午睡 1789



司令官室の前、あと扉まで3歩ばかり。
ここまで来ると、わたしのほんの少し後ろを歩いているダグー大佐は、必ず歩幅を大きくする。そして、わたしより前の位置を一瞬だけキープして、扉のノブに手をかける。
「どうぞ。」
そつのないその動きに、軍人とはいえ、やはり彼も貴族の男性なのだなと思う。嫌味でないところがいい。着任したての頃は、女扱いされることがずいぶんと不愉快だったのだが、ダグー大佐を知るに連れ、この行動は彼の人柄によるものだということが分かってきた。実に実直な、愛すべき人物である。

ありがとうと声をかけ、部屋に入った。
やけに静かだ。必ず聞けると思っていた声がないので、小さな不安が胸をかすめる。彼はどうしたのだろう?
席を外しているのだろうか?
不安はすぐに消え去った。司令官室の大きな机に突っ伏して、眠っている彼が見えたから・・・・・。

「おやおや、これはこれは。」
後から入ってきたダグー大佐が声を上げた。
「ああ、すまない、ダグー大佐。仕様がないヤツだな。すぐに起こすよ。」
そう言って一歩踏み出したわたしを、ダグー大佐は慌てて制止した。
「お待ちください、隊長。どうか彼をそのままに。」
思わず振り返ると、ダグー大佐は、にこにこと笑っていた。
「もうしばらく、寝かせてやってはいかがですか?さしものアンドレ・グランディエも、睡魔には勝てないと見える。」
さらに、このところあまりにも忙しすぎたから、早く帰るようにと言う。ありがたいことだが、そうはいくまい。机の上に積まれた仕事に目をやり、情け無い顔をしたに違いないわたしに、2、3日書類の決裁が送れたところでたいした支障はないだろう。今無理をして倒れられては困るからと、ダグー大佐は重ねて言うのだった。
「わたしは大丈夫だ。倒れたりなんかしない。」
「アンドレ・グランディエが倒れるかもしれません。隊長がお休みにならなければ、彼も休めません。」
穏やかに、けれどきっぱりとダグー大佐が断言する。痛いところを突かれた。こうまで言われては、頷くよりほかない。
「わかった、ダグー大佐。あなたの言うとおりだ。では悪いが、今日はふたりして帰らせてもらう。何かあったら、すぐ連絡してほしい。」
「もちろんです。」
ダグー大佐は微笑み頷くと、静かに一礼して司令官室から出て行った。


扉が閉まるのを見届けてから、アンドレに目を移す。たちまち胸の奥が暖かくなってくる。
有能な従僕にして、幼なじみ。そして今は、何よりも大切なわたしの恋人。
ただ見つめるだけで、鼓動が早くなる。そばにいたくて、彼を感じたくて、わたしのすべてが彼にむかい走り出そうとするのに、やっとのことで歯止めをかけた。
ここは司令官室だ。いつ誰が入ってくるかわからない。わたしたちの関係を隠すつもりはないのだが、あれこれ詮索されるのはわずらわしかった。

静かに彼のそばに寄る。しっかり寝入っているようで、起きる気配はない。
疲れているのだ。
わたしの命令拒否に続くアラン達の逮捕、それに続く一連の私の行為は、彼に肉体だけではなく、相当な精神的疲労をも与えているはずだ。わたしも疲れてはいたが、彼とは比べものにならないだろう。もう長い間、わたしが自由に動き回れるように、その段取りや根回しのため、彼はわたしの倍以上の仕事をこなしているのだ。疲れないわけがない。
わたしのために疲れ果てているアンドレが愛しくてたまらず、そっと手を伸ばし、髪に触れてみた。小さく名を呼ぶと、それに答えるように身じろぎをする。それまで机に突っ伏して眠っていた彼が端正な横顔をのぞかせると、わたしの胸が熱くさざめきだした。

