『微笑みがかたるもの』



 兵舎の片隅にある大きな欅は、おれのお気に入りの場所だ。ここで時折息抜きをするのが、いい気分転換になっていた。
食堂の裏手にあたるので、小一時間ほど前までは昼食をとる兵士たちの声でずいぶん賑やかだったが、今は人影もなく、ひっそりと静まりかえっている。明るい影の下で葉擦れの音を聞いていると、そのまま眠ってしまいそうだ。渡る風が、汗ばんだ体に心地よい。ふっと遠のく意識の片隅に、愛しい顔が浮かんだ。
 恥じらうように染めた頬、もの言いたげな唇、伏せた睫がゆっくりと持ち上げられ、羽のように瞬きする様、言葉よりも雄弁に語るまなざし、微笑み。
 自分だけに向けられるその仕草や表情を思うと、熱いものがこみ上げてきた。今すぐに会いたくなって、胸の内で何度もその名を呼ぶ。やがて、彼女でいっぱいになった心が、唇からこぼれでた。
『おれの・・・』

「何をにやけている?」
ふいにかけられた声に、おれは驚いて目をあけた。
「よう、アラン」
「ようじゃねぇよ。けっこうなご身分だぜ。こんなとこでサボリかよ。」
アランは隣に腰をおろしながら、いい風だと大きく伸びをした。つっかかってくるのは、寝起きのせいだろうか。確か夜勤明けだった。昼の眠りは、十分なやすらぎを彼に与えてくれなかったようだ。うっすらと伸びた無精ひげを横目に見ながら、それにしてもと、おれは眉をひそめた。嫌なところを嫌なヤツに見られたものだ。気恥ずかしい思いを隠すように、大袈裟に抗議してみせた。
「サボリだなんて人聞きの悪い。さっきまで3班の様子を見に行ってたんだ。朝から働きづめで、やっと休憩できた人間に言う言葉かねぇ」
「3班?ああ、議場警備だったな。相変わらずか?」
「ああ」
 アランは、そうかとため息混じりに言って、首をパキパキ鳴らした。疲れているのだろう。もうずいぶん長く休暇をとっていない。加えてつい数日前まで、こいつはアベイ牢獄にいたのだ。こんな時代だから仕方がないと言えばそれまでだがと心配してやっているのに、ヤツはおれの顔を見て、意味ありげにニヤリと笑った。嫌な予感が背筋を走った。
「なんだよ」
「いや、働きづめでやっと休憩できた人間にしちゃぁ、嬉しそうにやにさがってたなぁと思ってな」
「やに・・・!失礼なヤツだな。疲れてぐったりしてたろうが!!」
「いやいや。見てる方が恥ずかしくなるくらいニヤニヤしてやがったぜ。いやだねぇ」
 こいつ、確信犯だ。
アランの言うことが本当なだけに、反論できない。どんなに言葉を尽くしたって、言い訳にしか聞こえないだろうから。それは自分が一番よくわかっている。確かに、恋人の面影を抱いて、嬉しそうにしていた。間違いない。右手で額をこすりながら、くそぅ!と呟いた。
「おお、これはなんとお下品な」
「ああ、おれはお下品だよ。昼間っからサボってニヤニヤしてるような奴だからな」
 半ばやけくそで答えると「ははぁ、ついに認めやがったか!」と、勝ち誇ったようにアランはおれの背中をばしんとたたいた。そしてそのまま肩を引き寄せるとおれの顔をのぞき込み、唇の片方を上げてニッと笑った。
「で?」
「なにが?」
「ニブい野郎だぜ、ったく!首尾はどうだって聞いてんだよ」
「いや、首尾ってようなものは別に・・・」
「いいじゃないか、この際。何もかも話しちまえよ。今更隠さなくたっていいだろうが?」
 おれの脇腹を肘でぐいぐい押しながら、さぁさぁとアランがせっつく。おれは急に不安になった。
 こいつ、いったい何をどこまで知っているんだろう?
 彼女とおれの関係が今までとは違っていることを・・・

 長い間求め続けていたものを、ようやくこの手に得た。
朝の目覚めから、夜眠りに落ちるまで、いや、たぶん眠りの中でさえ、彼女の面影が離れない。時計が時を刻むように、胸の内で何度も何度も繰り返し彼女の名を唱える。以前にも増して、愛と慈しみを込めて。
おれの毎日は今まで以上に、色鮮やかに彼女に染められていた。
彼女もまた、日々、変わっていくようにみえた。 
まなざしや声音が柔らかく、微笑みがあでやかになった。抱きしめたとき、瞬間かたくなっていた体が、優しく自然に、おれに添うようになった。言葉よりも仕草で、愛を語ることが増えた。
その姿はふたりでいるときだけのものだと、自分だけが知っている彼女なのだと、つい今し方まで思っていたのだ。しかし、ほんとうにそうなのだろうか。人の目にさえ、おれたちは変わったと、そう見えているのだろうか。もしそうなのだとしたら・・・。

