午睡 1788



アンドレが眠っていた。
夏の午後の風に吹かれ、幸せそうな笑みを口元に浮かべて。
書斎の広い机の上には、手紙だの書類だの帳簿だのが、乱雑におかれている。
彼は、大きな椅子の背もたれにすっかり体を預け、左手は胸のあたりに、右手はだらりと体からず
り落ちた無防備な姿で、ぐっすりと眠っている。クラバットは緩められ、少しはだけた胸が、規則正しく上下していた。

おいおい、仕事中だろう?
そう言いかけて、オスカルは口を噤んだ。彼がこんな風に寝入ってしまうなんて、珍しいことだった。いつも隙のない身ごなしで、てきぱきと仕事をこなしているアンドレではあったが、彼だって人の子だ。疲れることも、眠いこともあるだろう。いや、彼の疲れは、その大部分が自分に寄るのだと、オスカルは小さくため息をついて、少しばかり反省した。

彼女の衛兵隊転属と共に、彼もまた、特別入隊という形で衛兵隊に入隊していた。隊員たちとのいざこざを目の当たりし、あるいは自らもそこに巻き込まれて、アンドレはどれほど神経をすり減らしたことだろう。しかも彼は今まで通り、屋敷での仕事も十二分にこなしているのだ。疲れないわけがない。

このまま、寝かせてやろう。
そう思いながら、つと彼のそばに寄ってみた。何とも心地よさげに眠るアンドレを見ていると、思わず笑みがこぼれてしまった。その面立ちは大人の男以外の何者でもないのに、どこかしら、幼い頃の面影が見え隠れする。同じ人間の成長前・成長後なのだから当たり前だが、何だか不思議で、何となく嬉しい。自分の寝顔を見る術はないが、こんな風でありたいものだと、幼なじみを見つめながらオスカルは思った。

そよぐ風に黒髪がさらさらと靡いた。その一房が彼の左の目蓋にかかり、頬に薄い影を作る。ああそうかと、オスカルは気がついた。いつも彼の左目を覆っている髪がなかったから、その顔に幼いアンドレを見つけたのだ。
その発見は、彼女の胸に切ない痛みをもたらした。自分のせいで傷ついた左目。濡れて煌めく黒曜石のようだったのに・・・。
アンドレの喪われた瞳は、いつまでもオスカルを悲しませる。彼が首をかしげ、見づらそうにしたり、その左側に位置する物を見過ごしたりするたびに、彼女は自分を責めていた。

少し顔を近づけて、じっくりと彼を観察してみる。
普段、意識することはないが、こうしてみるとなかなか整った顔立ちだと思う。濃い眉、すっきりした鼻梁と顎のラインが与える精悍な印象に、長い睫毛が甘さを添えている。
『彼に熱をあげている女の子たちには、困ってしまいますわ』
『アンドレと飲みに行くと、ヤツばかりがモテるんですよ』
オスカル付きの侍女、コレットや、隊員たちの言葉を思い出し、オスカルはなるほどと頷いた。この顔で、あの性格だ。そりゃあ、女たちがかしましいことだろう。そういえば、宮中に伺候しているときも、彼目当ての貴婦人が何人もいたはずだ。
アンドレがその気になれば、たいていの女性はモノにできるのに、彼が未だに独身で、恋人のひとりもいないのは自分のせいなのだと、オスカルの胸は、再びチクリと痛んだ。

アンドレが愛してくれていることは、かなり手痛い彼の告白で知らされた。あれから、気心の知れた、かなり親密な幼なじみだと思っていた存在を、オスカルは少し距離を置いて見つめてみた。そうして見えてきたものは、全て、愛情と呼ぶより他に名付けることが出来ないことばかりだった。
自分が心地よく動けるよう、さりげなく細心の注意を払ってくれた。
どんな我が儘を言っても、憎まれ口を聞きながら、いつだって受け入れてくれた。大切に伸ばしていた髪を切って、盗賊の真似さえしてくれた。
目に傷を負っても、一言だって責めなかったのも、失明すると分かっていて助けに来てくれたのも・・・。
ああ、そうだ。黒い騎士を打とうとしたのを止めてくれた。あれは、ベルナールのためというよりは、自分を思ってのことに違いない。感情のままに行動し、後で傷つくだろうことを、誰よりもよく知り、憂えてくれたのだ。
彼の行動のひとつひとつが自分への愛故だったのだと思うと、オスカルはめまいがしそうだった。
自分は果たして、これほどの想いに価する人間なのだろうか。