もうだめだ。
さっきかけたはずの歯止めは、いとも簡単にはずれてしまった。誰に見られたってかまうもんか。私は今、彼に触れたい気持ちを止められないのだ。
音を立てないよう隣に椅子をおくと、寄り添うように腰掛け、彼と同じように机に頭を預けた。鼻先がふれるほど間近で、彼の寝顔を見つめる。ふたりの距離が、わたしに幸せな気持ちを運んでくる。彼の体温を寝息を、この身に感じることができる距離。
アンドレが目覚めたら、一番最初に彼が見るのはわたしなのだ。
そう思うと何だか嬉しくて、わたしは微笑んだ。彼の長い睫毛や、物言いたげな口元を見つめているうち、その眠りが伝染してきた。風は心地よく、昼下がりの兵舎は静かで、隣にはアンドレがいる。疲れた体が午睡への誘いを退けるなど、不可能に思われた。
ほとんど目蓋が閉じかけたとき、彼が囁いた。

愛しているよ・・・・・

驚いて目をあけたがアンドレは眠りの中にいた。彼の夢の中にまで自分が存在することに言いしれぬ満足を覚え、幸福の中で再び目を閉じたとき、わたしは信じられない言葉を耳にして跳ね起きた。
彼は囁いたのだ。さっきと同じ甘く優しい声で、かわいい・・・・・と。


今まで、自慢ではないが、いろいろな賛辞を受けてきた。それに心を動かされはしないが、わたしも人の子だ。ほめられて悪い気はしない。
美しい、麗しい、りりしい、ステキ。そうだ。ゼウスもよだれをたらしそうな白皙の美青年ってのもあった。だが、未だかつて言われたことがないのだ。≪かわいい≫などというほめ言葉は・・・。

アンドレ、おまえ、誰に言ってる?さっきの愛しているは、わたしにではなかったのか?
わたしは、彼が夢見ている誰かに激しく嫉妬し、アンドレに腹をたてた。そして、それ以上に悲しかった。
立ち上がると、幸せそうな笑みを浮かべるアンドレを、覆い被さるようにしてのぞき込んだ。髪が肩からこぼれおち、彼の顔のまわりをとり囲んだ。

こうして彼を閉じこめておけたらいいのに・・・。
彼が見つめるのはわたしだけで、考えるのもわたしのことだけ。彼の時間はすべてわたしのもので、そうだ、わたしの時間もすべて彼のものだったなら・・・。
そうできるのなら、どんなにかいいだろう。

眠ったままで彼が小さく笑った。
そうすれば彼の夢が覗けるような気がして、わたしは額を彼の額にくっつけた。長い睫毛が震えるように動き、やがて黒い瞳がわたしの目の前で開かれた。アンドレは何度か瞬きをして、ゆっくりとわたしに焦点をあわせると、少し顔をあげ、にっこりと微笑んだ。歌うようにわたしの名が呼ばれ、体の中を甘い痛みが駆け抜ける。

彼が目を覚ましたら、思いっきり怒鳴りつけてやろうと思っていたのだ。なのにその声を聞いたとたん、彼の頬や目蓋や唇にくちづけていた。わたしという人間は、自分で思うよりずいぶん意志が弱くできているのかもしれない。
しばらくわたしのするに任せていたアンドレは、体を起こしわたしを抱き寄せ、膝の上に座らせた。彼の首に腕をまわして体を預けると、楽しげに笑いながら
「今日は逃げないんだな。」
と言う。わたしは何のことかと眉根を寄せた。
「前にも同じようなことがあった。・・・ほら、去年のおれの誕生日に。やはり仕事の合間に眠ってしまって・・・。
目が覚めたら、おまえの顔が目の前にあった。」
「あ・・・」
「で、次の瞬間、突き飛ばされていた。」
そうだ、そんなことがあった。
まだアンドレを愛していると気づかずに、けれど、とても大切だと思っていた頃。離れては生きられないと、そこまで分かっていながらもう一歩が踏み出せずにいた。思えばずいぶん遠回りをしてしまった。欲しいものは、こんなにもすぐそばにあったのに・・・。

