海の呼ぶ声
第五話
(1)
仲間がいた。均整の取れた顔で、静かな男だが、気さくで、けっして暗い男じゃなかった。剣や銃の腕は、オスカルと並ぶぐらいだった。知識もそうとうな物で、皆がまったく興味を持たないような、政治や歴史、芸術にいたるまで、奴は独学で学んでいた。オスカルも、いつも学びたそうにうずうずしていたが、海賊だ。と言ってかたくなに拒んでいた。みんなあいつには一目置いてた。あいつは、オスカルの親友でもあった。
フェルゼンはいいやつだった。みんな、あいつが好きだった。そしてオスカルは、いつもあいつを特別な目で見ていた。あいつを見るときのオスカルの目は、どこか違っていた。相手の核の部分、魂の部分を見つめるように、ほんの少し目を細めるときもあった。
愛していることは分かっていた。愛されているフェルゼン以外、みんな知っていた。俺はいつも、オスカルの恋する瞳を、黙って見つめた。苦しかったが、我慢はできた。フェルゼンの心が、オスカルにないことが分かっていたからだ。あいつがオスカルを見るときの目には、深い友情以外のものは感じられなかった。そしてオスカルにとってそれが、とても酷だということも、俺には分かっていた。
何年もの日々が海の上で過ぎた。潮風が吹き抜けるたびに、帆は笑った。そしてオスカルの髪も、妖精達の鱗粉を飛ばすように、キラキラ輝いた。その傍らには仲間がいた。俺がいて、フェルゼンもいた。だが、そんな日々に突然終わりが訪れた。
フェルゼンが恋をした。ある時立ち寄った島で、美しい女性に恋をした。二人は一目で恋に落ちた。互いに求め合い、心と心が手を伸ばし合った。まるで、小説か何かのような恋だった。フェルゼンが惚れた女は、よりによって、その国の王妃だった。
王妃が供を連れて、海岸を散歩しているときに出会ったという。外国からの商人ということで、話をしたという。話をしている間も、二人の間には言葉にならない物が芽生えていった。運命なんて、科学的じゃないさ。偶然なんて、存在しないさ。全て、必然が重なり合って生まれる。必然の向こうにだけ、未来がある。
あいつは、そのあるはずのない運命を信じるといった。信じて、自分の心と王妃の心に殉じると言った。身分の違いと、公にできぬ恋に苦しもうとも、それが運命であれば、耐えてみせると言った。あいつはありったけの財産をもって船を下りた。その時、オスカルもまた、自分の財産の全てを、あいつにくれてやった。今でも、驚いてオスカルを見つめるフェルぜんの顔が目に浮かぶ。オスカルはそんなあいつに、いつもと違う張りつめた声で言った。
「それで爵位を買え。そして、貴族になって、王宮に出入りしろ。ここはいい島だ。
そしていい国だ。そして王妃様はいい方だ。愛に殉じると決めたのなら、ほんの少しでも、幸せになれ。」
オスカルは空を見つめていた。その横顔は、悲しみと、不思議な緊張と、言葉にならない気持ちで、いつもと違う物に見えた。フェルゼンはジッとオスカルを見つめ、心から礼を言って、船を下りた。その日、オスカルは夕食もとらず、早くに消灯した。そしてオスカルの暗くなった部屋から、冷たいすすり泣く声を、俺は聞いた。
あれから、何年経っただろう。世界中を回っているこの船が、また、あのドラマのあった島に向かうことになった。航路を考えた末の、しょうがなく決定したことだった。みんな、暗黙のうちに気を遣っていたのだ。オスカルは、複雑な顔をして、その決定を聞いていた。
「そんな時だったよ。お前が海で浮かんでるのを発見されたのは…」
アランは強い目でアンドレを見つめていた。アンドレは混乱とショックが入り交じった表情をして、うつむいていたが、アランの言葉を聞いて、顔を上げた。
「正直嬉しかったよ。お前が来たことで、オスカルがウツにならずにすんだ。お前から世界の多くのことに触れるのが、楽しくてしかたないようだったよ。あいつは、本当はこんな所でくすぶっていていいような奴じゃないんだ…。頭もいいし。人から物を盗るよりも、勉強して、陸で暮らす方がずっとあいつにはいいんだ…」
アンドレはその言葉を聞いて、ひどく複雑な気持ちになった。それはアンドレも考えていたことだった。オスカルには、確かに海が似合う。剣も似合う。勇み戦う姿も、きっと似合うだろうと、アンドレは思っていた。しかし時々、彼女が窓の外を見つめながら、切なげな表情をするのを、アンドレは見逃さなかった。オスカルはその度に、そっと呟いた。
「陸は、この海よりも狭いな。」
「ああ。」
「だが、知識は陸にしかない。この海にあるのは、神話と伝説。非科学的な物ばかりだ。」 ふっと含み笑い、手に持った本に目を落とす彼女を見て、アンドレは妙に胸が騒いだのだった。しかし今は、その事よりも、オスカルの片想いを聞いたショックの方が大きかった。愛した人がいた。そしておそらく、今も愛し続けているだろう。
頭痛がして、こめかみが痛んだ。いつの間にか、夜は水平線にその姿を隠そうとしていた。当たりは明るみ始め、空は、淡い赤と青によって、かすかに紫がかっていた。
「見てみろ。」
アランはゆっくりと前方を指さし、顎を動かした。アンドレはそっちを向いて、あっと声をあげかけた。都会的な街と、所どこに緑が見られるその美しい島は、もうハッキリとその姿を現していた。
(2)
船は商船を装って、港に停泊された。島の人々は皆温かく、船員達をむかえた。
次々に、島へ降りていく船員達の足音を、オスカルは自分のベッドの上で、黙って聞いていた。天井の一点を見つめ、時々視界に入ってくるランプを、うっとうしいと思った。ふとアンドレのことが頭をよぎり、彼をどうしようかと考えたが、アラン達が面倒を見るだろうと思い、寝返りをうった。シーツに顔を埋め、小さく息を吐きながら、島のことを思い浮かべて心を痛めた。
あの人は元気でいるだろうか。時々は、自分の愛した人に会って、幸せにしているだろうか。
そんなことを考えると、急に涙が湧いてきた。口元を小さく笑わせながら、涙を流れるままに流させた。クッという、嗚咽にも、笑い声にもとれるような小さな声が漏れたが、それ以上は何も聞こえてこなかった。部屋は不思議なほどの静寂をもって、オスカルを包んでいた。時々、波によって、押し上げられるような揺れを体に感じた。その揺れが心地よく、連続的にそれが来たときは、涙が止まった。しかしそれが止まるとまた、涙は頬をつたって、シーツに染み込んでいった。シーツにできた涙の後を見ながら、オスカルは呟いた。
「苦しい…。人を恋するということは、こんなにも苦しい…。忘れられない…。どんなに時間が経っても…フェルゼン、お前を……。バカだな私は…男として育てられておきながら、恋をするなんて…」
その時だった。ドアから、乾いた木の音が響いた。人の手と、木が触れ合ったときに出る、その温かい音が、オスカルの耳に届いた。オスカルはサッと体をあげ、ドアの方を向いた。目が驚きによって見開かれ、ドアの一点を凝視していた。
「オスカル。俺だよ。入ってもいいかい?」
アンドレの声だった。オスカルはなぜか、逆らえないようなものを感じ、短く返事
をした。ドアが開かれ、光と共に、アンドレが部屋に入ってきた。太陽が丁度アンドレの真後ろに位置し、逆光によって、オスカルは少し目を細めた。ドアの閉まる音と共に、自分の目の前に、黒い髪の青年が立つのが分かった。
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