アンドレが女として愛してくれている。
それはオスカルにとって、衝撃的ともいえる事実だった。本当なら、彼を遠ざけなければならなかったのだ。それが女である自分の身を守ることであり、また、彼のためでもあったろうから・・・。
実際、そうしようと考えたのは、一度や二度ではない。何度も何度も、彼の手を離してしまうことを、オスカルは考えていた。けれど、結局今日まで、それが実行されずにいるのは、彼無しの自分は想像も出来なかったし、彼もまた同じに違いないと思ったからだ。
だが、果たしてそうなのだろうか?自分はともかく、彼はひとりでも生きていけるのではないだろうか?

わたしはずるいのだ・・・・・。
アンドレの無邪気ともいえる寝顔を見ながら、オスカルは心で呟く。
とどのつまり、自分はアンドレから離れたくないのだ。彼がそばにいてくれる心地よさを、失いたくない。何よりも、今までふたりで過ごしてきた日々を、過去のものにしたくはなかった。
一緒に笑い、泣き、時には互いのために怒り、慰め合ってきた。自分がいて、彼がいる。ふたりで紡いできた時間や空間。それは何ものにも代え難く、オスカルの中に泰然と存在し、彼女自身を作り上げる重要な役目を担っている。衛兵隊赴任後に経験したさまざまな出来事を経て、オスカルは、ようやくそのことに気づいたのだ。

おまえがわたしのそばにいてくれたから、今のわたしがあるのだな・・・。
そう思ってアンドレの寝顔を見つめていると、彼がとても愛おしく思えた。それは、男女の間の狂おしく燃えさかるようなものではなく、穏やかで優しい、まるで春の木漏れ日のような、それでいて、遠乗りの最中に見つけた清水のように、手を伸ばさずにはいられない、そんな感情だった。

オスカルは、アンドレの左目にかかった髪をそっと払った。その目蓋には、今もまだ、薄い傷跡が残っている。
この傷跡さえも私たちの絆だと、おまえはそう言ってくれるのだろうか。
彼の寝息がかかるほどに、さらに顔を近づけてみた。彼女の肩から髪がはらはらとこぼれ落ち、彼の顔の周りを金の天蓋のように覆う。その一筋が風に揺れて、アンドレの頬を掠めた。

ん・・・
小さな声と共に、突然、アンドレが目を開いた。息のふれあう距離で、あまりにも間近に見つめ合う
形になったふたりは、互いに大きく目を見開いた。

「うわっ!!」
最初に叫んだのはオスカルで、彼女は、まだ眠りから醒めきっていないアンドレを突き飛ばすようにして飛び退いた。その勢いでアンドレは椅子から半ばずり落ち、不安定な体勢を立て直すため無理に起きあがろうとしたあげく、頑丈な机にしこたま頭をぶつけてしまった。
「・・・ってぇ・・・・・」
額を抑え、机に突っ伏したまま身動きしない彼に、まだ動悸のおさまらない胸を押さえながら、オスカルが声をかけた。
「す、すまない。大丈夫か?」
「・・・・・・大丈夫なもんか・・・。目の前で、星がチカチカしてる・・・。おれ、こんな目に遭わされるようなこと、おまえに何かしたか?」
「おっ、おまえが急に目を開けるから!!」
「起きるのに、いちいち断りがいるかねぇ・・・。」
「起きるなんて思わなかったんだっ!」
それはかなり理不尽な理由だぞと、アンドレはぶつけた所をさすりながら、やたらと怒鳴りつけてくるオスカルに目をやった。赤い顔でふくれている様子がかわいくて、小さな笑みが彼の頬に浮かぶ。
「何がおかしい!?」
「おかしくなんかないよ。」
「今、笑ったじゃないか!おまえは、おかしくもないのに笑うのか?そんなヤツだったのかっ!?」
ああ、もう何が何だか・・・。
アンドレは、ついに耐えきれず、笑い出してしまった。
「笑うなっ!!」
「だ、だって、オスカル。おまえ、むちゃくちゃだよ。」
腹をかかえ、ひとしきり笑ったあと、にじむ涙をぬぐいながら、なおもふくれっ面の彼女に声をかけた。
「で?」
彼女の話を聞くべく、椅子に座り直す。
「何の用?」
机に肘をつき、組んだ両手に顎をのせて、にこにこと笑うアンドレの前に、どんとワインが一本置かれた。その銘を見たとたん、彼の笑顔にピシリとひびがはいった。
「おまえ、これ、だんな様が大事にしてらした逸品じゃないのか!?」
目の前に置かれたボトルは、確かにジャルジェ家当主秘蔵の品に違いない。血の気のひいたアンドレに向かい、次期当主は、ニヤリと不敵に笑って見せた。
「さすがアンドレだ。よくわかったな。」
「よくわかったなって・・・。オスカル、だめだよ。だんな様に見つからないうちに、返してきた方がいい。」
「いやだ。今夜はどうでもこれを飲んでやる。」
「オスカル!」
澄んだ蒼と、深い黒。ふたりの視線がバチバチと音をたてたかどうか、しばらく見つめ・・・、いや、睨みあったあと、小さなため息と一緒に、困ったように伏せられたのは、蒼い瞳だった。