くすくす笑う彼の肩に頭をもたせかける。アンドレはわたしの背中をゆっくりなでていたが、ふとその手を止め、少し体を離してわたしの顔をまじまじと見つめた。わたしも、彼を見つめ返した。
やがて小さな吐息とともに、彼が呟いた。
「夢の中におまえがいたのに・・・。目が覚めても、こうして腕の中におまえがいて・・・・・。
ふふ、どこからどこまでが夢なのか、わからなくなってしまう。」
「わたしの夢を?」
「ああ。」
「・・・うそだ・・・・・。」
「うそなもんか。」
アンドレは、わたしを抱き締めて「うそなもんか。おまえ以外の誰の夢を見るっていうんだ?ああ、でも、そんなふうに拗ねてるおまえは、なんてかわいいんだろう。」
そう言いながら、わたしのそこかしこにくちづけた。
かわいい?かわいいだって?
「今、かわいいって言った?」
「言ったよ。」
「うそだ。」
「どうしてうそだと思う?」
不思議そうにアンドレが尋ねる。わたしはしばらく俯いていたが、彼があまりにもじっと見つめるのでだんだん居心地が悪くなり、ついに答えざるを得なくなった。
「・・・・・だって、言われたことがない。」
「言って欲しかったのか?」
信じられないといったアンドレの声音に、急に気恥ずかしくなってしまった。
何を言ってるんだ、わたしは。彼はあきれているだろうか。
いたたまれなくて、立ち上がり彼の腕から逃れようとしたとき、アンドレが再びわたしを抱き締めた。
「ごめん。知らなかったんだ。ぶん殴られても、言っておけば良かった。」
アンドレはわたしを抱き締めたまま、何度もごめん、悪かったと繰り返した。

こんなにあやまってもらうほど、その言葉を望んでいたわけではない。いや、そんな風に思ってもらえるなんて考えたこともなかったし、自分を形容するのにふさわしいとは、今でも信じがたい。けれど何度も詫びてくれ
るアンドレにそうとは言えず、《ぶん殴られても》の一言に少しばかり引っかかりながら、わたしは黙って抱かれていた。わたしの沈黙をアンドレはどう解釈したのか、何度目かの『本当にすまない』の後、ためらいがちにこう言ったのだ。
「言えばおまえが傷つくと思ったんだ・・・。」
傷つく?わたしが?
今度はわたしが驚いた。顔をあげると、アンドレの慈しむようなまなざしとぶつかった。
「おまえ、女の子扱いされると、ひどく怒ったろう?大人になってからは、さすがに怒鳴り散らすことはなくなっ
たけど、露骨に不機嫌になった。あれは・・・・・。」
アンドレは言いよどんだ。その先を促すように、彼の軍服をきゅっとにぎると、小さく吐息をついたアンドレは、思い切ったように言葉を続けた。
「あれは・・・・・自分を否定されているようで、傷ついていたからじゃないのか?」

わたしは答えられなかった。はっきりと意識したことはなかったが、そのとおりだったのかもしれない。沈黙を続けるわたしの頬に、アンドレの大きな手が添えられた。
「おまえは、男であろうとあまりにもひたむきに生きていたから。誰よりも美しくてかわいくて優しいのにと、見ていて切なかった。おまえが背負うものをおろしてやりたい、せめて一緒に背負ってやりたいと、いつも思っていた。・・・なかなかうまくいかなかったけどな。」
アンドレは再びごめんと言うと、唇をゆがめて笑い、目を伏せた。わたしはあわててかぶりをふった。
「おまえにきれいだと言って怒られなかったのは、ドレスを着たときだけだった。」
「!アンドレ・・・」
「もっと早く気づいていればよかった。どんなにおまえが怒っても怒鳴っても、言い続ければよかった。きれいだ、かわいいって・・・。」

わたしはアンドレを見つめた。彼しか見えなかった。
自分でさえ気づかずにいた心の奥を――男として生きようとする裏側で、確かに女としてのわたしが息づき、ふたつの性の間であげていた悲鳴に、アンドレは気づいていてくれたのだ。そうしてわたしだけを見つめ、守り、愛し続けてくれた。なんと深い愛に、わたしは支えられてきたのだろう!
返す言葉を見つけられないわたしに、アンドレは真顔で宣言した。
「オスカル、おまえほどかわいらしい女には、そうそうお目にかかれないよ。おれが保証する。」

彼の声は、乾いた大地に雨がしみこむようにわたしを潤していった。心が柔らかくほとびていく。
かわいいなんて、一生縁のない言葉だと思っていた。あれはロザリーのような女性にこそ相応しいのだと・・・
。けれど実際言われてみると、なかなかいいものだな。嬉しくて、少しばかり照れくさくて、何だかくすぐったい。
わたしは女なのだ。しかも、おまえの前ではとびきりかわいい女でいられるのだ。
わたしは、深いため息をついた。
女に生まれてきた喜びを、こうしてひとつずつ、アンドレは教えてくれる。幸福で窒息してしまいそうだ。目の奥から熱いものがこみあげてくる。それが境界線を越え、ポロリとこぼれおちる寸前、泣くなよと、アンドレが
目蓋にくちづけた。ここでおまえが泣いてるのを見られたら、おれはきっとボコボコにされてしまうと、そう言った唇がもう一度目蓋に押しつけられた。

