風のささやき ― V ― 娯楽室のざわめきが、風に乗って聞こえてくる。 非番の兵士の殆どが向こうに行っているのか、今日の宿舎には人の気配が感じられない。 その中を一人、アンドレが訝しげな表情で面会室へと向かっていた。 当番兵の告げた『可愛い女性』に思い当たる人物をいろいろと考えてみても、該当する人が思い浮かばない。 ジャルジェ家のメイドの誰かが来ているのだろうか? もし館で何か緊急の事態が起きたのなら、使用人の誰かが早馬を飛ばして来るはずだ。 メイドに来させるようなことはしないだろう。 それに面会ではなく、直接用件が伝えられる。 では一体誰が、面会日でもないこんな日に訪ねてきたのだろう? 考えれば考えるほど、謎は深まるばかり。 不安な気持ちを抑えつつ、アンドレは重く閉ざされた面会室の扉に手をかけた。 大きく開けられた窓から、もうすぐ夕陽になりつつある日差しがそそがれている。 普段の面会日なら大勢の面会人と兵士達で賑わうこの部屋も、今はひっそりとした佇まいで、一人の女性を包み込んでいた。 窓辺の席に座ったその人は、外を行き交う衛兵達をぼんやりと眺めながら、待ち人を待っている。 近くを通ったのでちょっと覗いただけなのに、こんな所にまで通されてしまって・・・ お忙しいでしょうに、申し訳ないことをして・・・ 後悔の念にかられながら広い面会室の片隅で、女性は小さく身じろぎをした。 その時、大きな扉が静かに開いた。 「すみません、お待たせしました」 ゆっくりと扉を閉めながら、アンドレが面会室に入って来る。 窓辺の女性は弾かれたように席をたった。 アンドレの位置からだと逆光で表情までは良く見えないが、その小柄で華奢な姿には見覚えがあった。 「ロザリー!?」 「ああ、アンドレ!」 新聞記者ベルナール・シャトレの妻としてパリに住むロザリーは、大きな瞳に涙を浮かべてアンドレを見つめている。 「突然どうした? ベルナールに何かあったのか?」 彼女が手にしたハンカチが、微かに震えているのが見てとれた。 先日、アラン達を救出する際、アベイ牢獄を民衆が包囲するように演説をしたのがベルナールだった。 兵士達は釈放されたが、そのことで彼が逮捕されないとは限らない。 まさか・・・ という最悪の考えが頭を横切った。 「ベルナールなら大丈夫。ごめんなさい、アンドレ。またオスカル様に笑われちゃいますね」 ロザリーはゆっくりと涙を拭いて、いつもの春風のような笑顔に戻った。 「ごめんなさい、本当に。ばあやさんのお加減が悪いと聞いて・・・ お見舞いの帰りなの」 それを聞いてアンドレは少しホッとすると同時に、祖母を見舞ってくれたロザリーに感謝の気持ちでいっぱいになった。 明日をもしれない殺伐とした状況の中で、彼女は昔のままの優しい気持ちを持っていてくれる。 ロザリーの笑顔に誘われるように、自分もまた笑顔になっていることにアンドレは気付いた。 アンドレも窓辺により、ロザリーと向かいの席についた。 「おばあちゃんも久し振りにロザリーと会えて、喜んでいただろう?」 「ええ・・・」 そう応えたロザリーは、寂しげに目を伏せた。 彼女が屋敷にいた頃、女中頭として元気に動き回っていた祖母の伏せった姿は、大変なショックであっただろう。 オスカルの為に作ったドレスをロザリーが着てくれることを、本当に喜んでいた祖母であった。 育ての母を亡くした身寄りのない彼女を、実の子のように可愛がっていた。 そんな彼女と会うことができて、祖母もきっと勇気づけられたことだろう。 これでまた元気になってくれると良いんだけど・・・ 最近の情勢だけでなく、祖母のそんな姿はアンドレの気持ちを重くしている。 ロザリーはそんなアンドレに気付き、もう一度にっこりと笑った。 「オスカル様、お忙しそうですね」 「ああ。今、ベルサイユに出かけているんだ。ロザリーと会えないなんて、あいつもきっとガッカリすると思うよ」 「わたしもとても残念」 そう言いながらロザリーは、とても和やかな瞳をアンドレに向けた。 ― W ― 七月の太陽が地平線の彼方に沈み始めた頃、娯楽室の騒ぎもようやく収集したようだ。 兵士達もそれぞれが各宿舎に戻り始め、夕食の時間を待つだけとなっていた。 「長居しちゃって・・・ ごめんなさい、アンドレ」 辻馬車の窓から身を乗り出し、この日何度目になるかわからない『ごめんなさい』を告げながら、ロザリーが手を振る。 「ロザリー、今日はありがとう!」 「オスカル様にもよろしくお伝えくださいね」 遠ざかる馬車を見送ると、アンドレも仕事に戻るべく踵を返した。 