海の呼ぶ声
          

第6話

                  (1)
「船を降りないのか?」
 アンドレの口をついて出たのはその言葉だった。オスカルはふっと目 で笑うと、首を振った。かすかに赤くなった目 を見て、アンドレの胸は締め付けられた。
「なぜ?こんなにいい天気なのに。」
「なんでも。」
 オスカルはベッドから立ち上がると、アンドレの側を通り抜け、ドアを開けた。すがすがしい風が頬に触れると、肌に少し鳥肌が立った。恐いほど気持ちの良い日だった。
「アラン達は?彼らに連れて行ってもらわなかったのか?」
「いや、お前が…」
 そこまで言って止まった言葉に、アンドレ自身とまどった。お前が、何なのだろう?お前が、どうしたというのだろう?お前が、お前が…。と、その言葉だけが頭の中を回り回った。
 オスカルは小さく首をかしげながら笑うと、広がる雄大な自然に目 を向けた。また風が通り抜け、光る金髪が揺れた。長いまつげの先に小さな雫が光った気がした。
「久しぶりの大地だ。今降りておかなければ、またしばらく土には触れられないぞ。」
「それはお前も同じだろう。」   
「私は…いいんだ…」
「なぜ?」
 アンドレは大きく足を開いてオスカルに歩み寄った。オスカルは外を見つめたまま、吹いてくる風に目 を細め、ほんのりと寂しそうな表情を浮かべていた。また小さく首を振る彼女が、アンドレはもどかしくてたまらなかった。
「あの島に…いるから…」
「誰が?」
「お前の知らないやつだ。」
 風が一段と強く吹いた。部屋の中にいるアンドレの髪も吹き上げられ、部屋にほのかに充満していたバラの香りも渦を巻いたように思えた。アンドレは怒 ったようにオスカルの腕を掴んだ。その行為に驚いたオスカルは、サッと顔をアンドレに向けると、何か言いたげに口を小さく動かした。
「何を…」
 かすれた声が、風に吹き消されて空に消えた。アンドレはオスカルの鼻先まで顔を近づけ、少し怒 ったように表情は崩れ、悲しそうに瞳が光った。
「お前は…なぜそんなに…」
 傷付くのか。アンドレは問いたかった。しかし言葉は止まってしまい、彼は静かに首を垂れた。そして反対に、オスカルの腕を握る手には力がこもる。少し恐くなったオスカルは、無理に小さく笑うと、腕を握る彼の手に自分の手を乗せ、優しく撫でた。それでもアンドレの手に込める力は弱まらず、握られたところはだんだんと痛くさえなってきた。
「離して…くれ…」
 オスカルが言うと、アンドレはまた顔を彼女に向けた。瞳が今度は強く光った。唇をかむと、静かで深い声がアンドレの口から響いた。
「離さない…お前が…苦しんでいるなら…」
 オスカルは驚いたように目 を見開くと、アンドレを見つめた、黒くまっすぐな瞳が見つめ返してくる。そして彼の責めるような、問いかけるような瞳に耐えきれずに、オスカルの目 から涙がこぼ れた。
「逃げてるんだ…」
 首を振りながら、崩れ落ちるように、オスカルはその場に座り込んだ。顔はアンドレの方に向けられ、彼を見つめる瞳からは、止めどなく涙がこぼ れていた。アンドレは彼女の目 の高さに合わせてかがむと、腕を掴んでいた手をそのまま肩に移 動させ、軽く揺すった。
「逃げてるんだ…。逃げてる…彼から…自分の気持ちから…。」
 アンドレは苦しそうに顔をゆがめると、サッと彼女の肩を引き寄せた。爪が立つくらい強く力を入れると、思いもよらず、彼女の震える声が聞こえてきた。
「恐いんだ…」
「誰だって恐いさ…」
「臆病なんだ…」
「みんなそうさ…」
 後はもうただ、彼女の細い泣き声が、部屋に響くだけだった。肩に涙の温かさを感じながら、アンドレは黙って彼女の肩を抱き、ゆっくりと髪をなでた。部屋に充満していた香りは風に連れ去られたが、鼻先では強いバラの香りが漂っていた。

                  (2)
 
「アラン、なぁアラン。」
「ん?」
 酒場では昼間からだらしのない男達が入り浸り、小太りの女将に怒 鳴られていた。薄暗い店内にはカビと酒の混じった臭いが充満し、部屋の端から瓶が壊れる音が数分おきに響いていた。アランは頬に手を当て、何もかもに無関心だというふうに顔をそっぽに向け、手でグラスを遊ばせていた。ジャンやフランソワは不安そうに顔を見合わせ、二人で顔をアランの方につきだしていた。
「アンドレさ…連れてこなくて良かったのかな…?」
「オスカルも残ってる。」
「オスカルは…その…」
 困って縮こまった二人に、アランは意味ありげな微笑みを向け、酒を呷った。店の外は気持ちの良い空が広がり、商人達が慌ただしく行き来していた。窓から、浮き出るように光が入ってきていたが、広い店内はそれだけでは輪郭をハッキリさせていなかった。光がハッキリとさせていたのは、店を舞い散る埃と、安っぽい壁の色だけだった。アランが床に目 を落とすと、所々涙のような染みが出来ていた。
「出てきたいと思ったら出てくるさ。」
「アンドレが?」
「オスカルも。」
 二人は一瞬息をのんだように後ろに反ると、疑い深げにアランを見つめた。アランは相変わらず顔を下に向け、床の染みを見つめていた。そして唐突に大きく息をすると、グラスをダンと机に置き、荒っぽく立ち上がった。
「外の空気吸ってくら。」
 背伸びをしながら店を出ていくアランを、二人は複雑な面もちで見送った。
 外の眩しさは、安っぽい臭いの中に浸っていたアランにとって、痛いぐらいだった。頭をふり、深く息をつくと、通っていく商人や子供を漠然と目 に入れ、商品の値段の口論や、他愛のないうわさ話なども、耳をかすめさせていった。すべてが自分の上を撫で、通り過ぎていくようだった。確かな手触りを求めようとしても、それは自分から逃げていき、ずっと捕まえられないような気がした。小さい頃はもっていたような気がする。けれどいつからか、懐からこぼ れるように逃げていった。確かなものさえ何か分らないのに、ただそれは逃げていく。そんな気がした。
「俺は駄目 なんだ…」
 店の壁に体を預け、目 をつぶり、風を感じる。オスカルとアンドレの間を通り抜けたのと、同じ風。
「俺は…不器用すぎるんだ…」
 どこにも逃がすことの出来ない感情を、皆持て余している。同じ悩みを抱えながら、その悩みの行き着く先である人々にも、同じ風が吹く。それが、ひどく残酷に思えてたまらない。