「誕生日おめでとう、アンドレ。」
優しい声音で照れくさそうにオスカルが言う。あ・・・とようやく思い出したアンドレに、にっこりと頷いた。
「やっぱり忘れていた?このところ忙しかったから、そうじゃないかと思っていたんだ。」
「すっかり忘れてた。おれ、いくつだっけ?34?ん〜、なんだかなぁ・・・。」
「ふふ、もうお兄さんは卒業だな。」
わたしも似たようなものだがと思いながら、オスカルは彼の複雑な表情にくすくす笑った。
「実は、おまえに贈るものを用意できていないんだ。ごめん。」
「何言ってるんだ。おまえこそ忙しかったろう?そんなことしている暇があったら、少しでも体を休めろよ。」
さりげないアンドレの言葉が、ふんわりと彼女を包んだ。
こうしていつだって、おまえはわたしを優先してくれるんだな。
心に温かなものが満ちてくる。彼が、彼と生きてきた日々が、たとえようもなく愛おしかった。

「こいつはその埋め合わせだ。おまえの仕事が終わったら、ふたりで乾杯しよう。」
ボトルを指ではじくオスカルに、そんな危険な埋め合わせはいらないと、アンドレはぶんぶんかぶりを振った。
「乾杯なら他のワインでもいいだろう?おれにとか何とか言って、おまえ、自分が飲みたいだけじゃないのか?」
うっ、少々痛いところをつかれた。これだから、カンのいいヤツはイヤなんだ。
「図星だろう?おまえねぇ、おれを巻き添えにするなよ。」
ため息混じりのアンドレに、彼と同じポーズで肘をつき、組んだ手に顎をのせたオスカルが向き合った。
「それはなきにしもあらずだよ。でも、おまえの生まれた日を祝いたいのも本当だ。・・・・・なんだか、去年の今日が、ずいぶん遠くに思えるんだ。この1年が、あまりにもめまぐるしかったから・・・。ずいぶんいろんなことがあって、わたしの立場もすっかり変わって・・・あ、もちろん、おまえもだけど。」

ポツリポツリと話すオスカルの一言が、アンドレに苦い過去を蘇らせた。1年の間に、ほんとうにいろいろなことがあった。いくつもの矢が、オスカルめがけていっせいに放たれた――そんな毎日だった。とりわけ、自分が放ち、彼女を傷つけてしまった矢は、彼自身をも深く射抜いていたのだ。

そんな彼の気持ちを知ってか知らずか、ゆっくりと言葉を選びながら、オスカルは話を続ける。
「わたしの勝手で、おまえにも大変な思いをさせてしまった。仕事も増やしてしまったし・・・。でも、いろいろあったけど、とりあえず衛兵隊は落ち着いた。おまえのおかげだ。本当に、感謝してる。」
アンドレは胸の内が熱くなった。取り返しのつかないやり方で傷つけてしまったのに、彼女は自分に感謝するというのだろうか。自分こそが、数え切れないほどの感謝を、彼女に捧げなければならないのに・・・。
「オスカル、そんな風に言わないでくれ。おれがしたことなんて、たかが知れてる。奴らが変わったのは、全部おまえの力だよ。
「わたしももちろん努力はしたさ。でもね、アンドレ。おまえが支えてくれなければ、わたしはとうの昔に、この荷物を放りだしていたと思う。いつもそばにおまえがいてくれたから、ここまでやってこられたんだ。わたしが持てる以上の力を出せたのは、アンドレ、やっぱりおまえのおかげだよ。」

