永遠の瞬間


『・・・・・もう少し・・・』

オスカルは掛布をひっぱりあげ、頭からかぶった。夏の日差しは、閉じたカーテン越しに、容赦なく一日の始まりを告げている。

『もう10分・・・いや、5分、3分でもいいから・・・・・』

しなやかな長身を子どものように小さく丸めた。
あとほんの少しでいいから、眠らせて欲しい・・・・・。
疲れきった体が、休息を要求している。再び眠りの縁へと引き込まれそうになったとき、小さな咳が彼女を襲った。慌てて起きあがり、両手で口をふさぐ。

しばらく咳き込んだが、喀血することはなかった。白い手のひらを見つめ、オスカルは深いため息をついた。

『いつまで隠していられるだろう?』
深い夜空のような瞳を思いながら考える。
オスカルのことなら、どんなに些細なことでも知っている彼。気づかれずにいるのはずいぶんと大変なことだろうと、オスカルはもう一度ため息をついた。

彼には知られたくなかった。いや、知らせたくなかった。今の自分が彼にあげられるものは、病んだ体と尽きない愛情だけだった。
それならば、とオスカルは思う。
彼と少しでも多くの幸せな時間を過ごしたい。いつか近い将来、自分がいなくなった後、彼が立ち上がる力となれるよう、たくさんの美しい思い出を残したい。
だから、隠さなければならないのだ。彼の苦しみを少しでも先延ばしできるように。

初めて血を吐いた日、思わず彼にすがりついた。ひとりにしないでほしいと、らしからぬ願いを口にしたとき
――死ぬまでそばにいてやるぞ
低い柔らかな声が、オスカルの震える心を優しく潤してくれた。
ゆっくりと力が満ちてくる。彼に支えられ生きてきた自分という存在を、痛いほどに感じた瞬間だった。
ああ、愛している!こんなにも深く、こんなにも激しく、思いの限りを込めて・・・!!
だから、誓ったのだ。今まで気が遠くなりそうな時を捧げてくれた彼に、今度は自分の時間を捧げようと・・・。

オスカルは重い体を引きはがすようにして、寝台から離れた。鏡の前に立って、そこに映る女を観察する。
「とても、アンドレに見せられる顔じゃないな・・・。」
両手で頬を軽くたたいた。少しでも赤みが差して見えるようにと願いながら・・・・・。


『どうやら間に合ったようだ』

アンドレは、ジャルジェ家の気配を感じ、ほっと安堵の息をついた。
使用人達が、朝の挨拶を交わしている声が聞こえる。まだ大丈夫だ。屋敷を抜け出したのを、誰かに咎められることはなさそうだった。

夜明け前に屋敷を出て、ある場所に行ってきた。
近頃疲れの目立つ彼女に少しでも笑顔をあげたくて、連れて行きたいところがあった。迷わずに、彼女に不審がられずにそこへ行けるよう、何度目かの練習を終えてきたのだった。

『今日あたり行ってみるか』

空を見上げ、目を細める。
ほとんど見えなくなった目にも、やはり、夏の太陽はまぶしい。そう感じることで、どこかほっとする自分が哀しかった。

『こんなことがいつまで通用するのだろう?』
太陽の輝きにも似た黄金の髪を思い、深いため息をつく。
屋敷の中はすべてそらんじた。兵舎も、大丈夫だ。けれど、いつまでもその場所だけで過ごすわけにはいかない。この不穏な世情では、いつどんなことが起こるか分からない。その時、自分にはいったい何ができるのだろう?

アンドレは、もう何度も自分に問いかけた疑問を繰り返す。
彼女を、自分の命より大切な彼女を、おまえは守ることができるのか?
守りたい。何に代えても、守らなければならない。
心はそう答えるが、今の自分にそれができるのかどうか、確信は持てなかった。

目を閉じるとこんなにも鮮やかに浮かぶ彼女の面影が、目を開けたとたん、光と影のあわいへと消えてしまう。自分にむかい微笑んでいる彼女を、もう一度見たかった。
想いを通わせてから幾日たっただろうか。
ぎこちなく抱かれていた彼女が、今ではごく自然に寄り添い、優しく自分を抱きしめる。日ごとに、深くなる抱擁。腕の中の細い体が、まるで自分の一部であるかのように感じられる。
愛している、愛している!!いったいこの想いは、どこまで深く、どこまで大きくなっていくのだろう。