ふいに黙り込んだおれをいぶかしげに眺めて、アランは肩をすくめ舌打ちした。
「まったく食えねぇ野郎だぜ。せっかくあれこれ突っつきだして、酒の肴にしようかと思ったのによぉ。」
「アラン、おれは」
「ああ、ああ、わかってるよ!」
 おれの言葉を遮る言い方がずいぶんきつかったので、思わずヤツの横顔を見た。怒っているような、それでいてどこか悲しそうな、不思議な表情をしていた。その顔のまましばらく一点を睨んでいたアランは、両手で短い髪をかきあげ、大きく息を吐いた。そして、しばらく言いよどむように唇をなめてから、「なぁ、アンドレ」と、恐ろしく静かな声で言った。
「なぁ、アンドレ。隠さなきゃならないことか?身分の違うことは、そんなにも罪深いことなのか?だったら、おれの妹と結婚するはずだった男は、どんなに大きな罰を与えられるんだろう?」
「アラン、それは・・・」
 アランの妹ディアンヌの婚約者だった男は、金に目がくらみ、裕福な平民の娘と結婚したのだった。そのせいで、ディアンヌは自分で命を絶った。
「あの馬鹿野郎を正当化しようってんじゃない。おれは生きている限り、奴を許さない。だけどな」
 アランは、ふっと目を伏せて笑った。
「そんな奴もいるんだぜ。身分が違っても、金目当てで堂々と結婚するような奴がな。・・・・・・本当に大切に思い合っているんなら、誰に隠す必要がある?」
 嬉しいくせにカッコつけてんじゃねぇよと、小バカにしたように鼻を鳴らすと、アランは両手を頭の後ろで組み、欅の幹にもたれた。

 そんなふうに考えたことはなかった。おれたちの関係は、公にできるものではなく、むしろ包み隠さねばならないのだと、そう思ってきた。なのにアランは、隠さなくてもいいと言うのだ。本当に、そんなことが許されるのだろうか?彼女を愛していると、彼女もおれを愛してくれていると、この明るい日差しの元で宣言してもいいのだろうか?
「アラン、おれは・・・おれとオスカルは」
「おっ!!やっとその気になったか?確かに聞いたぜ、おれとオスカルはってな。よし、そこからだ。その続きを聞かせてもらおうか」
「おまえ!鎌かけたな!?」
「何言いやがる。おまえと隊長がみんなに知らせたくってたまんねぇってツラしてるから、水向けてやったんだろうが」
 ちょっと待て。今のは聞き捨てならないぞ。おまえと隊長が、だって?ということは、オスカルもおれと同じく、ニヤニヤと嬉しそうにやに下がってたってことか?
「隊長はさ、わかりやすいな」
 おれが問うより先に、アランはクックと笑いながら言った。
「おまえがそばにいるときといないとき、面白いくらい顔が違うんだぜ」
「そ、そうか?」
「おうよ。おまえは長年鍛えてきたから、ポーカーフェイスが板についてるんだがよ。隊長は免疫がないせいか、すぐ顔に出ちまうんだな。あれじゃあ、バレバレだ。ジャンの野郎にだってわかっちまうぜ」
 ああ、オスカル!あのウブなジャンにもわかるだなんて、おまえいったい、どんな顔でおれを見ていた?
 困ったことだと思いながらも、心のどこかが喜びの声を上げている。嬉しい嬉しいと、鐘の音のように体中に鳴り響く。彼女はおれを愛している、これは夢ではない。

「・・・・・・そうか」
「そうだよ」
「彼女がそんなじゃ、どうしようもないな。お察しのとおりだよ。さっきはずっと、オスカルのことを考えてた。相当だらしない顔だったろう?」
 まったくだ、見られたもんじゃなかったと、アランは大きな声で笑った。それからおれをまっすぐに見つめ、よかったなと微笑んだ。大きく柔らかな笑顔だった。
「すまない。おまえにこんな事を言うのは」
「やめろよ。・・・・・・隊長が幸せなら、いいさ。いいか、絶対に泣かすなよ」
 おれは黙って頷いた。
アランは、それを確認して立ち上がると、制服についた土をパンパンと払った。眩しそうに目を細めて、「ちくしょう、まだ寝足りねぇ。クラクラしやがる」そう誰に言うでもなく、ひとりごちた。
「もう少し寝るわ」と、向けられた背中に呼びかける。
「アラン!!」
 ヤツが立ち止まる。振り返りはしない。おれは感謝を込めて言った。
「ありがとう」
 アランは背中を向けたまま、右手を軽くあげた。
「隠さないよ。あるがままの姿でいる。おれもオスカルも」
 あげられた手がぐっと拳を作ってみせる。
「時々は惚気てもいいか」
 ここまで格好良く決めてきたアランも、これにはさすがに振り向いた。しかめっ面でおれを睨んで声に出さず口だけで『バ〜カ!』と言い捨てると、「やってらんねぇや」と大声を空に飛ばした。