オスカルのまっすぐなまなざしが、しっかりとアンドレを捉えた。
自分は震えているのではないだろうか。目と胸の奥が、焼け付くように熱い。
言いたいことはたくさんあるのに、言うべき言葉が見つからず、彼は、ただ彼女を見つめ返すことしか出来なかった。
「だから乾杯しよう、アンドレ。とっておきのワインでわたしたちを祝ってやろう。こんなに頑張ってきたんだ。それくらいのことをしたって、バチは当たらないさ。そう思わないか?」
オスカルの声が、彼を幸福で染め上げる。生まれてきた意味を、彼女と巡り会った意味を、アンドレは、今またひとつ、見つけたような気がした。

「わかったよ。そういうことなら、喜んでお相伴にあずかるとしよう。」
微笑んで答えると、オスカルの瞳が、悪戯っぽく輝いた。
「それでこそ、わたしのアンドレだ。父上に見つかったときも、よろしく頼むぞ。」
「おい、おれのせいにする気か?」
「おまえは、これからもわたしを支えてくれるのだろう?ははっ、期待してるぞ。」
「おまえねぇ・・・。」
大袈裟にため息をついてみせるアンドレに晴れやかな微笑みを投げかけて、オスカルは立ち上がった。
「話はこれで終わりだ。早く仕事を終わらせろよ。あまりわたしを待たせるんじゃないぞ。」
「はいはい、お嬢様。」
これじゃあ、誰の誕生日なのかわからないよと、心の中で呟いたが、小さな愚痴は、熱くなった胸の内で溶かされ、笑顔へと形を変えた。

オスカルが後ろ手に手を振って部屋を出て行った後、アンドレは椅子の背に深く体を沈め、彼女が消えた扉をしばらく見つめていた。

愛しくて愛しくてたまらないオスカル。その髪もまなざしも、のびやかな肢体も、強くしなやかな精神も、彼女のすべてを愛していた。抱き締めて自分のものにしてしまいたい。その思いは、まるで埋み火のように、胸の奥深くで静まっている。時折、オスカルがかき立てる炎は、その都度、慎重に丁寧に、さらに深く埋め直してきた。それは切なくつらい作業だったが、これでよかったのだ。燃え上がった炎を消せずにいたなら、今のオスカルの笑顔を見ることは叶わなかっただろう。
本当は愛して欲しい。自分と同じ想いを返して欲しい。
それが嘘偽らざる本心ではあったが、彼女のくれた信頼と感謝は、彼の望むものに優るとも劣らないことを、アンドレは知っていた。

ありがとう、オスカル。何よりの贈り物だ。
扉に向かって、静かに微笑む。目を閉じ、彼女が言ってくれた嬉しい言葉を、何度も繰り返してみる。そうして、ゆっくりとかみ砕いたあとに残されたのは、やはり彼女への愛に他ならなかった。オスカルを愛したから、自分もまた、さらなる力を出し得たのだ。

もっと強くなりたい。もっと大きくなりたい。
何者にも負けず、彼女を守れるよう。彼女が自由に羽ばたくための翼となれるよう。
そしていつの時も、彼女から必要とされる存在であり続けるよう。

窓から入る風が、熱くなった体に心地よい。アンドレはひとつ大きく伸びをした。
「昼寝は終わりだ。さぁ、後は大車輪でこいつを片付けるとするか。おまえとオスカルが待っているからな。」
机の上に端然と居座るワインを見ながら、呟いた。いかめしい当主の面影がちらりと過ぎったが、すぐにオスカルの笑顔に取って代わった。
これはもう病気みたいなものだよなと苦笑しつつ、心の中でそっと当主に詫びをいれて、アンドレは散らばった書類に手を伸ばしたのだった。


fin.