海の呼ぶ声
          
                  第四話
(1)

「どうしたもんかな。」
 アランは甲板に出ながら、ポツリと呟いた。海は視界の全てに広がり、それを船は
二つに割りながら進んでいた。それによってできる白い泡を目で追いながら、さっき
のアンドレの様子を思い出すと、ため息が出た。

「お前、何かあったのか?」
 いつも通り椅子に座り、相手を観察した後、アランは単刀直入に切り出した。それ
を聞いてアンドレは、少し体を固くしながらも笑顔を返した。
「何が?」
「だから何でもだよ。何かあったのか。」
 アンドレの笑顔や動作に苛立ちを感じながら、つい強い口調になってしまった。そ
のアランらしくない様子に、アンドレは少しとまどった。目が不安げに光り、眉間に
しわが入り、口元が下に下がった。
「別に何もない。」
 アランはまたアンドレを観察し始めた。この前から、どうも様子がおかしい。時々
ふと、どこかに思いを馳せるような目をする。それは、未だ見ぬ故郷へだろうか。そ
れは違う。もっと近く、けれど手の届かないような場所に対する、切なげな瞳だと、
アランは察していた。いったいどこへ?誰に対して?以前の不安が心に蘇ってくる。
まさか、本気でオスカルのことを想っているのではないか?しかし、そんなことが
あっていいのだろうか?彼女は海賊だ。それに…
「お前、少し変だぞ。」
 アランのセリフに、アンドレは顔をしかめ、訝しげに彼をを見つめた。含み笑って
やろうと思っていたが、あまりに真剣な表情だったので遠慮した。アランの目は、こ
ちらの内をえぐるようにサッと侵入してきた。視線は奥深く、心の周りをなでるよう
に回って、核に近付こうとしていた。それがたまらなく不快になってきたので、アン
ドレは顔を背けた。シーツを握り、その少し堅い感触を手に刻みながら、目を伏せ
た。
「どんな風に?」
 アンドレのその困っているような、迷っているような態度に、益々不安は募った。
たまらなくなり、自分の考えていたことを、全て言ってしまいたくなった。だが考え
が確信に近付くほど、言い出せなくなるのだ。確かだと思うほど、言った後が恐ろし
くなるのだ。しかしその恐怖とは裏腹に、確かめなければならないという意志は、確
実に根を張っていた。それはひょっこりと頭を出し、言葉を喉元まで導き出してきて
はまたスッと帰っていく。そしてその後はまた、恐怖が覆い被さってきて、言葉を砕
いてしまうのだ。
 アランはもう一度よくアンドレを見た。そして試すように、一つの言葉を投げかけ
た。
「オスカル…」
 アンドレの体はビクッと震えた。シーツを握っている手には力がこもり、戸惑いが
重なり合って、向けられた目は何かの恐怖で怯えている。それはアランの言葉自体に
ではない。その言葉が示すものに対する己の感情に怯えているのだと、すぐに察しが
ついた。そして赤くなっている頬は、その感情がどんな物かを物語っていた。
 アランは大きくため息をついた。その息が部屋に響くと、空気が重苦しく、体に
乗っかってきた。その恐ろしい重さに耐えきれなくなりそうで、アンドレは息を止め
た。そしてまた、息が吐き出された口から次に出てくる言葉を恐れた。何が来るか分
からない中、確かに感じるのは不安と動揺だった。そして恐れた言葉は、まっすぐに
彼を打ちのめした。
「愛したのか?」
 天井と床が部屋にはある。しかし今、それのどちらが上か下かは分からなかった。
ただ頭がぐらぐらと揺れ、意識が渦を巻いて消滅していくようだった。軽い目眩がし
て、焦点がアランに合わなくなった。そしてその目眩が退いた後、彼を襲ってきたの
は熱い困惑だった。そして胸から喉にかけて痛みと疼きが同時に走り、その感覚が混
乱と共に、彼を押し流した。波が収まると、唇がかすかに震え始めた。頭の中は真っ
白になり、昨今襲ってきた熱の正体が、彼を呆然とさせた。
 しっかりと意識したはずだったのに、それを人から言われると、動揺は抑えきれな
い。しかも、初めて言われたとなると、その混乱は倍になる。今、なんと口を開いて
いいのか、彼にはまったく分からなかった。
 そのアンドレの様子を見て、アランは黙って下を向いた。アンドレから何も言葉が
返ってこない。それだけで充分だった。暗黙の内に承認された。そこに愛があるのだ
と。愛が確かに生まれ、愛が確かに根付き、愛が確かに育っているのだと。もう何
も、問うことはなかった。
 アランはそのまま黙って部屋を出た。甲板に出ると、風は頬に涼しかった。日差し
は眩しすぎた。世界の全てが音を奏でていた。存在する物全てが叫び声をあげた。そ
して一人の男の叫びも、確かに彼には届いた。アランは前を見据えながら、見えない
大地に思いを馳せ、同じく見えない未来にも思いを馳せた。
 どこまで続いていくのだろうか。海は。そして大地は。また、人々の空想に生まれ
た冥界も、どこまで広がっているのだろうか。何もかも、限りなく続けばいい。生命
も、愛も、どこまでも走っていけばいい。その向こうにたとえ何もなくとも、進めば
いいのだ。そこにしか生きていく意味は存在しないのだ。
 ふと、どこまでも広がる海の果てに、黒い点のような物を見たような気がした。よ
く目を凝らしてみると、それが島であることが分かった。久々の大地ということで心
が躍り、気分はいっきに良くなった。皆に島が見えたことを言いに行こうとしたと
き、アランは前に出した足を止めた。ふりかえり、もう一度島を見てみる。そして気
分は、いっきに急降下していった。
「おい…次の目的地って言やあ…」
 島は確実に、その姿を大きくしていった。