だからこそ、とアンドレは思う。
彼女には隠さねばならない。嘆いている時間はない。しなければならないことは数限りなくあるのだ。

アンドレは馬から降り、厩舎へと向かった。彼の姿を見かけ声をかけてくる使用人仲間に微笑んで挨拶をかえしながら、幾度となく繰り返した誓いを新たに胸に刻みこむ。
「オスカル、おまえは俺がきっと守ってみせる。」
大きく深呼吸をした。新しい朝の空気が、力を与えてくれるようにと願いながら・・・・・。


衛兵隊では、このところ待機が続いている。仕事と称しておおっぴらに休んでいられることで以前は歓迎すべきものであったが、今ではその向こうに『出動』あるいは『出撃』が見え隠れする。口にはださないが、すぐそばにきているその時を、誰もが感じていた。

その日も、午後からは待機であることが告げられる。
兵舎に引き上げていく兵士を見つめるオスカルに、ダグー大佐が声をかけた。
「隊長もお戻りください。」
「ああ、ダグー大佐。ありがとう。」
「司令官室ではなく、お屋敷へ・・・。」
オスカルの瞳が、大きく見開かれる。
「顔色がよくありません。かなりおつらいのではないですか。」
日頃はよけいなことは言わないダグー大佐だったが、このところの彼女の顔色が気になっていた。
「報告すべきことは、お屋敷まで必ず連絡いたします。隊長になにかありましたら、隊全体の士気にかかわりますれば。」
隊の心配を装いつつ、いたわってくれる気持ちが嬉しかった。事実、疲れ切っていたオスカルは、その言葉をありがたく受けることにした。
「ありがとう。ダグー大佐、あなたの言うとおりだ。今日はお言葉に甘えさせてもらおう。」
オスカルは傍らに控えているアンドレを振り返った。
「そういうことだ、アンドレ。屋敷に帰る用意を。」


馬を並べて、ふたりは帰路についた。
「やはり馬車にしたほうがよかったのではないか?」
「大丈夫だ。みんな心配性だな。」
オスカルは笑って答える。その声に安心したアンドレは、遠慮がちに言葉をつなぐ。
「オスカル、こんな時になんだが、もしおまえがよければ寄り道したいところがあるんだ。」
「どこへ?」
「う・・ん。それは行ってみてからのお楽しみ、かな。」
「ずるいな。そんなふうに言われたら、だめなんて言えないじゃないか。」
オスカルはアンドレのそばに馬を寄せると
「おまえが連れて行ってくれるのなら、どこだってついて行く。」
アンドレだけが聞くことのできる甘やかな声で、そう囁いた。

アンドレは屋敷への道を少しはずれると、小さな森へと馬を進めた。途中で道がなくなると馬からおり、ふたりは手をつないで森を歩いた。
梢の間から漏れる光が、足下で小さな影を踊らせている。木陰を冷たい風が吹き抜けると、オスカルはつないでいた手をほどき、アンドレの腕に絡ませた。何だか甘えてみたくなって、その腕にそっと頭をもたせかける。髪に小さな口づけが落ちてきて、幸せで泣きたくなってしまう。オスカルは両方の手をアンドレの腕にしっかりと絡ませ、頭をすり寄せた。そんなオスカルが愛しくて、アンドレは何度も輝く髪に唇を寄せるのだった。

しばらくすると、オスカルが小さな声をあげた。
「アンドレ、ここ・・・。」
「気がついた?」
アンドレは微笑んでオスカルを見つめる。
「ああ、この木!これは私の木だ、そうだろう、アンドレ?」
「思い出した?」
「思い出した!私たちの秘密の場所だ。」
蒼い瞳がアンドレに向かって輝く。白い頬がほんのりと薄紅に染まった。
「そう、おまえのお気に入りの場所だ。ふたりでよく来たよね。ほら、おまえの名前が彫ってある。」
アンドレが指さした幹には、《OSCAR》と文字が刻まれていた。その隣には、《ANDR》と刻まれた木が大きく枝を伸ばしている。
「アンドレ、おまえの名前、途中でとまってる。」
オスカルが笑うと、アンドレが不満そうに眉をしかめた。
「それはおまえのせいだ、オスカル。自分の名前を彫ろうと言いだしたのはおまえなのに、途中で手が痛くなったって泣きそうな顔をするから、俺が代わりに彫ってやったんじゃないか。忘れたのか?おかげで、俺のは中途半端で終わってしまった。俺も手が痛くなったからな。」
「そうだったっけ?」
「そうだよ。我が儘お嬢様。」
額を寄せて、微笑み合った。思い出をたどるオスカルの瞳が、さらに輝きを増す。
「アンドレ、この先に泉があったな?」
「ああ。」
「行ってみよう!」
オスカルはアンドレの手をひっぱって先を急いだ。