 大股で去っていくアランの姿が消えるのを見送って、おれも立ち上がった。執務室をめざし、歩き出す。心の中で彼女の名を繰り返しながら歩く。
 身分の違うおれたちが愛し合うことは、公に認められない。けれど、この気持ちは止められない。人が人を思うということは、とても自然なことなのだ。
 執務室の扉を開くと、オスカルはダグー大佐と話している最中だった。「失礼します」と声をかけると、ふたりは顔をあげた。はじけたようなオスカルの笑顔が見えた。
「おお、アンドレ・グランディエ。ご苦労だった」
にこやかに迎えてくれるダグー大佐の傍らで、オスカルはおれを見ていた。思わず微笑み返したくなるような優しいまなざしで。
「今日はどうだったかね」
 ダグー大佐は、おれに議場のことをあれこれ尋ねる。それに答えている間も、彼女の視線はおれに当てられたままだった。アランの言うとおり、これではどんなヤツにだって、ふたりの間に何があったのかがわかってしまう。けれど、それでいいのだ。
おれは、ダグー大佐の質問に返事をしながら、オスカルを見た。ふたりの視線が絡み合った。彼女にわかるように、ほんの少し微笑んで見せる。熱心に頷き、おれの報告を聞いている大佐のそばで、オスカルは、花がほころぶように笑った。

そして夜。
ふたりで過ごす時間は、何よりも幸せで美しい。何も言わなくても、ただそばにいるだけで満たされる。
何度目かのくちづけの後、オスカルは何かを思い出したように、小さく「あ」と言った。
「どうした?」
「・・・・・・今日のことだけど」
「うん?」
「おまえ、笑っただろう?ほら、ダグー大佐に議場の様子を説明しているとき」
「ああ、笑ったな」
「ダグー大佐は変に思わなかったろうか?あそこは笑顔で言うところではなかったぞ」
 真剣に心配しているオスカルがおかしくて、思わず笑ってしまった。おいおい、おれ以上に満面の笑みをうかべていたのは、おまえだぞ。そう言うとオスカルは、「わたしは笑ってなんかいない」と、口をとがらせた。
「いいや、笑っていた。おれを見て、嬉しそうに」
「ばかやろう!わたしが人前でそんなことをするはずがないっ!」
「してたよ」
「してない!」
 しばらく、した、していないと言い合ったが、やがてそれもくちづけに紛れてしまった。恋人たちには、小さな諍いさえ愛の行為のきっかけになるのだ。オスカルは上目遣いにおれを睨んだ。
「ダグー大佐が何か気づかないかと、冷や冷やしていたんだ」
「誰かにおれとのことを知られるのは、嫌か?」
 真顔で聞いてみた。ふいに問われて目を見開いたオスカルは、何度かまばたきをしてからゆっくりと顔を横にふった。
「嫌なものか。わたしはおまえを愛しているし、おまえに愛されている。それがどんなにわたしを幸せにしているのか、おまえは知らないのか」
 オスカルはおれの頬を両手で挟んでくちづけた。唇に、頬に額に、そして瞼に。
「愛してる、アンドレ。昼も夜も、いつだっておまえを探している。恋しくて会いたくて、いつもそばにいてほしくて。おまえの姿を見つけたときには、喜びではちきれそうになる。」
 だから多分わたしは笑っていたんだろうと、オスカルは熱い頬をおれの胸に寄せた。
「こんなにも誰かに恋する日がくるなんて、思いもしなかった」
 吐息にのせて、オスカルが囁く。
おれも同じだ、オスカル。どんなに愛しても愛しつくせない。こんなに深い思いがあることを、おれは今まで知らなかった。彼女を抱く腕に力をこめる。
「なぁ、オスカル」
「ん?」
「おれたちは、ニヤニヤと嬉しそうにやにさがっているらしいぞ」
「なんだって?」
「誰かに言いたくって仕方ないって顔なんだってさ」
「なんだ、それ?」
「でも、それでいいんだそうだ」
 不審げにおれを見やるオスカルのまなざしが、ふいに甘やかに変わった。しなやかな両腕をおれの首に巻き付けて、「了解」と囁く。
「なんのことかはわからないけれど、おまえがいいと言うのなら、それでいい」
 そうだ、オスカル。おまえは今のままでいい。誰になんと言われようと、今、おれたちは幸せなのだから。おれも今のまま、変わらずおまえを愛し続けよう。
 アランの声が、耳に蘇った。
『本当に大切に思い合っているんなら、誰に隠す必要がある?』
 何度もその言葉を噛みしめる。ゆっくりと咀嚼されたそれは、おれの中に深く染み渡り、やがて、オスカルにも伝わっていくだろう。
 人があるべき姿でいることが不自然でない。そんな時代が、いつかやってくるだろうか。身分に捕らわれず、愛し合い睦び合える日が。おれたちが、その礎のひとつになれればいいな、オスカル。
『やっぱり、時には惚気させてもらおうかな、アラン』
 胸の内で呟いて、小さく笑った。オスカルがおれを見上げ、不思議そうな顔をする。
「幸せすぎると、人はむやみやたらと笑ってしまうらしいな」
 そう言うと、オスカルは微笑んだ。昼に見たのと同じ、花がほころぶような笑顔だった。