(2)
「おい、どういうことだ。目的地までは、あと1週間近くかかるんじゃなかったの
か。」
 アランの大声が部屋に響いた。舵をとっていた小柄な男は急いで双眼鏡を取り出
し、島の姿を確認した。確認した後は、目を点にしてアランを見つめ、ただただ首を
横に振った。
「そんな…俺だって知らなかった…。だっていつもなら……」
 そこで男はハッとしたように口をつぐんだ。アランもそれを察し、寄せた眉を少し
ゆるめた。男の手から双眼鏡を奪い取り、島の姿を見る。たくさんの船が止められて
いる港が見え、石造りの古い家々も見えた。アランはため息をつきながら双眼鏡を下
ろした。
「間違いない……」
 太陽の光は窓を壊してしまいそうなぐらい強く、風は追い風だった。
「あの島だ……」

 アランにオスカルのことを言われ、アンドレはすっかり動揺してしまった。
 愛していた。もうそれは明らかなことで、今はその思いをどうしていいか分から
ず、ただただ困惑していた。しかし幸いなことに、彼女はここ最近、アンドレの部屋
に出入りしていなかった。こんな状態で会ってしまうと、どう彼女に接していいか分
からなくなりそうで、少し恐怖心を抱いていたアンドレは、寂しいと思う反面、ほっ
としていた。しかしよく考えてみると、この一週間の間は、まったくと言っていいほ
ど彼女の姿を見ていない。それどころか、窓から彼女の澄んだ声が聞こえてくること
もなかった。何か病気でもしたのだろうかと、一瞬不安がよぎった。そしてその不安
は確実に根付き、アンドレの気を落ち着かなくさせた。アンドレは体を起こし、ベッ
ドの縁に座った。腕を組み、眉を寄せて、ジッと床の染みを見つめていた。そして
ふっと顔を上げ、その顔をバシリと手で叩いた。息を吐き、窓を見つめてみる。操縦
室に降り注いでいた強い日差しが、アンドレの部屋にも流れ込んでいた。
「行ってみよう…」
 呟くと、ぐらりと体が揺れた。決意を口にすると、目眩のような感覚さえ襲ってく
る。それは、その目的のせいだった。
 歩けるようになった。確か、部屋は隣だった。行けない距離じゃない。行ってみよ
う。
「オスカルの部屋に…」

「アラン……このまま行けば…明日の朝には着くんじゃ…」
「だろうな……」
「ここ最近、風がよく吹いてると思ってたんだ。多分、季節風の時期と重なったん
だ。でもいつもなら…進行が速くなったらいつも……」
 アランは男の頭をぽんと叩いた。
「そうさ、いつもなら…オスカルが教えてくれた……」
「オスカルの航海士としての腕は完璧だから…」
「ああ…だが今回の目的地は、あいつにとって……」
 そこまで言うとアランは黙りこくった。男もその様子を見て、黙って下を向いた。
深い沈黙が部屋に広がり、互いの肩に、空気の重さを感じた。昼の光は鋭く、事情を
知るもの達には痛々しかった。