もうそろそろ、オスカルも戻ってくるだろう。 それまでに残っている資料の整理を済ませておきたい。 司令官室へと続く長い廊下を歩きながら、先ほどロザリーに尋ねられたことを思い出していた。 『ばあやさんも気にしていました。オスカル様のこと・・・』 今日はこんなことばかり聞かれる日だ。 吐きたくもない溜め息が思わず漏れる。 何も知らない兵士達は、すれ違うたびに先ほどの面会の件をひやかしていく。 いつもなら軽く笑い飛ばせるような言葉にも、今は苦笑を漏らすのがやっとのこと。 あいつに何て言えば良いのかと、頭を抱えたくなる気分を抑えながらアンドレが司令官室の扉に手を伸ばした時、背後から声がかけられた。 「どうした、アンドレ? なんだか疲れているようだが・・・」 「え!? あ、オスカル!」 「何をそんなに慌てている? どうかしたのか?」 「急に声を掛けられたからだよ。何でもないさ」 そう言うといつもの優しい微笑を浮かべながら扉を開ける。 オスカルも勧められるまま部屋に入り、つけていた手袋を机に乗せた。 そしてくるりと振り返り、アンドレを見つめた。 「兵達に聞いたんだが・・・ 面会があったそうだな?」 「ロザリーが来たんだ。おばあちゃんを見舞ってくれた帰りに寄ったそうだ」 「おまえに女性が会いに来たと、みんなが騒いでいると思ったら・・・ そうだったのか。私も会いたかったな、この間はせわしなかったから・・・」 「・・・ロザリーも残念がっていたよ」 机の上に散らばっていた書類を揃えながら、アンドレは先ほど彼女に言われたことを伝えようか悩み、つい返事が遅れてしまった。 そんな些細な動揺も、心を通わせた今のオスカルには読み取られてしまうようだ。 「アンドレ、何かあったのか? 随分と上の空じゃないか?」 「あ!? べ、別に何もないよ。みんなと騒いで、疲れたのかな?」 あはは、と笑って誤魔化したものの、オスカルの見詰める瞳には訝しみの色が残っている。 これはきちんと伝えた方が良さそうだ、とアンドレは判断した。 「実は・・・」 「ん?」 「ロザリーに言われたんだ」 やっぱり何かあったんじゃないかという顔をしながら、オスカルは先を促した。 「おまえの雰囲気が、前と違っていたって・・・」 「私がか? どんな風にだ?」 「ああ、何だか柔らかくなった感じがするって言っていた」 「おまえも、そう思うのか?」 「俺はいつも一緒だから・・・」 揃えた書類を手渡しながら、アンドレは首をすくめてみせた。 「だけどおばあちゃんも、似たようなことをロザリーに言っていたみたいだ」 「何なんだ、みんなして?」 自分の知らないところでいろいろ言われているものだな、とオスカルから苦笑がもれる。 渡された書類を机に置くと、脇に立つアンドレの手に自分の手をそっと添えた。 「変わってしまった私は嫌いか、アンドレ?」 「俺にはいつだって、おまえが一番だよ」 そう囁くとアンドレは、添えられたオスカルの手にそっと口付けた。 本当なら思い切り抱きしめたかったが、ここは司令官室。 お互いの立場を考えて、何とか自重したアンドレだった。 彼が口付けた場所に唇で触れながら、オスカルは優しく微笑んだ。 「今日はもう終わりだ・・・ 久し振りに屋敷でゆっくり過ごせるかな?」 「もちろんだよ。何も考えずにのんびりできるさ」 最近の情勢を考えたら、きっとそんなことは出来ないだろうことは容易に想像できる。 だけどほんのひと時でも、煩わしい出来事から開放されても良いのではないだろうか。 そんな些細な望みを思いながら、アンドレはオスカルの髪を優しく撫でた。 「馬車の用意が出来たら呼びに来るよ」 「ああ、頼む」 一人残された司令官室で、オスカルは静かに窓辺に立っていた。 空には夕焼けの名残の、薄い紫色をした雲がたなびいている。 「私は、傍目に見てもわかるほど、変わったのか?」 そんな空を見ながら、彼女はそっとつぶやいた。 「もしそうなら・・・ それはおまえのせいだ、アンドレ」 馬車を先導しているアンドレの姿が目に入った。 もうしばらくすれば、彼が迎えにくる。 久し振りの屋敷で、今までとは違った私をばあやに見てもらおう。 私達がどんなに幸せでいるか、ばあやはきっと気付いているのだろう。 そんな私達を見てもらおう。 言葉にしなくても判っていてくれる、大好きなばあやに・・・ 残照の中、オスカルの金の髪をそよ吹く風が優しく包んだ。 まるで、今の彼女の心そのままのような優しい風が・・・ 〜 FIN 〜 |