳
は止めどなく溢れるそれにより、かすんで見えた。アンドレの視線に気付き、顔を向
けたオスカルは、涙を流す彼にギョッとした。
「どうしたんだアンドレ。私は、何か気にさわることでも言ったか?」
「いや、何も言ってない。」
「そうか…」
「ああ。」
「お前…家が恋しいか?」
「…ああ。」
「そうか。海を見て、思い出させてしまったのかもな。すまない。」
「いや、違う…」
「安心しろ。必ず帰してやる。家族の下へな。」
「……ああ。」
 違う、家が恋しくて泣いているのではない。こんなにも、胸が苦しいのはお前のせ
いだ。こんなにも、涙が止まらないのはお前のせいだ。俺の胸に溢れているこの感情
は、全てお前へのものだ。もう今は、何もかもどうでもいい。お前がそこにいるのな
らそれでいい。例え家族に二度と会えなくとも、お前が側にいてくれるのならそれで
いい。お前さえいれば、もう何もいらない。
 アンドレはサッと顔を背けた。その様子に、オスカルはまた不安になった。彼の肩
は、小さく震えていた。
「アンドレ?」
「ごめん…オスカル。もう寝るよ…。今日の夜風は、俺の体に合わない…。」
 そう言って、ドアノブに手を掛け、顔に涙の跡を残したまま部屋に入っていった。
その後ろ姿を、オスカルは不安な表情で見つめていた。
 部屋に入り、ドアを閉めると、アンドレはその場に崩れ落ちた。目からは勢いよく
涙が流れ、肩が小刻みに揺れた。喉が締め付けられ、途切れ途切れに言葉が漏れる。
「好…きだ…。」
 そう呟くと、また涙が溢れてくる。心臓はもう動いているのかすら分からない。自
分が自分でいるのかすら分からない。頭の中では、ただ同じ言葉だけが回り回ってい
た。
「好きだ…。国より、生まれ育った家より、家族より、お前が好きだ。初めて会った
ときから、ずっとお前に恋してた…。好きだ、好きだ…。愛している…」
 部屋には静かな泣き声だけが響いていった。全ては音をひそめ、今という時は、彼
がその思いを自分のものなのだと知るために存在した。ゆっくりとゆっくりと、彼の
心は壊され、そして同時に、作られていく。しかしそんなことは、彼には分からな
い。彼の中に今感じられるのは、満たされない感情と、果てしない恋しさによる、胸
の痛みだけだった。