(3)
 夜になり、昼間の暑さが嘘のように船上から消えた。夜風は体に冷たいぐらいで、
風が頬をかすめるたびに、ブルッと背筋が震えた。アンドレはオスカルの部屋の前で
その扉を見つめたまま、何もできないでいた。部屋からはかすかな光が漏れ、中で何
か本をめくるような音が聞こえてきた。アンドレはノブに手を掛けるたびに、それを
すぐ引っ込めた。オスカルの顔を思い浮かべると、顔がほてり、冷たいと思った夜風
が気持ちいいほどになった。
 なんと言おうか。なぜ最近、自分の部屋に訪ねてくれないのかと言えば、それを催
促しているようだろうか。だが、いきなりどこか調子が悪いのかと訊くのもどうだろ
う。まあ、考えてみてもしょうがない。とりあえず、部屋に入ってみて、オスカルの
姿を見よう。そうすれば、話したいことがきっと山ほどでてくる。
 アンドレが覚悟を決め、ノブに手を掛けたときだった。前に出した手をパッと誰か
につかまれ、ドアの前からぐいっと引き離された。驚いて、自分の手をつかんでいる
人物を見ると、それはアランだった。アランは少し息を荒くし、アンドレを見つめて
いた。大きく見開かれた目は、困惑と怒りが入り交じったような目だった。いつもの
アランの目とは明らかに違い、その目にアンドレは恐怖さえ感じた。腹の部分が何と
なく気持ち悪くなったとき、アランはまた強く手を引っ張った。そのままアンドレは
甲板の所まで連れて行かれ、真ん中の所に来ると、今度は肩をつかまれた。手に込め
られた力が余りに強かったので、アンドレは痛いと言うのも忘れ、ただただ呆然とア
ランを見つめた。アランは睨みつけるようにアンドレを見ていたが、ゆっくりと口を
開いた。
「お前…オスカルの部屋に行って…何するつもりだった…?」
 その力のこもった声と言葉に驚き、アンドレは首を振りながら答えた。
「何も、やましいことをしようとしたわけじゃない。」
「そんなことは分かってる!!お前がそんな奴じゃないことぐらい、みんなとっくに
知ってる!!」
「じゃあ何で…」
「だから質問に答えろ。何をしようとした。」
「ただ…最近オスカルが俺を訪ねてこないので、体調でも崩したのかと思って、不安
になったから、たまには俺から訪ねてみようと……」
「そういうことか……」
 アランは大きく息を吐き、小さく首を揺らしながら、アンドレの肩から手を外し
た。腕はだらんと下げられ、安心とも落胆とも取れるその態度に、アンドレはただ困
惑するだけだった。アランは手すりの所まで行き、腕を置くと、隣に来るようにと、
身振りでアンドレに伝えた。アンドレは黙って横につき、アランの横顔を見つめた。
アランは海を見つめたまま、アンドレの方も見ず、口を開いた。
「安心しな…別に病気じゃないさ…。ただな、あいつに会っても、あいつがここしば
らく顔を出さなかったことには触れるな。それと、これから行く島も…」
「島?」
「ああ。追い風のせいで、予定より早く着いた。朝方には、姿がハッキリ見え出すだ
ろうよ。その島は…オスカルには、いや、俺たちにはちょっと関係があってね……」
 そういうと、アランは自分の顔を、手に埋めた。深いため息がアンドレの耳に届
き、なぜか心をざわつかせた。
「気付くべきだったんだ…。あいつが部屋から出てこなかった時点で…。いつもみた
いに、書物にかかりっきりになってるとかじゃない。目的地を考えれば、分かること
だったんだ…。うかつだった。」
 アランは顔を上げ、アンドレを見た。目が合い、二人の瞳が一直線に繋がった。互
いに、何かを探るような視線を相手に投げかけた。
「あいつは……島には降りないだろうよ。」
「え?」
「お前は仲間じゃないけど…お前にだって知っておく権利はあるんだ…お前も、オス
カルを愛してるんだからな……」
 お前も。という言葉が耳に残ったが、アンドレはあえて触れないことにした。アラ
ンは空を見上げ、一番星に焦点を合わせた。冷たい夜風が、二人の間を吹き抜けて
いった。