莫迦・・・。おまえの膝に乗っかって、抱き合っているんだぞ。それは、あまり説得力のない意見だ。今のふたりを見られたら、おまえ、ボコボコではすまないかもしれないな。それは困るから、離れる気はないが、とりあえず涙だけはひっこめよう。
そう思ってぎゅっと目蓋を閉じると、温かな唇が、少し滲んだ涙を受け取ってくれた。

しばらく彼の唇の感触を楽しんでから、ゆっくりと目を開けた。もっともっと幸せになりたくて、欲張りなわたしは彼に尋ねる。
「じゃあ、わたしのどこがかわいい?」
アンドレは驚いたように目を見開いたが、すぐに笑顔で、全部と答えた。
「それでは答えにならない。ちゃんとわたしにわかるように言って欲しい。」
「我が儘娘め。」
「そうしたのはおまえだ。長い時間をかけて、おまえはとんでもない我が儘娘を作り上げたんだ。」
わたしの言葉にアンドレは絶句した。それから、これ以上はないというくらい幸せな笑みを浮かべた。
「その我が儘がかわいくてたまらないよ。」
「他には?」
「つまらないことで拗ねるところかな。」
「それから?」
「意地っ張りなところ。」
「それから?」
「泣き虫なところ。」
「・・・・・」

何だか、ちっともいいところがないような気がする。我が儘で、意地っ張りで、拗ねてる泣き虫女の、いったいどこがかわいいっていうんだ?ふざけるのもいいかげんにしろよ。

そんな気持ちが伝わったのか、黙りこくったわたしに、アンドレはこう言ってくれた。
「我が儘も、拗ねるのも、意地をはるのも、泣き虫なのも、おれだけに見せてくれるおまえだから。だから、たまらなく愛しくて、かわいくて、そして大切なのさ。この男心を、ぜひとも理解してほしいな、オスカル。」

そうか。わたしの《かわいい》は、おまえ限定だったのか。
どうりで誰も言ってくれなかったはずだ。そんな素振りは、おまえにしか見せなかったから、オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェが実はかわいい女だなんて、誰も気づかなかったのだな。
誰が見ても愛らしくてかわいいのは、もちろん魅力的だ。けれど、たったひとりのためだけにそうしているのも、悪くない。そんなことを考えていると、耳元でアンドレが囁いた。
「おまえみたいにいい女が、おれだけのかわいい女でいてくれるなんて、おれは究極の贅沢者だ。」

わかればよろしい。
それでは、おまえにさらなる贅沢をさせてやろう。
わたしは腕に力を入れ、彼を抱き寄せた。
「アンドレ、屋敷に戻ろう。仕事より大切なものが見つかった。今はもっと、わたしのかわいいところを教えて欲しい。」
さっき言っただろうと、照れたような彼の声が返ってきた。
「だめだよ、アンドレ。わたしほどかわいい女は、そうそういないのだろう?それなら、もっと褒めてくれるところがあるはずだ。わたしは、全部聞きたいんだ。」
「とんでもない我が儘お嬢様だ。」
「そこがいいのだろう?」
「そうとう時間がかかるが・・・。」
「当然だ。何年分も聞かせてもらわなくては。」
微笑んで言ってやると、アンドレはとびきりの笑顔で了解と答えてくれた。

馬車の用意をしてくると、頬に小さなくちづけを残し、アンドレは部屋を出て行った。その後ろ姿を見送りながら、わたしは胸に溢れた幸せを、ため息に乗せて解放する。
頼って、甘えて、我が儘を言って。そんなわたしをおまえが愛しんでくれるのなら、かわいい女とはなんて居心地の良いものなのだろう。
屋敷に戻ってからの、アンドレを独り占めにする言い訳をあれこれ考えつつ、わたしは何度目かのため息をついた。愛と幸福に彩られたそれは、まわりの景色や空気までも、同じ色に染め上げていくのだった。


fin.