やがて小さな泉が姿を現した。澄んだ水が、木漏れ日を受けて、まぶしく輝いている。
「昔のままだ。」
オスカルは、吐息と一緒に呟いた。笑いながら駆け回る、小さなアンドレと自分が見えるような気がする。光を掬うように泉の水を手に取り、口に含んだ。
「昔と同じ・・・。冷たくて、涼やかで・・・・・。懐かしい味がする。」
オスカルは、そのまま泉の中で手を泳がせていたが、アンドレを振り返ると小さく、けれど力強く言った。
「時が流れても、世の中が移ろっても、けっして変わらないものがあるんだな。」

アンドレはオスカルの言葉に頷くと、包み込むように彼女を抱きしめた。
「この泉は俺だ、オスカル。どんなに時が過ぎても、枯れはしない。おまえを思う気持ちはこの泉のように尽きず溢れて、小川となり、やがて大河となり、海に注いでいく。オスカル、おまえという海へ・・・・・。
こんなにも愛せる人に出会えた。俺は、なんという幸せな男なんだろう・・・・・。」

アンドレの声が、ゆっくりと体中に染み渡る。
オスカルは、アンドレに正面から向き合った。自分だけを映してくれる瞳が、そこにあった。彼の背中に腕をまわし、ぎゅっと抱きしめる。胸に顔を押し当てると、規則正しい鼓動が聞こえてきた。彼の何もかもが、たまらなく愛しかった。

すがりつくようなオスカルを優しく抱きしめ、アンドレは言葉を続ける。
「だから、オスカル、何も心配するな。おまえはおまえの心のままに生きていけばいい。おまえが正しいと思う道を選び取ればいいんだ。
倒れそうになったら、俺が支える。泣きたいときは、ここで泣けばいい。
たとえどんなことが起きても、おまえがおまえらしくあるために、俺がありったけの力を注ぐから・・・。」

アンドレのぬくもりに包まれて、オスカルは思う。
私こそこの泉なのだと・・・。
深い森に守られて、ひっそりと息づく泉。守ってくれる森はおまえ。おまえのおかげで、私はその姿を変えずに今日まで生きてこられた。心の求めるままに、自分を偽ることなく。もしも守ってくれる森がなければ、泉はどうなっていただろう。荒らされ、その水は濁り、枯れてしまったかもしれない。
アンドレ、おまえと一緒でなければ、きっと今の私はいなかった。私こそ、世界で一番の幸せ者だ・・・。

返事の代わりに、さらに強く彼を抱きしめた。彼の背中にまわした手から重ねた胸の鼓動から、この想いが伝わるように・・・。


言えない秘密を抱え身構えていた心が、静かにほぐされる。愛し愛される喜びは言葉を奪い、暖かな想いが体中を満たしていく。
こんな時間を、あとどれくらい過ごせるだろう。永遠とは決して言えない短い時。けれど今、確かに自分たちはここに存在し愛し合っている。それだけで、明日へと続く扉を開く勇気が生まれる。このぬくもりこそが生きる力となるのだ。
腕の中に互いの命が流れ込んでくるようで、いつまでも離れられず抱き合っていた。小さな葉ずれの音だけが森に響き、ふたりを静かに包んでいた。


梢を揺らす風が夕暮れの気配を運んできた。
「帰ろう、風が冷たくなった。」
促すアンドレに微笑んで頷くと、オスカルは来たときのように彼の腕を自分の両腕で抱きしめた。
木々の向こうに泉が隠れる前に振り返ると、今日最後の光を受けて、水面は穏やかに輝いていた。
「・・・・・また来られるかな。」
呟くオスカルに、アンドレが微笑む。
「もちろん。またきっと来よう。ふたりで一緒に・・・。」


1789年7月11日。
オスカルとアンドレの静かな午後が終わろうとしている。
この日、ネッケルの罷免に憤ったパリ市民は、ベルナール・シャトレの演説を機についに武器をとった。
衛兵隊では、連隊本部より、パリへ2個中隊出動の命が下された。まもなく、ジャルジェ家に向けて急使が出発するだろう。

歴史の歯車が、その速度を大きく換えようとしていた。



☆ベルナールのモデルとなったカミーユ・デムーランのパレ・ロワイヤルでの演説は7月12日ですが、原作に合わせました。